2018.04.05

主日の義務 9

比 較

具体的な個人である誰かと誰かを名指しで比較して、「この人は善いが、この人はおかしい」とあからさまに言うことは、普通、あまり趣味の良いこととは思われない。私自身、そう思う。けれども、私の目に、多くのカトリック信者はあまりにも鈍く思われるので、あえて比較してお見せする。

前もちょっと触れたが、ファチマ預言やロザリオを重んじる言葉を残しておられる小池二郎神父様(1928-2007)は、ヨハネ・パウロ二世教皇様の使徒的書簡『主の日 日曜日の重要性』を紹介しておられる。

カトリック甲子園教会

使徒的書簡「主の日」について

ラウレンチオ 小池二郎神父

(…)

ミサは比類のない体験

 教皇様はこの書簡の結論の一つとして日曜とミサの必要性について、次のように言われます。

 「日曜の霊的な豊かさと司牧的な豊かさは、伝統によって私たちに伝えられてきたように、まことに重要です。日曜の特徴と隠された意味を十分に理解するなら、日曜は、ある意味でキリスト者の生活を統合するものとなり、またそれを良く生きるための条件となります。そのことから、なぜ主の日の遵守が教会の心と密接なつながりがあるのか、また、なぜ主の日の遵守は教会の教えの中で真の義務として残っているのかが明らかになります。けれども、掟であること以上に、主日の遵守は、キリスト者の生活の深みから生れてくる要求と見なさなければなりません。次のことはきわめて重要です。すべての信者は、日曜に行われる感謝の祭儀に繰り返し参加しない限り、自分の信仰を生きることが出来ず、また、キリスト者の共同体の生活に十分に参加することが出来ません(…)」(81) (…)

立法の遵守か行いか

 わたしたちが神の国、そして最終的には天国に入ることの出来るのは、「律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義」(フィリピの信徒への手紙3章9節)によるのであって、行いによるのでも立法の遵守によるのでもありませんが、そうだからと言って、何もしないでよいというわけではありません。信者は自然法と最小限度に教会が要求する教会の掟は守る必要があります。キリストの十字架の死によって旧約の多くの掟は廃止されましたが、十戒は残りました。イエス・キリストは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイによる福音5章17節)それが新約における律法の完成であると思います。

(…)

創造と救いの記念日

 さて、旧約聖書の第一巻、創世記によると、神は六日間で天地万物を創造され、七日目に休まれ、七日目が安息日となりました。新約聖書の安息日の理解は次の通りです。

 「安息日の休みが神の民に残されているのです。なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。」(ヘブライ人への手紙4章9‐11節)(12月号へ続く)

糸永真一司教様(1928-2016)も同教皇様の同使徒的書簡を紹介しておられる。

糸永真一司教のカトリック時評

失われた日曜日の再発見

公開 [2013/02/01/ 00:00]

(…)

日曜日を聖として神のささげ、主日ミサの義務を果たすことを欠かしてはならない。したがって、終末〔週末〕の諸行事と主日ミサの義務とをはっきり区別し、あらゆる手を尽くして両者の調和を図らなければならない。

(…)

比較対象はもちろん、岡田大司教様である。
私は以前、糸永司教様を批判する記事を何個が書いたけれども参照、このように言う糸永司教様は岡田大司教様よりは「ずっと良い」のは確かである。

罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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