2017.04.21

晴佐久昌英神父

晴佐久神父様は「LGBT カトリック・ジャパン」に好意的なようだが、今回はその件とは別。以下は、私が昔から思っていたこと。

福音の村

神は、すべての人を救ってくださる

2013年7月21日 年間第16主日
【晴佐久神父様 説教】

(…)

「地獄」とかって人間はいろいろ勝手に言ってるけど、すべては人間の貧しい考えであって、真実はだれも知らない。誰が何を言おうと定義しようと、それはあくまでも人間が言っているところのものであって、「いわゆる」に過ぎない。(…)

 なぜ、見たこともない地獄のことを(…)

晴佐久神父様、あなたのような心の傾向を持つ人のことを、あなたが愛するイエズス様が警告しておられます。

聖ルカによる福音書

(フランシスコ会訳)

16章

 金持とラザロのたとえ話

 19 さて、一人の金持がいた。彼は深紅の着物と細糸のリンネルを着て、毎日、ぜいたくに楽しく暮らしていた。20 ところが、この金持の門の所に、ラザロという貧しい人が座っていた。彼はできものだらけで、21 この金持の食卓から落ちるもので腹を満たしたいものだと望んでいた。犬までも寄って来て、その男のできものをなめていた。22 やがて、この貧しい人は死んで、み使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持もまた死んで、葬られた。
 23 そしてよみで苦しみながら目をあげると、はるかかなたに、アブラハムとそのふところにいるラザロとが見えた。24 それで金持は叫んで言った。「父アブラハム、わたしをあわれんでください。ラザロを遣わしてその指先を水にひたし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでおります」。25 しかし、アブラハムは言った。「子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間に良いものを受けたが、ラザロは反対に悪いものを受けた。しかし、今、ここで彼は慰められ、おまえはもだえ苦しんでいる。26 そればかりか、わたしたちとおまえたちの間には、大きな淵があるので、こちらからおまえたちのほうへ渡ろうと思ってもできず、そこからわたしたちのほうに越えて来ることもできない」。27 そこで、その人は言った。「父上、お願いです。わたしの父の家にラザロを遣わしてください。28 わたしには五人の兄弟がいますが、こんな苦しい場所に来ることがないように、きびしく戒めていただきたいのです」。29 アブラハムは言った。「彼らにはモーセと預言者たちがいる。その言うことを聞けばよい」。30 そこで、金持は言った。「いいえ、父アブラハム、もし死者の中から、だれかが兄弟たちのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう」。31 アブラハムは言った。「もし、モーセや預言者たちに耳を傾けないならば、たとえだれかが死者のうちから生き返っても、彼らはその言うことを聞かないであろう」。

最後の文の「彼ら」の中に、晴佐久神父様、あなたが含まれています。

29 … 彼らにはモーセと預言者たちがいる。その言うことを聞けばよい。

私たちにも 主の聖言 があります。

30 … もし、モーセや預言者たちに耳を傾けないならば、たとえだれかが死者のうちから生き返っても、彼らはその言うことを聞かないであろう。

私たちは「死者のうちから生き返った証言者」は持たないとしても、主の聖言 と呼応したかのような、生きて示現を受けた証言者たちを持っています。例えば、ファチマの牧童たち。また例えば、シスター・ファウスティナ。探せば、他にもあるでしょう。

シスター・ファウスティナは、地獄の情景を報告した後、晴佐久神父様、正にあなたのような人のことを言っています。

私は神の命令でこれを書いています。誰一人、「地獄などない」などと、あるいは「今まで誰もそんなところに行ったことはない。だから、誰もそこがどんなところかなんて言えるはずがない」などと、言い訳をすることのないようにしましょう。

I am writing this at the command of God, so that no souls may find an excuse by saying there is no hell, or that nobody has ever been there, and so no one can say what it is like.参照

*** 言いたかったのはここまで ***

以下はオマケ

福音の村(同記事

 なぜ、見たこともない地獄のことを強調して、人を脅さなきゃならないのか。それは、地獄の話をしないと成り立たない信仰だからです。そういう宗教、いっぱいありますよ。
 でも、「永遠の火に行け」「信じないものは罰を受ける」そういう言葉だけ取り出して説明することで、どれほど多くの人が苦しんできたかを考えてほしい。

> それは、地獄の話をしないと成り立たない信仰だからです。

どの信仰が? カトリックが?!

> そういう宗教、いっぱいありますよ。

ん? 「カトリック」について話していると思っていたら、「宗教全般」についての話が混入して来るのか?
こんな感じでは、晴佐久神父様に於いて「考える」ということが覚束なくなります。キチンと「分けて」考えなければ。

> どれほど多くの人が苦しんできたかを考えてほしい。

しかし、「地獄」の問題は「受け手」の問題であることも多いものです。「地獄」のことを聞かされた人が皆「脅された」心理状態になるかと云えば、そんなことはありません。では、どうして人によって違って来るのでしょう?──と考えることも必要です。

カトリックは「理性的」に教えています。罪について教え、それについて神から赦しを得る方法について教えています。「良心を糾明し、悔い改め、ゆるしの秘跡を受け、償いをすれば大丈夫です」。この教えに「理性的」に立っている人にとっては、「地獄」はさほど脅威にならないものです。

問題は「非理性的」な人です。感情的な人、怖がりの人、そして特に「ノイローゼ的」な人。このような人たちに対しては、いくら「良心を糾明し、悔い改め、ゆるしの秘跡を受け、償いをすれば大丈夫です」と教えても、言われた時は少し心が落ち着いても、少し時が経てば、また訳もなく「怖い、怖い」となってしまいます。晴佐久神父様のところにも、何を言っても「私なんか滅びた方がいい」「地獄に落ちて当然だ」となっちゃう信者さんが居るようです。しかし、そのような人がそのようになるのは、必ずしも「地獄」についての教えの責任ではありません。そのような人に対して何らかのケアが必要だとしても。

福音の村(同記事

 元気で暮らしていたその人が、何でそうなちゃったのか。本人が話してくれました。以前関わっていたある新興宗教で、「あなたは、この教会を離れたら地獄に落ちますよ」と言われたからです。それが本当にショックで、怖くって、その恐怖から逃れられない。今でも、フラッシュバックのように、それがよみがえってくると、自分は本当に罪深い人間だ、生きていちゃいけないんだ、そう思い込む。・・・もうすべて終わらせたい。それほどに苦しくて、苦しくて、つらくて、つらくて。

確かに、そのような人がカトリック教会に救いを求めて来れば、その人の前で地獄のことは「話しづらい」というのは分かります。しかし、ここでもちょっと「分けて」考えなければなりません。

その「新興宗教」がその人の心に「マインドコントロール」的な作用を及ぼしているならば、それはそれとして見なければなりません。

何にせよ、「カトリック」「宗教全般」「新興宗教」、これらを一緒に語ってしまう晴佐久神父様は如何なものか、と思います。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌「Humanisme」1968年11月/12月号 より

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