2017.04.19

「LGBT カトリック・ジャパン」 のウェブサイトにそこはかとなく漂う
狂気(善意の部分はいい。しかし、狂気を孕んでいちゃ駄目だろ)11

前々回 のこの部分。

つまり,聖パウロが非難しているのは,レビ記 18,2220,13 において禁止されているような衝動的性行為としての同性間性関繋である.

私たちは今、「小笠原氏は聖パウロの言葉を正しく受け取っているか」を見ているわけだが、そうしている最中[さなか]に、それと同時に、「小笠原氏はレビ記の言葉を正しく受け取っているか」も見なければならない羽目に陥るようである。と云うのは、彼は、レビ記のそれらの箇所は同性愛行為を禁じているが、それは「衝動的」な形態の同性愛行為だけを禁じているのである、と言っているからである。レビ記が本当にそう言っているかを後で見よう。

しかし、それにしても、その「衝動的」という言葉はやや漠然としている。私たちは「知的な会話」を披歴しているのではなく、全く「人生を調べて」いるのであるから、もう少し “掴みどころ” のある話し方を期待したい。と思ったら、小笠原氏は同じ記事の別の箇所で、この「衝動的」という言葉に少し具体的なイメージを盛っている。〔 〕は私による付加。

LGBTCJ blogspot

レビ記 18,22 および 20,13 において禁止されていることは,

「聖性の律法」の文脈において読解されるなら,heterosexual

〔異性愛〕の男が,性的衝動に駆られて,女に対して姦淫や強姦を犯すのと同様に,男に対して – なぜなら,対象となる女が手近に存在しないがゆえに,女の代わりに男に対して – 姦淫や強姦を犯すことである.そこにおいても,かかわっているのは,gay どうしが真摯かつ誠実に愛し合うことではない.

つまり彼は、「男が性的衝動に駆られて女に対して姦淫や強姦を犯すように、男が男に対して、手近に女が居ないからという理由で、女の代用として、性的衝動に駆られて、襲い、或いは言い寄り、姦淫や強姦を犯すこと」を称して「衝動的な同性愛行為」と言っているのである。

私などは、男が「手近に女が居ないから」という理由で、「女の代用」として、男に襲い掛かったりするものなのかと思い、ビックリするのであるが、小笠原氏はビックリしないようである。(さすが精神病理学者。違うか。どうでもよい)

しかし、それはともかく、最初の疑問に立ち返ろう。すなわち、レビ記は本当に「男が性的衝動に駆られて男に対して姦淫や強姦を犯す」という形態の「同性愛行為」だけを禁じているのであろうか? 調べてみよう。

レヴィの書

(バルバロ/デルコル訳)

第18章 1 主は、モイゼにおおせられた、2「イスラエルの子らに話しかけて告げなさい  、“私は、あなたたちの神、主である。3 あなたたちが住んできたエジプトの国や、あるいは、これから私がみちびき入れようとしているカナアンの地のならわしにしたがって、ふるまってはいけない  。4 あなたたちは、私のおきてを実行し、私の法令をまもり、それにしたがって歩まねばならない。私は、あなたたちの神、主である。5 私の法令とおきてとをまもれ。こうする人は、生命をみいだす。私は主である。

18章はこのように「エジプトの国やカナアンの地のならわし」(つまり「異教」の地の「偶像崇拝」に絡むならわし)についての言及から始まる。

続く6節から禁止事項の列挙が始まる。

6 だれも、自分の近親の女に近づいて、それをおかしてはいけない。私は主である。
7 あなたの父、あなたの母をおかしてはならない、あなたの母だから、おかしてはならない。
8 あなたの父の妻をおかしてはならない、あなたの父をはずかしめることになるからである。
9 あなたの姉妹をおかしてはならない。あなたの父の娘、あるいは、あなたの母の娘をおかしてはならない。かの女が家のなかで生まれたとしても、家のそとで生まれたとしても区別はない。
10 あなたの息子の娘、あなたの娘の娘をおかしてはならない、自分自身をはずかしめることになるからである。
11 あなたの家で生まれた、あなたの父の妻の娘をおかしてはならない、あなたの姉妹だからおかしてはならない。12 あなたの父の姉妹をおかしてはならない、あなたの父の肉親だからである。13 あなたの母の姉妹をおかしてはならない、あなたの母の肉親だからである。14 あなたの父の兄弟をおかしてはならない、つまり、かれの妻をおかしてはならない、かの女は、あなたのおばだからである。15 あなたの息子の嫁をおかしてはならない、かの女は、あなたのむすこの妻だから、あなたはおかしてはならない。16 あなたの兄弟の妻をおかしてはならない、あなたの兄弟をはずかしめることになるからである。17 ある女とその娘とをともにおかしてはならない。その人のむすこの娘、あるいは、娘の娘もおかしてはならない、その人の肉親だからこそ、そうするのは、はずべきことである。

日本語の「おかしてはならない」という語感から、日本の或る種の男は(性愛に obsess されているような男は。さだめし、エロチック晋也などは)、これをいかにも「女を襲う」的な、「強姦」的な、「衝動的」なことを言っているものと勘違いするかも知れない。しかし、これは本質的にはただ「不適切な性的関係」をいちいち指定して教えているだけだろう。「あなたにとって斯く斯くの者と性的関係を結ぶな」と。英訳聖書では「Do not have sexual relations with ~」という言い方の連続になっていたりする。参照

つまりこれは、「それらの性的関係は、衝動的・強姦的・暴力的なものであってはいけない、しかし、合意的・相愛的なものであったら良い」というような話ではないのである。つまりこれは、そこに列挙された性的関係の「持ち方」の話ではなく、それらの性的関係「そのもの」についての話なのである。「あなたはあなたの母とは交わるな。たとえ合意の上であってもそれは悪い」という話なのである。

そして、やがて22節に「同性愛」のことが出て来る。「同性愛」に関してだけは、性的関係の「持ち方」の話になるわけか?

私はあなた*を騙そうとも説得しようともしていない。どうか、あなた自身の目で聖書の言葉を読んで欲しい。

* あなた: 仮想的な或る種の読者。以降も。

18 ある女と、その姉妹を同時にめとるな、お互のねたみをおこさせないように。つまり、その女がまだ生きているうちに、その女の姉妹を自分のもとにいれるな。
19 ある女が、月のものの不潔のあいだ、かの女にふれるために近づくな。
20 自分の寝床に、自分の近親の妻をいれるな、あなたが不潔なものとなるからである。
21 自分の子どものだれをも、モレク  の前を通してもらうために、わたしてはいけない。これをまもれば、あなたの神の名を汚さないであろう。私は主である
22 女と寝るようにして、男と寝るな、恥のきわみである23 あなたは、不潔とならないために、自分の寝床に動物を入れるな。女は、動物と交じわるために、動物に近よってはいけない。これは、恥のきわみである

先ず、「偶像崇拝」のことから片付けてしまおう。
確かに、「同性愛行為」について言った22節の直前、21節に「モレク」の名が出て来る。しかし私たちは、これをもって「ここに於ける同性愛行為の禁止は、偶像崇拝に関係した時だけの話である」と言うことができるだろうか? 「そうだろう」とあなたが言うならば、私は呆れる。

「なぜ呆れるのか」だって? 説明すると、レビ記のこの章の冒頭には「偶像崇拝」を匂わす言葉があるけれども、それに続く6節から17節をもう一度見て欲しい、これらはたとえ「偶像崇拝」と関係なく行なわれても悪いことである。また「同性愛行為」について言った22節の直後、23節の「動物と交じわること」も同じである(一体誰が、「獣姦は、偶像崇拝と結びついていなければOKだ」などと言うだろう)。22節もこのような文脈(この言葉は今や嫌な言葉になってしまったが)の中に置かれたものなのである。

次に、もう一度問おう、レビ記のこれらの言葉は、それらの性的関係に於ける「衝動性・暴力性」のことを問題にしているのか? 「相愛的なものなら良いが、暴力的なものなら悪い」というような話なのか? 「そうだろう」とあなたが言うならば、私は再び呆れる。そうではなく、これらの話はもっと単純に「これこれの性的関係は悪い」という話なのである。何故なら、私はあなたに訊く──

20節は「自分の寝床に、自分の近親の妻をいれるな」である。これは「自分の寝床に、衝動的・暴力的には、自分の近親の妻をいれるな」という話なのか?

23節は「女は、動物と交じわるな」である。これは「女は、衝動的・暴力的には、動物と交じわるな」という話なのか?

呟き: このような馬鹿々々しい検討をしなければならないほど、あなた方は「分からず屋」である。

違うだろう。なら何故、あなたは、22節の「男は、女と寝るようにして、男と寝るな」だけが「男は、衝動的・暴力的には、女と寝るようにして、男と寝るな」という話であると主張するのか。

確認しよう。小笠原氏の言葉である。

つまり,聖パウロが非難しているのは,レビ記 18,2220,13 において禁止されているような衝動的性行為としての同性間性関繋である.

しかし、「聖パウロが非難しているのは,」も何も、その前に、レビ記自体がそんなことを言っていないのである。

従って、彼は上の言葉の前にも、もっともらしく「旧約聖書から出発して読解されるべきである.」とも言っているが、それも無効である。

私はこの記事で何度か「あなた」とか「あなた方」という代名詞で呼びかけ、それを「仮想的な或る種の読者」と説明しておいた。しかし、ここではっきり言うと、それは小笠原氏の言説に僅かなりと惹かれている人たちを想定してのことであった。私はそのような人たちに言いたい、小笠原氏の言説はこのように、どんなに「もっともらしく」見えようと、どんなに「難しげ」で「高等そう」で「有り難そう」に見えても、よく見ると、一つの「空中楼閣」なのであると。

率直な、ちょっと残酷にも響く言葉を使わせてもらえば、「嘘」なのである。「嘘」には二種類ある。一つは「意識的な嘘」、十分に分かった上での嘘。もう一つは、本人もそれと分からずについた「結果的な嘘」である。小笠原氏に於いてはどちらなのか、私は知らない。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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