2018.04.05

主日の義務 7

実を言えば、今回の一連の記事を書くキッカケになったのは、岡田大司教様のこのような御言動を見たことだった。私は、岡田大司教様のこのような言い方は「トンデモナイ」ものだと思う。

今回取り上げさせてもらう「大司教」様が昨年引退なさったことを、私も知っている。しかし、私はこの記事(昨年中に書きかけた)を取りやめようとは思わない。何故なら、私たちは私たちの教会がこれまでどのような傾向の持ち主によって「司牧」されて来たかを知ってよいし、また彼の「遺産」はこれからも続き、働くだろうからである(彼は日本の典礼に深く関わって来た。参照参照参照)。それからまた、インターネットに彼の発言が残っているとすれば、それは「過去のもの」ではなく、「現在に於ける発信」だからである。

次に掲げるのは、YouTube にアップされている彼の講話である。冒頭の一部分を書き起こさせてもらった。私のコメントは後回しにするから、まずは読者自身で読み通してもらいたい。

YouTube 岡田大司教様講義の一部(1)
(2011/09/04 に公開)

0:07~
イエス様は安息日論争というのをしてますね。イエス様が十字架につけられるようになった経緯とか理由はいろいろ考えられますけれども、安息日をめぐる論争というのは一つの大きな理由になってますよね。「安息日にしてはいけないことをした」といって非難されたわけですね。
 日曜日のミサと安息日は違いますけれども、同じように「ミサに出ているか/出ていないか」でその人が「良い信者か/悪い信者か/普通の信者か」、なんか、そんなような判定をおろすというのは、ちょうどイエス様からお叱りを受けた律法学者・パリサイ派と同じようなことになってしまうんだろうと思います。
 そうなんですけれども、日曜日にみんなでお祈りをし、イエス様の体を頂くことが私たち信者の生活の、ま、「基準」っていうか、「標準」っていうか、「理想」なんですね。ちょうど、私たちは、自動車を運転する時に、やっぱり「規則」に従ってするわけですね。「規則」に従ってお互いに安全に運転できるようになっているわけです。ま、「不必要な規則」あるいは「不適切な規則」もあるのかも知れませんが、おおむね「規則」は人を守り且つお互いに円滑に生活し行動するためにある「約束」や「取り決め」であるわけですね。だから、教会でも、ほとんど全ての人が信者になってる社会では、日曜日というものを定めて、日曜日のミサっていうのを定めて、そこに参加することを「基準」とするというふうになったと思います。
 でも、私たちの国は、キリスト教徒は約1パーセントです。で、キリスト教徒の中でわれわれカトリックはその更に半分以下でありまして、ま、1000人の中で三、四人っていう割合なんですね。そして、家族全員が信者である場合っていうのは、こちらでは、わわわれの教区では非常に少ないわけです。ですから、そして、日曜日に仕事をしなければならない場合もありますし、えー、ま、非常に、ですから、主日のミサ参加を義務づけて、それを守らなければ「罪である」とか、あるいは「良くない信者だ」とか言うのは大変乱暴な話でありまして、そういうことは心配する必要はない。ま、だいたい皆さんもそう思っていらっしゃると思うんですけれども、えー、昔は、でも、ミサに参加できない場合は神父様に話して許可をもらわなければ、あるいはその代わりに何をしたら良いかということを指導して頂いたりしてましたですよね。ま、今もそうしている場合もあるかも知れないですけれども。
 あの、えー、「牧者」は、あのー、やはり、誰がどういう事情でミサに来れないのかっていうことを本当は知っていたらいいんですけども、たくさん居る信者の一人一人を把握できないし、またそうすることは大変「干渉的」だと思われるかも知れないと思います。
 えー、さて、ま、主の復活の喜びを共にできる日を目指して私たちは努力したいということで、で、ま、あの、「義務」だか何だかということをあまり深刻に考えないで頂きたいが、かといって「どうでもいい」というようにも考えないで頂きたい。

管理人のコメント

私が書き起こしたのはほんの一部である。しかし私は、この短い中に沢山の問題を見る。どこから手を付けて分からないくらい。

一番問題な部分から行こう。

大司教様にとって「主日の義務」は人間の決め事

 そうなんですけれども、日曜日にみんなでお祈りをし、イエス様の体を頂くことが私たち信者の生活の、ま、「基準」っていうか、「標準」っていうか、「理想」なんですね。ちょうど、私たちは、自動車を運転する時に、やっぱり「規則」に従ってするわけですね。「規則」に従ってお互いに安全に運転できるようになっているわけです。ま、「不必要な規則」あるいは「不適切な規則」もあるのかも知れませんが、おおむね「規則」は人を守り且つお互いに円滑に生活し行動するためにある「約束」や「取り決め」であるわけですね。だから、教会でも、ほとんど全ての人が信者になってる社会では、日曜日というものを定めて、日曜日のミサっていうのを定めて、そこに参加することを「基準」とするというふうになったと思います。

イノセントな信者たち、ぼ~~っとした信者たちは、岡田大司教様が「基準」「規則」という秩序を思わせる言葉、「理想」という上方への真摯な努力を思わせる言葉、「安全」「円滑」という社会の安寧を思わせる言葉等々を並べているので、全体として大司教様は「いいこと」言ってる、と思うだろう。しかし、違う。

まず簡単な問答をしよう。

問: 

大司教様は「主日の義務」の “類比” として何を挙げたか?

答: 

人間社会に於ける「道路交通安全規則」を挙げた。

そうではないか?

つまり、大司教様に於いては、「主日の義務」を「救霊のためのもの」と云うより「人間社会の秩序維持のためのもの」とでも考えているフシがあるのである。

> だから、教会でも、
> ほとんど全ての人が信者になってる社会では、
> 日曜日というものを定めて、
> 日曜日のミサっていうのを定めて、

この「定める」という動詞の主語は何だろう?
まあ、「社会」だろう。つまり「人間社会」だろう。

しかし前回見たように、新約時代の「主日」は旧約時代の「安息日」から来たのである。教会は「キリストから受けた立法権」によってそれを土曜日から日曜日に移したけれども、その目的と本質が変わったわけではない。一言で言えば、「その日を神の日として聖化せよ」。そして、この命令はモーセが神から直接受けたものである。とすれば、新約に於ける「主日」の定めも、本質的には「神から来たもの」と言わなければならぬ。

しかし、その口振りからすると、岡田大司教様はそうは考えていないようである。もしかすると彼は、「天主の十戒」さえ、当時のイスラエルの民の「社会」が「お互いに円滑に生活し行動するために」決めた事、あくまで社会的な決め事、人造のもの、と考えているかも知れない。「モーセが神から直接受けたなどというのは、まあ、統治者が民衆を治めるためにこしらえた “お話” ではないか」という程度に考えているかも知れない。*

* そこへいくと、ファチマ預言やロザリオを重んじる言葉を残しておられる小池二郎神父様は、この「天主の第三戒」と「主日の義務」の連関についても確かな言葉を残しておられる。「キリストの十字架の死によって旧約の多くの掟は廃止されましたが、十戒は残りました」云々

そして、彼は相も変わらずこれ↓である。

西洋社会 vs. 日本社会

だから、教会でも、ほとんど全ての人が信者になってる社会では、日曜日というものを定めて、日曜日のミサっていうのを定めて、そこに参加することを「基準」とするというふうになったと思います。
 でも、私たちの国は、キリスト教徒は約1パーセントです。

「ほとんど全ての人が信者になってる社会」とは明らかに「西洋社会」を意味する。つまり、この大司教様は相も変わらず物事を「西洋社会 vs. 日本社会」「ヨーロッパ文化 vs. 日本文化」という対立軸で見ているのである。彼と同世代の池長大司教様が全くそうだったように。

そして、彼は相も変わらずこれ↓である。

「昔は」

えー、昔は、でも、ミサに参加できない場合は神父様に話して許可をもらわなければ、あるいはその代わりに何をしたら良いかということを指導して頂いたりしてましたですよね。ま、今もそうしている場合もあるかも知れないですけれども。

彼にとって「ミサに参加できない場合は神父様に話して許可をもらわなければ(ならない)」というのは「昔の話」のようである。
つまり「今は」、主日の御ミサに参加できない時、必ずしも司祭に連絡して許可をもらう必要はない、ということのようである。

> ま、今もそうしている場合もあるかも知れないですけれども。

かも知れない? つまり、要するに彼は「信者が主日の御ミサに参加できない時、それを司祭に報告するもよし、しないもよし、それぞれの司祭や信徒の判断に任せる」と言っているのである。

「西洋社会 vs. 日本社会」という捉え方といい、簡単に「昔は」と言うことといい、岡田大司教様が第二バチカン公会議後の風潮を最も濃く受けた聖職者の一人、その最も強い《典型》であることは、岩のように確かなことである。

大司教様の方こそ「乱暴」である

 でも、私たちの国は、キリスト教徒は約1パーセントです。で、キリスト教徒の中でわれわれカトリックはその更に半分以下でありまして、ま、1000人の中で三、四人っていう割合なんですね。そして、家族全員が信者である場合っていうのは、こちらでは、わわわれの教区では非常に少ないわけです。ですから、そして、日曜日に仕事をしなければならない場合もありますし、えー、ま、非常に、ですから、主日のミサ参加を義務づけて、それを守らなければ「罪である」とか、あるいは「良くない信者だ」とか言うのは大変乱暴な話でありまして、そういうことは心配する必要はない。

遠慮なく言えば──「思考不全」に陥っている人に特徴なのは、その “言葉の運び” の中に、本来あるべき色々な修飾が抜けているということである。奇妙に「舌足らず」なのである。(故意か?)

大司教様は「主日のミサ参加を義務づけて」と言うが、これは本来「教会は主日の御ミサに与ることを基本的に義務づけている」と言うべきである。

と云うのは、今までの記事で既にたくさん見て来たように(の水色の背景を付けた部分)、教会は昔から、重大な理由(軽い理由ではない)によって主日の御ミサに来れない人に対しては、ちゃんと配慮しているからである。

つまり、教会はそのように、かなり事細かに、丁寧に教えているのである。「基本」( “それは義務である” )と「例外」( “免除される場合もある” )の二つを分けながら。

だから、教会法とカテキズムに沿えば、岡田大司教様はどう言うべきだったか? こう言うべきだったのである。

“

主日の御ミサに与ることは基本的に信者の義務です。しかし、重大な事情があってどうしても御ミサに与れない場合は、主任司祭に相談して、例外的措置として主日の義務を免除してもらうことができます。そのようにした人が「主日の御ミサに行かない」としても罪にはなりません。そういうことを心配する必要はありません。

”

これは「細密」「精密」というほどの言い方ではない。ただ教会に於いて「常識的」な言い方であるだけである。このような言い方をせず、あのような言い方をする大司教様こそが、実は「大変乱暴な話」をしている、というのが真実である。このことに、大司教様自身も、大司教様の話を聞いている聴衆も、気づかないのか?(それとも、大司教様は確信的に、故意に、あのような雑な言い方をしているのか?)

大司教様は「免除」などということも最早嫌いである。「免除」ということが続く限り「義務」も続くからである。「義務」と「免除」は表裏一体だからである。「義務」あってこそ、その「免除」でもあるからである。つまり彼は、「義務」と「免除」の両方を、「基本」と「例外」の両方を、“もうやめにしたい” のである。

彼の考えは軽く流れる

 あの、えー、「牧者」は、あのー、やはり、誰がどういう事情でミサに来れないのかっていうことを本当は知っていたらいいんですけども、たくさん居る信者の一人一人を把握できないし、またそうすることは大変「干渉的」だと思われるかも知れないと思います。

彼の考えは、ほとんど一から十まで「人間中心」で、軽く流れる。

> たくさん居る信者の一人一人を把握できない

簡単にそう言うな、である。これはほとんど「やる気のなさ」の表明ではないか。

信者数の比較的少ない教会もあるわけだし、信者数の多い教会だって、少しずつ進めることもできる筈だろう。

今は教会もインターネットを使う。教区のウェブサイトに「主日の御ミサへの参加は基本的に信者の義務である」ことと「事情があってどうしても与れない人は主任司祭に相談して欲しい」旨をアップすることもできる筈。いつ主任司祭と面談できるかは、メールなり電話なりで打ち合わせればいい。

しかし、今のところ、また、私が気づいた限りでは、東京教区ばかりでなく日本のどの司教区や小教区のウェブサイトに於いても、そんな呼びかけは見られない。

主任司祭は各種の会議や会合で忙殺されているのか? そうだとしても、それらの会議・会合と「主日の御ミサと信徒」の問題のどちらがより重要か、一度考えた方がいい。司教が「そのような会議・会合はしばらく控えめにして、一定の間、教会に来ていない信徒たちに目を向けましょう。何か方策を考えましょう」と打ち出すこともできる筈。

> またそうすることは大変「干渉的」だと思われるかも知れない

かも知れない? そんなことは相手の顔色を見てから考えればいい。何もやらないうちから躊躇・逡巡するのは「小心」と「怠慢」である。

それに、愛は或る程度「干渉的」なものである
親兄弟(親姉妹)は互いに「干渉」し合うものである。
もちろん、時には行き過ぎることもあるだろう。しかしそれでも、基本的には、「愛あればこそ干渉もする」のである。

相手の「人権」を尊重する? 相手の「自由」を尊重する?
そして、それゆえ「干渉はしない」?
それが「良識的」な市民社会だ? 「成熟」した市民社会だ?

しかし、少し考えてみれば分かるように、今の日本の都会を見れば分かるように、ただそれだけでは「隣りは何をする人ぞ。さっぱり知らない。交流もない。関心もない」という、「かなり寒風吹きすさぶ良心的で成熟した市民社会」が出来上がらないとも限らないのである。

いや、「限らない」ではない。既にあなた方は教会の中にそのような社会を作ることに成功している。

信徒たちを、事実上、「自己責任」に追いやっている。
「自己責任社会」ならぬ「自己責任教会」に近づいている。
「自由の尊重」や「人権の尊重」を言いながら、また「彼らももう『大人』だろう」と言いながら(後述)、実はそんなようなところに近づいている。気づかないのか?

もちろん、信徒は、最後には「自己責任」を取らされる。つまり、死んで神の法廷に立った時、一人一人が「自己責任」を問われる。誰のせいにするわけにもいかない。しかしそれでも、彼らが地上にある間、教会の使命は何か? もちろん未信者への宣教もある。しかし、信徒を「確かに導く」ことも大きな使命ではないか? それとも、今田神父様が憂いたように参照参照、「牧者と羊」の類比はもう “終了” したのか?

彼は権威を着ない

 えー、さて、ま、主の復活の喜びを共にできる日を目指して私たちは努力したいということで、で、ま、あの、「義務」だか何だかということをあまり深刻に考えないで頂きたいが、かといって「どうでもいい」というようにも考えないで頂きたい。

彼は最後にチョロッとこの言葉を付け加える。

> 「どうでもいい」というようにも考えないで頂きたい。

多くの人はこれだけで、大司教様の「司牧の心」を、司牧者としての「良心」の声を確認した気になり、安心を感じるかも知れない。

しかし、このような言い方はただ、信徒に対する彼の「希望」程度のものを言ったまでである。「指導性」というものをほとんどまとっていない。

司牧者の言葉が「指導的」なものであるためには、彼は「公的な権威」(神の権威、教会の権威)を着なければならない。しかし、彼にとって「権威」とは、ほとんどただ全く「圧迫的」なものを意味するようで、彼はそれを着ない。

※ 

彼も何かを「勧め」る。しかし、聖ピオ十世教皇様の「すゝめ」の精神とはエライ違いである。

彼は個々の判断に任せる

彼が言っているのは要するに「主日と守るべき祝日にはなるべく御ミサに与りましょう」ということである。なるほど、よい言葉だ(?)。しかし「全体」を見よう。彼はこう言っているのである。

  1. 主日と守るべき祝日にはなるべく御ミサに与りましょう。

  2. しかし、もしあなたが何らかの理由でそれに与らなかった時、その理由が重大なものであったかそうでなかったかの別を問わず、とにかく、あまり重大に考える必要はありません。「それは罪だ」とか考える必要はありません。

  3. 昔はそのような時、司祭に理由を話して欠席の許可を求めたものですが、今はそのようなことは必ずしも必要ありません。(個々の判断に任せます)

そうであれば、次に、彼の内心に於いては必然的にこうであろう。

  1. 特に重大でもない理由によって、例えば「ちょっとその気が起きないから」といった理由によって主日の御ミサを欠席することは、もちろんあまり良いことではありませんが、「これは罪だ」とか深刻に考える必要もないので、従って私は「そのように欠席してしまった時、あとで赦しの秘跡を受けなさい」とは特に言おうとは思いません。(個々の判断に任せます)

実際、彼は言っていない。上の講話以外でも、彼の口からその言葉「赦しの秘跡を受けなさい」が出ることはないだろう。せいぜい、「あなたがそれを受けたいと思うなら、受けることもいいかも知れません」という程度だろう。

私が上で二度丸括弧で囲んで書いた「個々の判断に任せます」というのが、彼の思想の一大特徴であるだろう。

> 「義務」だか何だか

この言い方に、私は、「教会の教え」に対する彼の薄っすらと滲んだ「軽んじ」を感じる。「主日のミサ参加が義務だか何だか知らないけれど」というに近いものを。

罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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