2018.04.05

主日の義務 12

「信仰の喜び」よりも「信仰の厳粛」

前回取り上げた一般信徒さんのブログ記事を再び取り上げる。

言っておきたいのは、私はこの人を責めたくて書いているのではないということだ。私が大いに疑問を呈したいのは、現代の司牧者たちに対してだ。現在、この信徒さんのような心理状態の人が多いと思われる。それというのも、現在の司牧者たちがちゃんと教えないからだ。

その信徒さんのその記事の、前回では扱わなかった部分を見る。
今回扱う部分に水色の背景を付す。(同朋よ、許せ)

かみのこひつじ

2015.09.13 Sunday 主日のミサに行かない

今日も主日のミサに行かなかった。
これでもう1か月、主日のミサに参加していないことになる。

(…)

答えは自分でもわかっているのだが、私は今、教会に行くことになんとなく「義務感」を感じてしまっているのである。
教会に行くことに「喜び」を感じていないのだ。

(…)

でも、クリスチャンなんだからミサには行かないとなぁ。

(…)

このような義務感で日曜日の朝に早起きができるはずもなく、

(…)

う~ん…はっきり書いてしまえば、主日のミサで得られるものよりも、惰眠を貪ることのほうに魅力を感じてしまっているんだよな要は。
そして、教会に行かなくても神様は私のことを愛してくださっているから大丈夫、みたいな謎の安心感もある。

> 教会に行くことに「喜び」を感じていないのだ。

現代の信者たちは、たぶん、簡単に、何の疑問もなく、ごく普通の事のように、上のような言葉を出すだろう。しかし、私が思うに、彼らがそうであるのは、彼らが第二バチカン公会議以降の風潮の中で「御ミサは私たちにとって当然『喜び』であるべきだ」という考えを一つの定式のように刷り込まれているからだ。

昔の人は、あまりそんな事は考えなかっただろう。それは、彼らにとって御ミサは、一言で言って、もっと「厳粛」なものだったからだ。「喜びか、喜びでないか」「楽しいか、楽しくないか」ということは、要するに自分の「感情」に関することだ。昔の人は、そのような事にあまり重きを置かなかったことだろう。

そして、聖人。彼らに関する昔の本を読むと、彼らが「喜び」を感じられない「無味乾燥」の期間を、かなりの長い間味わい、苦しんだことが出て来る。しかし、彼らはそんな時、「御ミサは私たちにとってどうしても『喜び』であるべきだ」とは考えなかった。彼らはその「無味乾燥」を、何か自分に足りないところがあるか、或いは天主様が与え給うた試練であると考え、祈りつつ、それを「堅忍」によって凌いだ。そうして、昔の本は、そうすることは「功徳」になるのだと教えていた。

しかし、そのような教えは今の教会には無くなった。
今や、司祭の誰も、そのような物事の受け取り方は教えない。

以前、「会社でうまくいかなかったり孤独を感じていたりしている若者を励ますために典礼の形を変えましょう」と言った神父様があった。彼は「見て直ぐに『これは楽しい』とわかるもの」を提案した。それはまるで、「若者の心をときめかす音楽」を作ろうとすることに、どこか似ている。参照

しかし、この信徒さんの正直な告白を聞こう。

> 教会に行くことに「喜び」を感じていないのだ。
> (…)
> 惰眠を貪ることのほうに魅力を感じてしまっているんだよな
> 要は。

彼の中で「教会に行くことの魅力」と「惰眠を貪ることの魅力」が対立している。だから、もし私たちが上の神父様のように考えるなら、私たちの使命は「惰眠を貪ることの魅力を上回る魅力を持った典礼を作ること」ということになりそうだ。

しかし、そんなことは考えない方がいい。人生には色々あるので、たとえどんな「魅力的」な御ミサを作ろうと、人は日曜の朝、「惰眠を貪ること」の方を「より魅力的」と感じることはあるものだ。

だから、そんな「魅力合戦」はやめた方がいい。

今田健美神父様はこう言っている。

信者個人個人が信仰生活の基準となる信心上の務めを重んじて、これを厳重に守ってゆくことが最も大切です。

今田健美神父様 6

主日のつとめを捨てるのは、週日の生活全体を祝福からひき離して泥の中へ投げ込むに等しい。そんなクセがつけば、生涯が救いの道からはずれてしまう。(…)主日のミサにあずかるのをやめて、ゴルフや釣りのほかの何かに出かけるのが自由だろうか。あるいはフトンの中で寝ているのが自由だろうか。やっぱりそれはそういう何かの奴隷になっているものだ。永遠の命の道をちゃんと歩めることこそ真の自由だ。

今田健美神父様 4

このように教えられない現代の信徒たちは “可哀想” なのである。

信仰生活と実際

 信者だからといって時には信仰に以前のような励みがなくなり、お祈りをしても何となくおもしろくなく、心からの祈りができないようなことがあるものです。自分でもこれでいいのだろうか、どうかして以前のように熱心になりたいと思いつつも、何とはなしに気が向きません。そして信仰以外のことに気が向いてしまっています。人間である以上、こういう状態になることがあるのも不思議ではありません。
 先週の日曜日は重大かつ正当な理由でミサにあずかれなかった。ところが今週の日曜日は〔重大かつ正当な理由もないのに〕教会へ行くのはやめにしてしまった。こういうふうになるとだんだん神と自分との間柄が疎遠になってゆきます。いつかこれを清算したいと思いつつも、なかなかその機会がやってこない。こんな例は特別に珍しいことではありません。

今田健美神父様 6

確かに「珍しいことではない」だろう。今回取り上げさせてもらった信徒さんの最新の記事、これまで見て来た記事から三年経った記事にはこうある。

かみのこひつじ

2018.02.03 Saturday 何年ぶりだよ

(…)

今の自分は正直かなり信仰から離れている…というか、完全に離れてしまったと思う。

(…)

教会との繋がりは途切れていませんが、頻繁には行かなくなったし、キリスト教関連の書籍も読まなくなり、神様のことも考えなくなりました。

彼は自分がこうなった理由を幾つか考えているようだ。しかし彼は、現代の司祭たちの悪しき影響に、「ゆるみ」や「生ぬるさ」をもたらす影響に、あまり気づいていないに違いない。一人の信徒がこのようになっていくのには現代の神父様方の責任も大きい。今田神父様のように教えず、岡田大司教様のように教えるのが今の教会である。(私は岡田大司教様の事例しか知らないわけではない。私自身が体験したことを教えよう。参照: 教えないのですか? 3 )

神の慈悲を「頼み過ごす」こと

「頼み過ごす」=「過度に期待する」

かみのこひつじ

2015.09.13 Sunday 主日のミサに行かない

今日も主日のミサに行かなかった。
これでもう1か月、主日のミサに参加していないことになる。

(…)

答えは自分でもわかっているのだが、私は今、教会に行くことになんとなく「義務感」を感じてしまっているのである。
教会に行くことに「喜び」を感じていないのだ。

(…)

でも、クリスチャンなんだからミサには行かないとなぁ。

(…)

このような義務感で日曜日の朝に早起きができるはずもなく、

(…)

う~ん…はっきり書いてしまえば、主日のミサで得られるものよりも、惰眠を貪ることのほうに魅力を感じてしまっているんだよな要は。
そして、教会に行かなくても神様は私のことを愛してくださっているから大丈夫、みたいな謎の安心感もある。

「謎の安心感」と、「謎の」とあるから、この人自身、「こんな安心の仕方でいいのかな . . . 」と思うところがあるのかも知れない。

そうである。そのような安心は昔の本が「望徳」に関する教えで「神の慈悲を頼み過ごすこと」と呼んでいるものである。「頼み過ごす」とは「故なく過度に期待する」ということだ。

ラゲ編『完全なる痛悔』(1902年

この希望心は平生肝要なりと云えども、とりわけ最期の時は尚更に肝要なり。そは悪魔は生涯天主の御慈悲を頼み過ごさせて、罪を勧めし如く、最期の時には今迄深く見せたる御慈悲を如何にも淡く思わせて、頼もしき心を失わせんとすればなり。

公教要理(1952年

第四十八課 対神徳

343. 

どのようなことが望徳に背く行いでありますか。

救霊に就いて失望し、或は天主の助を頼み過すことが、望徳に背く行であります。例えば、罪を犯して自暴自棄に陥り、或は徒らに改心を延し、又は己の力を信じて罪を犯す危険に近づくことなどであります。

つまり、「私は罪を犯してしまったかも知れないが、しかし神は愛だから、結局は大丈夫だろう」と軽く考えてしまうことだ。昔の本は「そういうのは良くない安心だ」と警告している。

しかし、現代の教会はこの警告も無くしてしまった。それどころか、今や神父様方自身が、それも「司教職」にある神父様方が、この「天主の御慈悲を頼み過ごす」ということをやっている代表格、第一人者なのである。


補足1

今回の記事の小題を、「信仰の喜び」よりも「信仰の厳粛」、とした。しかし私たちは、「喜び」はもちろん諸手を挙げて歓迎するが、「厳粛」などと言われると息が詰まるような気がし、つい敬遠したい気持ちになるのである。

しかし、この信仰はどうしても、本質的に「厳粛」なところに立っている。何故なら、この信仰はイエズス様のあの「御犠牲」の上に立っているものだからだ。それがあって初めて成り立っているものだからだ。

この信仰は単に「神は愛」という信仰ではない。イエズス様の「贖いの御業」(=御犠牲)によって成り立っているものだ。私たちは単に「神は愛」と言うだけでなく、常のそのことを覚えていなければならない。「神の愛 = イエズス様の御犠牲」と覚えていなければならない。それを忘れたら「忘恩」というものだ。

だから、この信仰はどうしても、本質的に、私たちに「厳粛」を要求する。喜び? 本当の喜びは、「ミサを楽しくする」なんていうところから来るのではなく、その「厳粛」を受け止めたところから、いわば「じわじわ」と(卑近な言い方だけれど)、湧いて来るのだと思う。

けれど、悩ましいことに、今の御ミサ(ノヴス・オルド・ミサ)とそれを支える神学は、この「厳粛」というものを希薄化している。この「厳粛」ということは、私たちの側の心の持ち方としては「敬虔」ということになる。しかし現在の御ミサでは、私たちは御ミサの特に「厳粛」であるべき時点(聖変化や御聖体拝領)で、「敬虔に跪く」のでなく「敬虔に立って」いる。

しかし、信徒たちにこの信仰の本質(神の愛 = 主の御犠牲)を思い出させるために、常に念頭に置かせるために、跪かせるべきだ。跪かせないと、信徒たちが “可哀想” なのである。この信仰の本質との接触が、その分だけ希薄になるからだ。

神父様方は「人々にあまり窮屈な思いをさせると可哀想だ」と考えるだろうが、逆である。この信仰の本質からすれば、もう少し「畏まらせる」或いは「慎ましくさせる」べきなのだ。そして、その方が、おそらく多くの恵みを受ける。天主様がお喜びになるからだ。

丁度、昔の本にあるこの絵のように。

これのどこが「過剰」なのか? 教えて欲しい。

私は、日本の御ミサでは「跪く」のでなく「立って」いることが “適切” だ、という考えを支持する全ての神父様方に、こう言いたい。

あなた方が、やがてその肉体を脱ぎ、つまり死んで、向こうの世界で天主様の御前に出る時、どうか「立って」いてください。「跪く」ことも「ひれ伏す」こともせず、「立って」いてください。「頭を深く下げる」こともするな、と言うつもりはありません。しかし、体全体で「身を低くする」こと、「膝を折る」ことはしないでください。あなた方が地上で主の御前で常にしていたように、その時も是非「立って」いてください。

私自身は、その時、その程度のものでは、とてもじゃないが済まない、「立って」いることなんか、とてもじゃないができない、という感じ方以外の感じ方はできない。


補足2

上で、「だから、そんな『魅力合戦』はやめた方がいい」と書いた。しかし私は、この言葉で終わらしてはどこか不足、と感じた。以下、補足。(しかし、以下は、当サイトを見慣れている人たちにとっては見飽きたものである)

しかし、これはもちろん「御ミサにはどんな魅力もあってはならない」ということを意味しない。御ミサには、実際、魅力はあるものだ。ただ、さっき言ったような、人間の心(と云うより、五官?)に訴えかけて来るものを求めるより、「ミサ聖祭とは何か」をじっくりと深く学んだ方がいいということだ。

ところが、悩ましいことに、「ミサ聖祭とは何か」に関する現在の教会の説明は偏っている。第二バチカン公会議に深く影響された神父様方は「昔の教会は一方の事だけを強調していた、強調し過ぎていた。私たちはバランスを取り戻したのだ」と主張するけれども、それは本当ではない。彼らの主張に沿って見てさえ、彼らはもう一つの「アンバランス」を実現したに過ぎない。

参照

彼らはこう主張する。
「ミサに関し、昔の教会は “主の犠牲” という側面ばかりを強調していた。しかし、エウカリスチア(ミサ)は、実は、初代教会の頃から “共同体の親しい食事” という側面を持っていたのだ。われわれはそれを回復したのだ。ミサのバランスを回復したのだ」

しかし、そのように言う彼らが実際にやったことと云えば、御ミサの「共同体性」(共同体の一致、信者の一致)という横軸を曰く回復し、しかし「神的食事」(神への一致)という縦軸については、それを遠くに、非常に遠くに、小さくなって見えなくなるぐらい遠くに追いやった、ということだ。*

* この事は、彼らが「主の御犠牲」の御前に相応しい「跪き」という姿勢を遠くに追いやった事と対応している。

だから、現在の私たちは「ミサ聖祭とは何か」を学ぼうとする時、古書店や図書館やデジタル・アーカイブなどを覗いて、昔の本に学ばなければならない。現在の神父様方に聞いてみなさい、上の絵のようなスタイルの考えを聞かされるばかりだ。だから、「バランスを回復した」と言いながら「新しいアンバランス」を実現したのでしかない現在の教会、「行き過ぎを修正した」と言いながら自分自身が大いなる「新たな行き過ぎ」をやらかしているのでしかない現代の教会の中で「真のバランス」を見出すためには、私やあなたの一人一人が「昔の本を調べてみる」以外、実際上、方策はないのである。

注)以上こう書きながらも、私自身は実は「昔の教会には “過度の強調” があった、アンバランスがあった」とは考えていない。と云うのは、昔の本をいくら読んでも、私はそこにそのようなものを見ないからである。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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