2018.03.19

今田健美(こんだ たけみ)神父様 1

戦後の窮乏期にかなり孤軍奮闘的に頑張って世田谷教会を作ったらしい、ガッツのある、また気骨のある司祭、今田健美(こんだ たけみ)神父様(1910-1982)。
「公教要理」を非常に大事になさった。
第二バチカン公会議以降の教会の風潮を非常に憂いておられた。それが窺われる御文章を次回から紹介する。

御経歴

(『種蒔く人』下巻より抜粋)

1910年  

北海道渡島郡七飯村に生誕。ア・シャンボン師(後の東京大司教)の巡回を得て自宅にて受洗。

1927年  

召命を感じ東京関口の公教神学校に入学

1930年  

函館で徴兵検査を受ける

1931年  

旭川第七師団に現役入隊(三か月間)

1935年  

関口の大司教座聖堂で司祭に叙階(満二十四歳)

1937年  

麹町教会助任司祭に任命される

1938年  

喜多見教会主任司祭に任命される
第一次の召集、中・南支に派遣される(一年四か月間)

1940年  

召集解除、八王子教会主任司祭に任命される(一回目)

1941年  

第二次の召集、満州に派遣される(一年八か月間)

1943年  

召集解除、八王子教会主任司祭に任命される(ニ回目)

1944年  

第三次の召集、内地にて勤務(一年九か月間)

1945年  

復員、帰京
世田谷地区に新小教区設立の準備を開始

1946年  

「聖堂を建てよう」と信徒に呼びかけはじめる

1948年  

土井大司教司式により、世田谷教会献堂式挙行
今田神父講義・監修、竹岡健治氏筆記「公教要理」(第一部)プリントをテキストとして使用

1960年  

銀祝記念ミサと祝賀会開催。“東京でいちばん活躍している神父” といわれる。

1971年  

浅草教会主任司祭に任命される

1982年  

7月12日、帰天(71歳)

1938年10月 一回目の出征

麹町教会の助任司祭時代

1950年 教会の釣り大会にて

富士御殿場 復生病院にて

1980年 聖マリア像と共に

顎鬚などをたくわえて、あなたの目には、この神父様が「威張って」いるように見えるだろうか? 私の目には必ずしもそうは見えない。と云うか、むしろ、或る意味、こう思う──「男には、或る程度、威張らせよ」。これは暴言か?

否、私はもちろん「傲慢」を支持しない。しかし「威厳」は支持する。「矜持」も支持する。司祭が「威厳」を持たなくてどうする。司祭が「司祭としての矜持」を持たなくてどうする。そして「司祭としての責任感」と、それ故の「厳しさ」を持たなくてどうする。

私は、司祭は「優しいと同時に厳しい」というのが本当だと思う。私の目には、今田神父様はそのような司祭に見える。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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