2017.04.19

「LGBT カトリック・ジャパン」 のウェブサイトにそこはかとなく漂う
狂気(善意の部分はいい。しかし、狂気を孕んでいちゃ駄目だろ)7

イエズス様の御言葉

創造主が初めから人間を男と女とに造り、そして、「それゆえ、人は父母を離れて自分の妻に結ばれ、二人は一体となる」と言われたことを、あなたがたはまだ読んだことがないのか。したがって、彼らはもはや二人ではなく、一体である。それで、神が合わせたものを、人間が離してはならない。

聖マタイ福音書 19:4-6(フランシスコ会訳)

「同性愛について聖書は何と言っているか」についての論議では、レビ記や聖パウロの書簡が取り上げられることが多いが、上のイエズス様の御言葉は、意外と、取り上げられることが少ないと思う。
しかし、これほど端的に、人間の性に関する神の創造原理をドンと言っているものはない。人はどう理屈をこねれば、これを否定したり遠ざけたりすることができるのか。

文脈だ? 前後関係だ?

人はよく、文章を読む時には「文脈」を、「前後関係」を、よく読まなければならない、と言う。その通りである。しかし、しばしば、“知的” な人たちの中に、「文脈」や「前後関係」の大切さを説きながら、結局あくまで、自分好みの「文脈」や「前後関係」を “自ら作って” いるのでしかない人たちが居る。(実例を後で見る)

小笠原氏の屁理屈よりも遥かに立派

主の上の御言葉の中には「二人は一体となる」とある。で、或る「脱同性愛者」を名乗る日本人のクリスチャンの証言に次のようなものがある。(勝手に引用、すまん)

私が同性愛から解放された証:
同性愛からの解放ージーザスと生きる!

(…)

聖書の創世記の中に、こう書かれてる。

“神様はこう考えました。
人が一人でいるのはよくない。
彼を助けるものがいなくては。
…….アダムの肋骨で女を造り、彼のところへ連れて来ました。
「ああ、これならぴったりです!」
アダムは思わず叫びました。
「まさに私の半身です。」
人が両親の元を離れ妻と結ばれ、二人が一体となるのは、こうした意味があるからです。』”

この言葉が真実を表している。
神様は、アダムを造った後に、イブを作った。
ジョンをつくったわけでもなければ、デイビッドをつくったわけでもない。
女であるイブを作った。
男と一体となるために。
神様は男をつくることもできたはずだ。

なのに、女を造った。
なぜなら、男は男と一体になれないからだ。

聖書を読んだことのない人や、そんな話は信じないという人は、「はっ?」って思うかも。

聖書の言葉だけでなく、他にもこのことが真実である確かな証拠がある。
実際に男と女の体を比べてみよう。
どう頑張っても、女と女は肉体的に一体になれない。
男と男は、相手の中に入ることはできるが、正しい位置ではない。
穴とその物が一体になるわけではない。
しかも、後ろ向きだし。。。

確かに、人間は男と女が一体になるように造られてる。

(…)

やや露骨な表現があったが、真実を言っていると思う。

人間の性に関する神の創造原理──「神は人間を男と女に造った」──を素直に受けることを「基礎」としなければならない。

この「基礎」の上に立って、メリッサ・フライリーア のように、主に喰ってかかった方が、まだ良い。

“知的” な人の「心配しなくていいです。主はあなたを “存在論的な男” に造られたのです」というような甘言に乗るよりは。

※ 上のブログの人が引用していた聖句は「リビングバイブル」からのようだ。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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