2017.05.15

本当の自分? (1)

人はよく「自分のことは自分が一番知っている」などと言います。同性愛者を自認している人たちの中にも「本当の自分のことが話せる日が、本当の自分の解放の日だと思っています」などと言う人が居ます。

しかし、本当にそうなのでしょうか? 私たちが「本当の自分」と思っているものは、本当に「本当の自分」なのでしょうか?

私は「決してそうではない」と思うのです。いいえ、同性愛者を自認している人たちに限らず、私たち全てに於いて。

以前見たスティーブン・ブラック氏が興味深いことを言っています。

YouTube16:46-

「自分の思いをとりこにして」=「take my thoughts captive」.

つまり、自分の思いをただ「自分の思い」と思ってノホホンと見ているんじゃないよ、と。それを〈引っ捕まえて〉、それにフォーカスして、神の権威の中で消してもらえと。それは可能であると。

6  12(…)わたしたちにとって戦いとは、血と肉からなる人間相手のものではなく、(…)邪悪な霊的存在に対するものだからです。(エフェソ人への手紙)

科学者は、もちろん、この言葉の意味を十分に知りません。「なにか、人間の精神的な事柄に関する、一つの比喩的な表現だろう」ぐらいに考えるのが関の山です。

以前、悪霊の干渉の諸形態についての概要を見ました。
悪魔はマインドを誘惑する: Obsessionというもの

私は、そこに並んだ「諸形態」のうち、私たちにとって特に重要なのは「内的オブセッション」だと確信します。何故なら、他のものは、もしそれが起これば、私たちによって容易に気づかれますが、「内的オブセッション」だけは、私たちがそれを「自分の感情」と感じる(受け取る)ために、容易には気づかれないからです。

上のスティーブン・ブラック氏も「たとえ自分の “内側” に発生したものでも “自分の感情” とは限らないよ」と言っているのです。

気づけば、戸塚文卿神父様が編まれた『農村の改革者 聖ヴィアンネー伝』の中にも、その種の知識についての記述がありました。

戸塚文卿著『農村の改革者 聖ヴィアンネー伝』より

pp.110-112

 地獄の存在、及び、地獄の中で永遠の刑罰を受けている悪魔の存在は、キリスト教のドグマの一つである。悪魔は実在する。悪魔は人間の恐怖心の空想の産物でもなければ、抽象的の存在でもない。彼はアダムとエワとを誘惑した。彼は義人ヨブに、天主の御許可の下に、種々の試練を送った。彼は神人キリストをも、荒野に於て、誘惑する大胆な試みをした。同じ主キリストは、善をなしつつ世を過したまう間に、多数の悪魔憑きから、悪魔を追い出し給うた。我等の戦うは、単に血肉に対してではなく、吼ゆる獅子の如く餌食を求めて、人間世界を駆け廻る天空の悪霊に対してである。

 勿論、普通の場合に於て、悪魔が直接にその能力を現すことはないが、特殊の場合にそれが現れることがある。キリスト教の影響の全然及ばない地方、即ち、悪魔に他ならぬ邪神礼拝の深く浸み込んでいる国々には、時として、醜怪なるその顕現を見ることがあると云う。奇怪にして背徳的なスピリチスムが現代に流行する事実も、新異教主義が現代を風靡しつつある結果に他ならない。又、之に反して、地上の一角で、悪魔の勢威が特に脅かさるる時、彼は全力を尽して、之と抗争する為に、姿を現すことがある。救主の時代に、パレスチナに多くの悪魔憑きがあったのは、恐らく、此の理由によるだろう。アルスの聖司祭が凡そ三十五年の長い間に亘って(一八二四年~一八五八年)悪魔に苦しめられたのも、サタンが尋常の手段では効なしと見てとって、最後の猛襲──やぶれかぶれの攻撃に出たのであろう。

 神秘神学者は、悪魔のこう云うふうな攻撃を下の如くに分類する。

 一、『脅威』(Infestation)
 悪魔がある人を恐怖せしめる目的で、騒音を発したり、器物を動かしたり、それを他所[よそ]に持ち運んだり、転倒したり、破壊したりすること。これは彼の直接攻撃の第一歩で、下に述べるように、ヴィアンネー師に対してなされたのは、主としてこの種類の攻撃であった。

 二、『外面的攻撃』(Obsession extérieures)
 悪魔がある人を打擲したり、突き飛ばしたりして危害を加えること。時として、師もこの種の攻撃を受けたらしい。

 三、『内面的攻撃』(Obsession intérieure)
 悪魔は主として想像力に働きかけて、攻撃の対象となった霊魂に、憎悪や、絶望等の悪魔的感情を起させる聖人伝中には、この種の攻撃を受けた人も少なからず発見するが、ヴィアンネー師は、これも、又、次の攻撃をも受けなかったようだ。

 四、狭義の『悪魔の憑依』(Possession)
 悪魔はその人に乗りうつったようになって、手足、身体、舌等を思うままに動かし、冒涜の言を吐かしめ、涜聖の行為をなさしめる。福音書中に出て来る悪魔憑きが、即ち、これだ。一時的のこともあれば、長時間で数年以上に亘ることもある。しかし如何なる場合にも、悪魔が、その人の意志を直接に左右することは出来ない。即ち、万一、聖人がかかる攻撃を受けて、極めて浅ましく、悲惨なる状態の中にある時と雖も、彼は一点の意志の尖端を以て、神に属しつづけているのである。

戸塚神父様はお医者さんでもありましたが、謙遜な科学者であったことでしょう。

上の記述は「内的オブセッション」について「憎悪」や「絶望」などネガティブなものだけを挙げていますが、私はもっと広く人間の「情動」や「欲望」に働きかけるものと考えるべきだと思います。

人間の「性」の原理、「男と女」は、人間に関する天主様の創造原理の最も基本的なものなので、もしそれを乱すことができるならば、悪魔・悪霊は喜んでそれをするでしょう。

いつも生意気な口をきいて済みませんが、私は、キリスト信者ならそれくらいのこと、当然予想していなければならないと思います。

同性愛的傾向が発生する原因はもちろん「複合的」であるわけでしょうが、もしあなたが、幾つかの要因によって、或る日ふらっと同性に惹かれたならば、悪魔・悪霊はそれに目をつけ、できるならあなたの中でそれを増幅し、あなたがそれを「自分の生まれつきのもの」と考えるに至るまで持って行きたいと望むでしょう。

これを私の妄言だと思いますか。では参考までに、マラカイ・マーチン神父が取材して書いた『悪魔の人質』の中の「ケースⅢ  女になりたかった男」をお読み下さい。*

* 私は、あなたは悪霊に憑かれている、と言いたいのではありません。私はただ、あなたに、上に書いたような悪魔の意図について疑って欲しくないのです。それをそれとして確信して欲しいのです。悪魔にとって、「男と女」という創造原理を乱すことができれば、「家族」を破壊し、人類文明全体を破壊することができます。──これは確かなことです。

そして片や地上には、この現代でも、それら悪魔・悪霊の意志に呼応して働くようなオカルティストたちが居るでありましょう。

ヘンリー・メイコウ著:「フェミニズム」と「同性愛」が人類を破壊する

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原題:

Cruel Hoax: Feminism and
the New World Order

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌「Humanisme」1968年11月/12月号 より

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