今回も『鳩と蛇の語らい』から、しかし、短く拾う。
このように短く拾っては、前後関係が分からない。それでも短く拾うのは、こんな言い方は傲慢だが、これらの御言葉の前後は、私の目にはそれほど鮮やかなものとは映らないからだ。今田神父様は勝れた神父様だが、それでも、第二バチカン公会議以降の教会の風潮の中で、なにか、泥沼の中を苦しみながら泳いでいる(苦しい考察をしている)感じがある。私に言わせれば、第二バチカン公会議以降の教会の風潮の泥沼の部分はただ捨てなければならないものだ。そこを、教会の中に置かれた司祭の立場として、それと相撲を取りながら、その泥をかぶりながら、なんとか良く解釈しようとする。そんなことをしていると、疲れる。ご自分も、或る程度、鈍る。そんなお気の毒なような状態が、御文章に現われていると思う。しかしそれでも、短い部分に彼の叫びが感じ取られる。
本を書こうという野望は少しもなかったが、ここに一冊生まれる。数年前カトリック新聞に連載したものがまとめられたもの。(…)
平生考えていることをつづれば、生きているかぎりは書けそうなものだが、発表されるとなれば気をつかう。(…)批判は必要、悪口は不可。
まえがき(p.1)
今田神父様は筆を抑制なさったのである。
最終回でも、御自分の連載の発端を振り返りながら、次のようにお書きになっている。
思いがけなくも、カトリック新聞が執筆を依頼してきた。書くからには、考えることの全部はもちろん書けないし、一番書きたいことも書けないにしても、心にもないつくりごとは言わない覚悟だから、たぶん評判を悪くして、(…)
魅力ある教理の教授(p.383)
神父様は「一番書きたいこと」を書かなかったのである。全く「歯に衣着せず書く」ことがお出来にならなかったのである。
しかしそれでも、以下のような短い部分に彼のスピリットが現われている。
「キリスト教の土着化」ということばそのものが、わたしにはどうにも親しめない。 老シメオンの静けさ(p.12) |
近ごろは、司祭の中にも言うこと、やることの、それはそれは、おやさしい向きがたくさんおられるようであるから(…) ついでに言えば、一見やさしい人が、やさしいとは限らない、こわいことを言う人が、冷酷な人とも決まらない。 タボル山上の畏怖(p.25, 26) |
近ごろ、教会は民主主義に変わったなどと考える人がいて、行動にも現われるように見受けられるが、とんでもないまちがいだ。 善き牧者(p.59) |
「羊の群れ、牧者」ということばに自分でも何か抵抗を感じ、今の社会から反発を食うだろうと、気をつかっている人を、ときどき見かけるようになった。ふがいないじゃないか。なぜ、そんなに。
受くべきでない性質の反発ならぼんやりしないで避けよう。だがそうでなくて、福音であるがために受けねばならぬ反発もある、ならば、わざわざでも受けよう。福音は世にもてるときは伝え、もてないときは引っ込めるようなものではない。「よい機会であってもよい機会でなくても論じなさい。勧めなさい、責めなさい」と、聖パウロも言われたではないか。 外来宗教という色眼鏡をはずさせて、国産も舶来もない、神の恵みの普遍さを、現実に示さなければならない。 牧者への奉仕(p.89, 92) |
近ごろクリスチャンも気が弱くなったのか、とかく、十字架や死苦について、話したがらず、世直しだの復活だのばかりしゃべりたがる。だが、十字架なしの復活など、どこにもありはしない。 古い死の陰(p.112) |
ローマン・カラーが都合が悪いというなら、十字架上のキリストのお姿は、もっと都合が悪いだろう。 司祭の影(p.171) |
〔 〕は私による付加。
〔洗者〕ヨハネこそ、まっすぐな人だ。「主の道を整え、歩む道をまっすぐにする」使命を果たすその人こそまっすぐな人だ。
神の国の指導者は、まっすぐだ。それが預言者の共通性だ。かけひきの多い預言者を思いうかべることはできない。
それは真実というものが、まっすぐだからだ。うそとごまかしは多弁であり、複雑である。紆余曲折が多くて、賢明に見え、事実賢明でもあろうが、いざとなると逃げ腰になるのが特徴だ。
複雑な世に、預言者はけっきょく、入れられない、殺される例が多いし、殺されるまでもまっすぐで、決して逃げ出さない。それは失敗ではなく、成功なのだ。
世に入れられるものが正しいわけではない。神の国とその義とを世に受け入れられるかどうかを見て判断しようとするのは大まちがいだ。世に入れられるように、入れられるようにと憂き身をやつす宣教者などは、ヨハネと比べるさえこっけいだ。
洗者ヨハネ(p.183)
今田神父様は司祭服を着てピシッと立っておられる。
彼に於いては、元々の素質もおありだろうが、軍隊を経験なさったことも大きかったのではないかと思う。私はもちろん戦争には反対だが、しかし軍隊は、男を良くする場合がある。(もちろん戦争は、男を残虐な者にしたり、精神を病んだ帰還兵にしたりすることも多いが)
「戦う」「逃げない」「いのちがけ」──これらは「教会」にも必要とされる。
ところが、現代の神父様方の中には、優しいには優しいが、ほとんど「腑抜け」ではないかと思わせる人たちが居る。(後述)
「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」