以前も書いたように、人間の体の中で「顔」は大事なものです(「顔形」「顔の造作」のことではありません)。
そこには人間の「心」と「精神」の全てが集まるからです。
だから、—また言いますが— 犬や猫でさえ、あなたの感情を読み取ろうとして、あなたの「手」や「足」ではなく、あなたの「顔」を見上げます。
人間はどうでしょう。
あなたが誰かに愛情をもって微笑みかける場合、その人の「手」に向かって微笑みかけますか、その人の「足」に向かって微笑みかけますか。
今度は悪い場合を考えてみましょう。誰かがあなたを恫喝したり、あなたを嘲笑したりする場合、あなたの「手」に向かって恫喝しますか、あなたの「足」に向かって嘲笑しますか。
否、必ずあなたの「顔」に向かってそうするでありましょう。
そして、或る文章が言ってました。
「イエズスの御顔は、悪魔の攻撃の中心的な対象であった」と。
確かにその通りでしょう。
そのことを、福音書の物語が教えてくれています。
そして、福音書に忠実であるだけの絵も教えてくれています。
「嘲弄されるキリスト(Cristo deriso、Christ mocked)」
by 福者フラ・アンジェリコ
イエズス様は「顔」を叩かれました。「顔」に唾されました。
言葉に於いても、彼らはイエズス様の「顔」を見ながら、イエズス様の「顔」に対して笑いながら、汚い言葉を投げつけました。
こういうことは、私たちの現代社会の中にも残念ながらまだある、考えられないことに、まだある、「いじめ」というものを考えてみればよく分かります。「顔」は「人格攻撃」の基本的な的です。(まあ、当り前と言えば当り前の話ですが)
注) |
もちろん、イエズス様の「御手」も、「御足」も、地獄の苦しみを味わわれました。(私たちのために) |
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“幼きイエズスと聖顔の聖テレーズ” が上の写真で持っておられる印刷物の右半分にある「聖顔」の御絵は、次の絵です。聖テレーズが見ていたのと同じくらい大きな絵(サイズ)で見てみましょう。
この絵は現代の私たちには受けが悪いに違いありません。
「イエズス様と似ているとは思われない」と。
けれども、とにかく、聖テレーズの時代には、「聖顔への信心」のための御絵と云えば、この絵と決まっていたようです。
私も、この絵のことを「イエズス様と似ているとは思われない」と思います。けれども、嫌いでありません。何故なら、この絵は「聖顔への信心」の精神と合致しているように思われるからです。
以前見たように、福者マリア・ピエリーナにイエズス様がおおせられた御言葉の中に、「聖心の信心」と「聖顔の信心」を対比的に述べられたものがあります。それによると、「聖心の信心」は人類に対するイエズス様の「大いなる愛」を表わすものとして与えられ、「聖顔の信心」は全人類の罪に対するイエズス様の「御悲しみ」を表わすものとして * 与えられたということでした。参照
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表わすものとして = 私たちが感得しなければならないものとして |
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そして、上の絵の人物は、涙を流しておられます。
そして、おそらく汗ではなく、血を流しておられます。
左の御額には殴られてできた痣があるような気もします。
だから私は、この絵は「聖顔への信心」のためには悪くはないと思うのです。
それにしても、イエズス様にあまり似ていないだろうこの絵は、いったい何処から来たものでしょう。次回から、そのあたりを含めて、見ていこうと思います。
その言葉はウルスラ会のものでした。
“The Holy Face of Our Lord the Centre of attack in His Passion”
参照
「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」