2017.04.19

「LGBT カトリック・ジャパン」 のウェブサイトにそこはかとなく漂う
狂気(善意の部分はいい。しかし、狂気を孕んでいちゃ駄目だろ)12

聖書の言葉の順当な読み方

「同性愛」に関して聖パウロが何と言っているかを見てみよう。

ローマ人への手紙

(フランシスコ会訳)

1 16 わたしは福音を恥としません (8)。福音はユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力だからです。17 人を救うのは神の義 (9) であり、その救いはひとえに信仰を通して与えられるということが、福音に現われています。「正しい人は信仰によって生きるのである(10) と記されているとおりです。
18 正しくないことを行なって真理をはばんでいる人々の、あらゆる不信の心と正しくないことに対する神の怒りが、天から現わされます。19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らには明らかだからです。神がそれを明らかに示されたのです。20 神の永遠の力や神性のような、神についての目に見えない事柄は、字宙創造の時から、造られた物を通して明らかに悟ることができます管理人1。したがって、彼らには弁解の余地はありません。21 それというのも、彼らは神を知っていながら、神としてたたえず、感謝をささげることもせず、むなしい思いにふけり、心はわかろうとせず暗くなっているからです (12)22 彼らは、みずから知恵ある者だと称しながら、愚かな者となり、23 栄光に輝く不滅の神の代わりに、滅び去る人間、鳥、獣、はうものなどの形をした偶像を礼拝しています (13)
24 それで、神は彼らを、心の欲望のままに、汚らわしい行ないにお任せになり、彼らは互いに体を辱めるようになりました。25 彼らは、まことの神を偽りの神と取り替え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えています。造り主は永遠にたたえられますように。アーメン。
26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられました。女は自然な関係を自然にもとる関係に替え、27 男も同じように、女との自然な関係を捨てて互いに情欲を燃やし、男と男が恥ずべき事をして管理人2、無軌道な行為に対する当然の報いをわが身に受けています。
28 彼らは、神を深く知ることに価値を認めていなかったので、神は彼らを価値のない考えのままに任せられました。それで、彼らはしてはならないことをしています。29 彼らは、あらゆるよこしまなことと悪と貪欲と悪意に満ち、ねたみと殺意と争いと欺きと敵意にあふれ、陰口を言い、30 そしり、神を憎み、人を侮り、たかぶり、自慢し、悪事を編み出し、親不孝で、31 わきまえがなく、約束を守らず、薄情で、無慈悲です32 こういう者たちは死に (14) 値するという神の定めを、彼らはよく知りながら、みずから行なうばかりでなく、そのようなことを行なう人たちに賛同しています。

(14) ここでパウロが考えている死は、単に肉体的な死ではなく、罪びとの運命である永遠の死のことであり(6:20~21参照)、それはまた神の国から締め出されることにほかならない(一コリント6:10、ガラテヤ5:21参照)。

管理人1

神の創造の意図

20 神の永遠の力や神性のような、神についての目に見えない事柄は、字宙創造の時から、造られた物を通して明らかに悟ることができます。

この聖句を、以前見た日本人の脱同性愛者の証言に絡ませて見ることができると思う。即ち、彼女は「どう頑張っても、女と女は肉体的に一体になれない。男と男は、相手の中に入ることはできるが、正しい位置ではない。穴とその物が一体になるわけではない」というところから、「確かに、人間は男と女が一体になるように造られてる」と、「神についての目に見えない事柄」、つまり人間の性に関する「神の創造の意図」を確信したのである。

参照

事柄がドギツ過ぎて、カトリック信者は誰もはっきりとは訊こうとしないだろうけれど、私は小笠原氏にはっきり訊きたい。現代の所謂「同性愛者」を認めるあなたは、男性の同性愛カップルに於いて、一方の男性が他方の男性の「肛門」に “入れる” ことも可とするのか? 肛門とは本来、大便が通るための道だが。戻る

管理人2

「文脈」に依らず
「前後関係」に依らず

言葉の「意味」は、時に、「文脈」に依らず、「前後関係」に依らず、ただ一つの「文」によって、更には一つの「文節」によってさえ、確定する。こんなことは当り前ではないか。

注)ここに言う「文節」とは、日本語文法に於いて正確に言うところのそれではなくて、ただ「文より短い部分」という程の意味。

「文脈」がどうの、「前後関係」がどうのと言うのが口癖の “似非高等” な論述に惑わされず、聖パウロはどうしても、基本的にはどうしても、「同性同士の性的関係」(つまり同性愛)を否定の対象としている、ということを認めなければならない。

それを認めたら「どん詰まり」しかない、「絶望」しかない、というわけではなく、反対に、そこから「真の旅」が始まるのだと思う。あなたは「お前に当事者の苦労が分かるものか。簡単に『真の旅』などと言ってくれるな」と言うかも知れない。まあ、そうである。しかし、私が既に幾つか紹介したように、かつての「当事者」たち、かつて同性愛を生きていた決して少なくない人たちが、それ(神への真の旅)について証言している。*

* 自らの LGBT に悩むクリスチャンは、或る意味、大して苦労もなくノホホンと暮らし、それで「クリスチャンでござい」と言っている一般のクリスチャンよりも、神にしっかり手を届かせるチャンスがあるということかも知れない。

さて、26、27節に目を留めよう。下線を付した。

26 … 女は 自然な関係 を 自然にもとる関係 に替え、27 男も同じように、女との自然な関係 を捨てて互いに情欲を燃やし、男と男が恥ずべき事をして、…

こういう事を検討しなければならないこと自体、馬鹿みたいな話である。一体全体、人はどうしたら、聖パウロの上の言葉から「聖パウロは私は、ではなく、聖パウロは)現代の私たちが知る所謂『同性愛』のことは非難していない」などという結論を引くことができるのか。(私たちとって「読む」とは何か

そんなことを言う人は、たとえ「善意」からであっても、謂わば「善意の偽作師」である。

何故ならば、聖パウロが「例外」を設けることなしに「女同士の性的関係」を否定していることは、26節の《自然な関係を自然にもとる関係に替え》という「文節」によって確定的だからである。

また何故ならば、聖パウロが「例外」を設けることなしに「男同士の性的関係」を否定していることは、27節の《女との自然な関係を捨てて》《男と男がが恥ずべき事を》という「文節」によって確定的だからである。(「恥ずべき」という形容詞は現代の同性愛者たちに当てるに相応しいかどうかは別にして)

小笠原氏は17節の「正しい人は信仰によって生きる」(彼の訳によれば「信仰によって義なる者は,永遠の命において生きることになる」)を前提のように持ち出して、結局、人はキリストに対する信仰を持つならば義とされ、正しく生きるであろうから、そのような場合、「男と男」また「女と女」が性的関係を持っても問題ない、と主張するのである。

しかも、それだけならまだしも(ということにもならないが)、彼は何と、その主張を自分に帰すのでなく、聖パウロに帰すのである。「聖パウロがそう言っている」と主張するのである既出。ここが特に──あまり侮蔑的に言ってはならないが──彼の頭が「もやもや」なところである。

小笠原氏は、自分が英語やフランス語に精通していることを隠さない。ギリシャ語の世界を調べるのにも特に苦労しないことも隠さない。また、聖書は原語にまで遡って読まなければ本当の意味は分からない、と豪語する。しかし、そうでありながら、「アカデミック」より手前にあるところの「生きた人間の生きた言語表現」を読み取ることに於いて、どうも感覚がおかしくあらせられるようである。

と云うのは、もし聖パウロの心の内に小笠原氏が言う通りのものがあったとしたら、聖パウロの “物の言い方” は、到底あのような否定の強勢を置いたものにはならなかっただろうからである。つまり、その時聖パウロは、「自然な関係を自然にもとる関係に替え」「女との自然な関係を捨てて」「男と男が恥ずべき事をして」と云った、端的かつ率直な言葉は置かなかっただろうからである。特に「男と男が恥ずべき事をして」という言い方などは、「男と男が何事かする」ことに対する、およそ「例外」というものを認めない、極めて強い否定の強勢を置いた言い方である。人は本来、このたった一つの「文節」だけで、迷いの霧を晴らさなければならない。

譲って考えてみようか? 仮に、聖パウロが小笠原氏が言うようなことを心に持していたとして、その時、文章的に、文章心理学的に、どうなるかと。──私はこう思う。その時聖パウロは、必ずや、自分が最初に置いた否定の「範囲」を正確化する必要を感じて、つまり「例外」もあるということを人々にはっきり教える必要を感じて、言葉を足しただろうと。例えば、次のように。

① 彼らは、愚かにも真の神を認めようとはせず、偶像を礼拝しています。それで、神は彼らを彼らの心の欲望のままに任せられました。それで彼らは、女は自然な関係を自然にもとる関係に替え、男も同じように、女との自然な関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男と男が恥ずべき事をしています。

② しかし、思い違いをしないでください、私は今、「男と男が恥ずべき事をして」と言いましたが、これは偶像を礼拝している人たちのことで、真の神を信じている私たちのことではありません。信仰によって義とされ、正しく生きている私たちにおいては、たとえ「男と男」が性的関係を持ったとしても、それは「恥ずべき事」ではありません。たとえ「女と女」が性的関係を持ったとしても、それは「自然な関係を自然にもとる関係に替えた」ということにはなりません。たとえ「男と男」が性的関係を持ったとしても、「女との自然な関係を捨てた」ということにはなりません。私たちにおいてはそういうことになります。

そのように言うほかはなかったであろう。

しかし人は、もし言語感覚が正常であるならば、上のような言い方も、土台、全くおかしなものだと知るのである。何故ならば、このような構文(①+②)では、① に於ける「男と男が恥ずべき事をして」等の強勢は、ほとんど意味を失うからである。全体として「なんじゃこりゃ」の構文になるからである。(わかるよね)

そのような矛盾的構文はあるものではない。あるとすれば、小笠原氏のような「学究的もやもや」の頭の中にだけにあるのである。

現代の実情に合っていない側面

しかしそれでも、私は、同性愛を非難する聖書の言葉(レビ記であれ聖パウロの書簡であれ)には、現代の同性愛者たちの多くの実情とは合っていない部分もあると認める。

それは、「同性愛に関する聖句」のページで、レビ記の記述に対して或る意味 “反対” して、「私は、現代の、悪魔崇拝をしているわけでも共同狂乱をしているわけでもない同性愛の人たちが『死刑にあたる』とは思わない」と書いた通りである。

そして、上の聖パウロの言葉にしても、私は、現代の所謂「同性愛者」たちの多くが「29 … あらゆるよこしまなことと悪と貪欲と悪意に満ち、ねたみと殺意と争いと欺きと敵意にあふれ、陰口を言い、30 そしり、神を憎み、人を侮り、たかぶり、自慢し、悪事を編み出し、親不孝で、31 わきまえがなく、約束を守らず、薄情で、無慈悲」であるとは思わない。

レビ記や聖パウロに於いては、彼らの時代には一定の広い地域で「偶像崇拝」(悪魔崇拝)が蔓延していて、そこの人々の悪行が酷かったので、勢い、あのような厳しい口調になったものだろう。
聖パウロも、きっと、現代の同性愛者たちの多くを*見れば、そこまでのこと(29~31節)は言わないに違いない。

* ただし、現代にも「同性愛を促進」するサタニストたちは居るだろうし、神はそういう者らには最終的に容赦ないだろう。

しかし、「世間」に於いてでなく「神」に於いて「同性愛」が基本的に否定の対象であることはそのままである。私は同性愛の人たちを苛めたくて言うのではないが、それは永遠に変わりそうにない。何故なら、神の人間の性に関する御意図は、やはりどうしてもココにあるからである。

シャーリン・コトランの言葉を借りて言うならば、私たちには次の二つの観点が必要だ。

しかし、私は皆さんに、ゲイ・コミュニティの中のそのような醜い部分はゲイ・コミュニティの大部分のメンバーを代表しているわけではないということも知って欲しく思います。大部分のゲイとレズビアンは勤勉な人たちであり、サンフランシスコ[の街路]で子供たちの前を裸になって練り歩くことなど決してしない、良識ある人たちなのです。

脱同性愛者たちの証言 シャーリン・コトラン(2

同性愛問題に関して神の御言葉ははっきりしています。それは神が意図されたものではない、というのが真実です。

脱同性愛者たちの証言 シャーリン・コトラン(2

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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