2018.04.05

主日の義務 14

信者をことさら「大人扱い」することの非

国井神父様は「大人の場合は」と言ったわけだが、「もし自分自身の選択の中に野放しにされたまま拘束されないでいたなら悪用したであろう自由」参照に関しては「大人」も「子供」もない、というのが「人間の “実際” のところ」である。

そういう「人間の実際」を見据えているのが「良き牧者」である。リベロ神父様と今田神父様がそうだった。

私はここにもう一人加えようと思う。アロイジオ・デルコル神父様(1920-1995)である。以下、デルコル神父様の『ご存じですか? 34 神をみとめる心』から引用する。

pp.20-24

7 “おきて” という安全柵

デルコル神父様

(1920-1995)

 では、しばらく目をこの世のことにむけてみましょう。すると、社会問題であれ、個人問題であれ、わたしたちにはわからないことばかりです。ときには、むじゅんしていると思われることさえあります。でも、むじゅんだ、不合理だと、さけびだすまえに、みなさん注意しなければなりません。なぜなら、わたしたちの知恵でつかむことのできない、いろいろの原則や、理解していない複雑なことが、そこにあるからです。
 それにしても、はっきりと、確実にわかっていることは、これです。
 すなわち、神が、だれをもむりやりに地獄におとすようなことはない、というそのことです。すると、もしだれかが、地獄にいくとしたら、それは、その人の責任、その人ひとりの責任だということになります。
 そのうえ神は、“おきて” という安全柵をもうけて、わたしたちが、そこにおちる危険を防いでくださったのです。もちろん “おきて” は、守ろうとすれば、つらいところがたくさんあります。そして、おおくのばあい、わたしたちは、なぜこんなにつらさがあるかということを、後では、わかるようになるとしても、その当場管理人注1は、さとることができないのです。
 たとえば、わたしは、小さいとき、わたしをあれほど愛していたおかあさんのことを、《おかあさんは、ぼくを憎んでいる》と考えていたのです。それは、おかあさんが、わたしにむりやりにヒマシ油をコップ一杯のませることが、よくあったからでした。
 いまは、予防注射をしますが、あの当時は、まだ、そういったものがなかったので、このヒマシ油をつかっていました。
 ほんとうは、このヒマシ油や、予防注射のおかげで、どれほどおおくの人たちの “いのち” が助かったかわからないのですが、子どもは、まだそれを悟るほど知恵が発達していません。それで、ありったけの力をつくして、逃げようとします。そして、また、むりにのまされると、自分の親に対してさえ、
 「おかあちゃんのばか!」とさけぶのです。でもあとで、その意味がわかるようになると、《ああ、ありがたかった。おかげで命びろいをした!》と思うようになります。
 では、神のばあいは?
 そうです、神は、わたしたちの親より、もっと完全な方です。いつくしみ深い方です。それで、もし、神が、なにかわたしたちにとって、つらいことを耐えしのばせるとしたら、たとえ、わたしたちに、その理由がわからなくても、それは、わたしをいじめるためではなく、かえって救うために、そうなさるのです。
 わたしたちが、あまりの苦しみに、悩みに、天地がわたしたちの足のしたに、くずれ去っていくように感じられるときがあるとしても、このヒマシ油をのまされる子どもから教訓をとって、神のいつくしみに希望をもたねばならないのです。

[管理人注1] この本には確かに「当場」と印刷されている。「とうば」とルビまで振ってある。しかし、中程度の国語辞典と漢和辞典を引いてみたが、そのような言葉は見当たらない。「当座」の間違いではないか。戻る

デルコル神父様の言うように、私たちは、日曜の(或いはその代替曜日の)御ミサに頑張って与り続けることから受ける恵みを「その当座は、さとることができない」かも知れない

だから、神父様方は信徒たちに「まずは四の五の言わずに『とにかく』式で与り続けよ」と教える(≠強制する、=強く勧める)べきである。しかし、現代の神父様方は気の利いたことを言うのに忙しく、そうしていない。

親心

「主日の義務」も天主様から飲むことを命じられた「ヒマシ油」かも知れない──と考えるぐらいのものがなければならない。
(それにしても、人々は「~すべし、~すべからず」の世界が本当にそんなに嫌いなのか? 私には「親心」に思えるのだが)

「毎日曜の御ミサにただ形式的に参加しているだけでは消極的である(or 無意味である)」というような口調に簡単に乗せられてはならない。何故なら──以下、デルコル神父様が上でおっしゃっていることを繰り返すに過ぎないけれども──

まず地上の、普通に言う私たちの「社会」のことを考えてみよう。日本の「社会」では、私たちは二十歳になれば、「あなたもこれで『大人』の仲間入りですね」と言われる。しかし「人間」というものは、たとえ何歳になっても、地上的な事柄に関してさえ、しばしば「判断ミス」を犯す。そうではないか?

つまり、「地上的な事柄」に於いてさえ「未熟な大人」はいっぱい居る。「まして霊的な事柄に於いておや」と言葉を続けることは間違いだろうか? 私の考えでは、間違いである筈がない。何故なら、「霊的な事柄」つまり「信仰に関する事柄」は、「地上的な事柄」よりもずっと把握するのが難しいからである。

そんな時、「あなた方はもう『大人』だから、何事も自分で判断してできますよね。『義務』だの『掟』だのと、いちいちうるさいことを言われる必要はありませんよね。ええ、私たちは言いませんよ」と司牧者が言ったらどうなるだろう。

「どうなるだろう」ではない。私たちはリベロ神父様や今田神父様のように “当り前の予想” をしなければならない。

くどいし、重複もするが、もう少し。

■ 国井神父様は簡単に「大人の場合は」と言う。

なぜ、カトリック教会は毎日曜日ミサがあるのですか。

いろんな答があると思いますけども、<だって行かないと罪になるでしょう…>とかね、それが一番消極的な態度ですが(…)。大人の場合は、なぜ行くのか、と言われたら、それは<私が行きたいから行くんです>。なぜ行きたいか。強制されて行くわけではありません。

「全実体変化」 を信じない司祭  国井健宏神父  Part 2

■ 

主日の義務 1」で取り上げた西千葉教会の小林敬三神父様もこんな口振りである。

ところが第2バチカン公会議以降、各自の自主性が重んじられ、自分の判断で行うことになった。信者を大人扱いするようになったわけである。

カトリック西千葉教会

たぶん、この神父様も「第2バチカン公会議以降」のそのような変化に好意的なのである。文章の前後関係から判断すれば。

しかし、私に言わせれば、そんなものは「人間の実際」に対応していない、人間の「性情の弱さ」「罪への傾き」を甘く見ている、抽象的な頭から出た空疎な「理想」のセリフに過ぎない。一枚の紙のように薄い。

mysterium fidei

信仰の神秘

私たちは、たとえ何歳になろうが、「信仰の真理」或いは「信仰の神秘」に関しては「子供」であり続けるだろう。「主日の御ミサを欠かさない」ことから得る霊的利益、霊的恩寵がどれほどのものかは、地上にある間の私たちは掴み切れないだろう。

『神の神秘的な都市』にはこうあった。

自分が為した種々の誓いや誓願を完全に果たそうとして全ての力と愛をもって奮闘する者たちが、自分のためにどのような、またどれほど多くの恵みと宝を集めることになるかは、この世的生を送る人たちには決して計算も理解もできません。と云うのは、私の最愛の娘よ、私はあなたに保証しますが、自分の宗教的義務を完全に果たす者、それを厳守する者は、功徳に於いて、殉教者と同等であるか、或いはそれ以上であるからです。

主日の義務 10

『神の神秘的な都市』のこの話は修道会に関するものだけれど、しかし私たちにとっての「主日の義務」に転用して考えて何か悪いわけがあるだろうか。

学者先生方が長々とする「説明」の世界も結構かも知れないが、「御ミサの真の意義の感得は『説明』によるよりも『聖寵』による」と思って、あまり理屈を言わずに、カテキズムや教会法が教える通りに主日の義務を文字通り「義務」「掟」と思って、今田神父様の言うように「厳重に守ってゆく」ことが、やがて私たちが「しまった!」と後悔するのでなく「ああ、ありがたかった。おかげで命びろいをした!」と叫ぶことに繋がるに違いない。

こういうことを言わなければならないのは、本来、つまらぬ私などではなく、神父様方である。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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