2018.03.22

主日の義務 2

現代の司祭たちの中に、所謂「主日の義務」(主日の御ミサに参加する義務)に関して、それは今はもう「義務ではない」かのように言う人たちが居る。「かのように」である。彼らは──私は、これは「ずるい」と思うのであるが──実際には、「もう義務ではない」といった直接否定、真っ向否定はせずに、しかし言を左右にして、或る種の言い方によって、それを「有名無実」なものにするのである。(後で実例を挙げる)

しかし、司祭たちがそのようであれば、信徒たち、しっかりしていない信徒たちはどうなるか。或る者は、一部の司祭と同様「もう義務ではない」かのように言う。或る者は、ただ確かな考えがない。

ここでは彼らの記事の内容には触れないが、とにかく、信徒ブログの中にこのような表題の記事があること自体がおかしい。何故ならば、教会はきちんと教えているのだから。主日の義務に関して、先ずは「基本的」な考え方を、そして次に「例外的」な措置、義務が免除される場合があることを、きちんと教えているのだから。

『カトリック入門』(中央出版社、初版発行1971年)

しかし、考えてみれば、今まで何度か取り上げて来た左の要理本(の名に値しない)の中には、そういうことが一切書かれていない。「監修 教理司教委員会」の本であるにかかわらずである。

現在の神父様方が入門教室のためにどのような本を使っているのかは知らないが、もしこのようなものが使われたなら、信徒が「主日の義務」についてあやふやな考えしか持てなくなっても当然というものである。だって、「書かれていない」のだから。

だから、先ほど「教会はきちんと教えているのだから」と書いたけれど、それは現在の教会には当て嵌まらないかも知れない。現在の教会は「きちんと」など教えていないかも知れない。

それで、考えがあやふやになっている信徒たちのためにも、ここで教会の教えの正常なところを押さえておこう。次へ

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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