2017.05.15

カトリック: 恵まれているがゆえの減点

多く与えられた者は多く請求され、多く任された者は、さらに多く要求されるであろう。

聖ルカ福音書 12:48

カトリック教会は他の教会よりも「多く与えられ、多く任されて」います。

さて、以前、次のように書きました。

※ プロテスタントにもこのように神の恵みがあるものかどうかは(私は「ある。もちろん」と思うが)、後ほど書きたい。

で、遅まきながら、この辺で書いておこうと思うわけですが──

今まで幾らか見て来たように、この同性愛問題(LGBT 問題)というものに関しては、どういうわけかカトリックよりプロテスタントの方に力強い証しを見ます。まず数として、ネットの中、「私は同性愛から解放されました」という証しはカトリックよりもプロテスタントの方に圧倒的に多いです。そしてまた、彼らはしばしば不思議な導きも受けているように見えます。もちろん、それら全てに「神の印」が付いているとは保証できないわけですが──

神はクリスティーンに参加する(関わる)ように言った。

クリスティーン・ディクソン

神の霊が私の魂に直接語りかけ、こう言いました。「あなたは今日、自分が誰に仕えるかを選択しなければならない。そして、もし悪い選択をするならば、私は、あなたが私から遠く離れて漂い、私の声を二度と聞かなくなることを許すだろう」

シャーリン・コトラン

一つの静かな小さな声が彼の萎えた心を刺し貫いた。「あなたは永遠のための準備ができているのか? あなたは、そこであなたを待っているものが何であるか分かっているのか?」

デニス・ジャニガン

私は彼に、あなたが私に答え、サインを送るために、5分間あげましょう、もし何の答えも下さらなければ、私はあなたに二度と祈りません、と言いました。彼は答えるために3分間を要しました。

ルイス・デヘイスース

私は、主が「もしあなたが、来て、私と一緒に歩きたいなら、あなたは自分の在り方に関して私に100%与えなければならない」と言うのを聞きました。

アキーラ・ブレイボーイ

私は私のガールフレンドを見て、「私はいつかあの教会に行くことになるわ」と言いました。彼女は「あなたは何を言ってるの?」という感じで私を見返しました。

ジャネット・ボインズ

そして、これらは “一部” に過ぎません。

私は、プロテスタントの人たちも恵みを受けていると思っています。それは或る意味、当然のことのように思われます。彼らも主の十字架を受け入れているのですから。

で、上のようにしばしば「神の導き」を受けているように見える彼らの証言を読んでいた私の脳裡を掠めていたのは、実は、昔から印象に残っていた「他界からの警告」の次の言葉だったのです。

J: 当然ながら、間もなくプロテスタントの方が現代的なカトリシズムよりも天主に近くなるだろう。今言ったように、彼らは他の事は何も知らないからだ。私は、彼らはある仕方で天主についてよく知っている、と付け加えたい。知的な者達は、カトリック教会が──それは良い教会だ、ご存知の通り──真の教会であり、多くの人々がそれに改宗させられ得る、と思うかも知れない。しかし現在のようなカトリック教会の状態では、私は──あるいはむしろ、地獄の我々全ては──プロテスタントの方が間もなくより良い位置に付くだろう、と言う。

他界からの警告

「彼らは他の事は何も知らない」というのを別の言葉で言い換えれば、「彼らは聖書しか知らない」ということでしょう。彼らは「聖書」と「聖伝」の二つを持ちません。「聖書」のみ。

しかし、この現代、私たちはプロテスタントのことを「不完全だ」などと言っていられるでしょうか。

私たちも「聖書」を持っています。しかし、この現代、私たちは「聖書」と「聖伝」を持っているというよりはむしろ、「聖書」の上に分厚く積み重なった「人間製の思想」を持っているのではないでしょうか。信仰のあらゆる要素を人間の「実感」に奉仕させたような、人間に対する「気遣い」の神学──実質、それのみを──持っているのではないでしょうか。(典型的な例は晴佐久神父様。彼はもちろん、いわゆる「いい人」ではあるわけだけれども)

それで、今やプロテスタントの方が、「聖書のみ」であるが故に不完全ではあるけれど、同じく「聖書のみ」であるが故に、いわば初期的な純粋さをまだ保っている、という面があるのではないでしょうか。(もちろんプロテスタントの「全て」ではありませんが)

プロテスタント(の一部)は、カトリックがたっぷりとかぶった「現代化」の波を、わりあい免れているのではないでしょうか。

カトリックはこんな感じだけれども。

「聖伝」の一つは「秘跡」です。プロテスタントはそれを知りません(洗礼は別として)。けれども、或る意味、「それが何でしょう」と言いたくなる時代ではないでしょうか。カトリックは、そのような非常に尊いものを天主様から頂いていながら、その価値を分からず、不適切に扱っているために、かえってマイナス・ポイントが付いているのではないでしょうか。

したがって、ふさわしくない状態で「主のパン」を食べたり、「主の杯」を飲む人があれば、主の体と血に対して罪を犯した者となるのです。(…)それだから、あなたがたの中には、体が弱かったり病気だったりする人が多く、また、死の眠りについた者もかなりいるのです。

コリント人への第一の手紙 11:27-30

尊いものを与えられた者たちがそれによってかえって危険に陥り、天国から減点され、死の眠りにつかせられなかったとしても心は曇り、鈍り、それを与えられなかった者たちの方がかえって危険を免れ、有利である、という皮肉な状況があるのではないでしょうか。

疑問の余地はないように思われます。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌「Humanisme」1968年11月/12月号 より

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