2018.04.05

主日の義務 8

前回の岡田大司教様の御言動から一つの絵を作りたくなった。

この絵は岡田大司教様の御言動を歪曲していない前回参照
現代のカトリック信者の90%は岡田大司教様のあれらの言葉を「特に問題ないもの」と、更には「良いもの」とさえ考えるかも知れないけれども、願わくは各自、心を潜めて再考されんことを。

私自身は、このような態度の牧者は「恥かしい」「頼りない」ものと思う。司牧を委託し給うた主の御期待を裏切るものと思う。

主の御言葉

 あなたたちはこれらの小さな者の一人をも、軽んじないように気をつけなさい。あなたたちに言っておく。彼らの天使たちは天にいて、天におられるわたしの父のみ前にいつも立っているからである。あなたたちはどう思うか。ある人が百頭の羊を飼っていて、そのうちの一頭が迷い出たとすれば、その人は九十九頭の羊を山に残して、迷った一頭の羊を捜しに行かないであろうか。

聖マタイ 18:10-12

そして、しかし、私たちの教会の実際に於いては、決して、「百頭」のうちのたった「一頭」がそうなっているわけではない。

上で私が利用した絵は、絵本「The story of the Lost Sheep」からのものである。作者はプロテスタント信者ではないかと思う。

その絵本は「迷った羊」はただ「迷った」ばかりではなく、その中で「危険」に遭うだろうことを示唆している。

そして、その「迷った羊」を救出する「牧者」の姿を描いている。

イエズス様のその喩え話の中には「狼」は出て来ない。つまり「危険」ということは特に出て来ない。ただ「あなた方は、九十九頭を残して、迷った一頭を捜しに行かないのか」とおっしゃっただけである。では、この絵本はその喩え話を「歪曲」したのだろうか? 私はそうは思わない。イエズス様はこの絵本の描き方を、きっと支持なさると思う(イエズス様は他の箇所で「狼」に言及なさらなかったか?)。

表紙

温かい感じのする表紙である。

現代の神父様方は、このように温かいだろうか?
「このように」である。この絵をよく見て欲しい。

あなた方は、今、この時代、こう思っている。

信徒が主日の御ミサに来なくなっても、それは「羊が柵を出て行った、迷い出た」ということではないよ、必ずしもね。この絵の羊のようになるとは限らないよ。

それで、あなた方は何もしない。

どうでもいい注: この絵本は、上の表紙でわかるように、縦型。しかし、私が冒頭から貼って来たあれらの絵は横長。と云うのは、それらの絵に於いては、文章の部分が省かれていたからだろう。(私はこの絵本を持っていない。Webで画像を拾っただけ)

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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