2018.04.05

主日の義務 15

母性的な教会(父性を欠く教会)

日本の教会は、「日本人にとっては教会は『母性的』になることがいい」とばかり思い、「父性を欠く」ことについてはどんな懸念も覚えていないようだ。

■ 池長大司教様の文章(おそらく2012年)から

このほかに、罪を罰する「父なる神」を強調するヨーロッパのキリスト教と合わない感性の違いもある。遠藤周作が指摘するように、日本人は罪を許す「母なる神」のほうにひかれる。

池長大司教様の良くない世界 Part 3

池長大司教様のこの小文の題名は「これからの教会に望むこと」となっている。と云うことは、彼は、日本の教会は彼言うところの「日本人の感性」に合わせて「母性的」になった方がいい、と “望んで” いたというわけだろう。

ところで、あなたは「主日の義務 7」で取り上げた岡田大司教様の講話を聞いて、「ここには父親が居ない」と思わなかったか。私は思った。

他方、私はあの今田健美神父様には「父親」を感じた。力強き「父性」を。しかし、「厳しさ」を感じただけではない。「父親の優しさ」も感じた。しっかり感じた。思うに、バランスの取れた父親に於いては「父親の厳しさ」=「父親の優しさ」なのだろうと思う。その二つが有機的に統合されているのだと思う。そう、誰が「厳しさ」と「優しさ」は必ず対立するものと決めたのだ。

今田神父様に比べれば、岡田大司教様はあまりに「なよなよ」している。森司教もだ。教会に「優しさ」や「母性的愛」を求めるあまり、彼ら自身が「なよなよ」になってしまった。私はもう、彼らのことを「岡田お母さん」「森お母さん」としか呼びたくない。

しかし、家庭にはやはり「父親」と「母親」の両方が必要だ。早い段階から父親をなくした家庭では、やがて成長した子供の口から「私の母は、母親であったのはもちろんですが、しかし父親の役もしてくれました」と聞かれることがよくある。そのような母親は、まあ、賢い母親と言っていいかも知れない。家庭には「父親」と「母親」の両方が必要であることを直感的に知っているのだ。

そこへ行くと、「岡田お母さん」や「森お母さん」は「愚かな母親」だ。いわゆる “過保護” で子供を駄目にするタイプの母親だ。

しかし──話を根底に戻そう──彼らは男性なのだ。それなのに男性の美点を失っている。

そして、こういう司牧者は、こうでありながら、聖母が人類にとって最も頼もしき「御母」であることには思いが行かないらしく、信じていないらしく、それについて全く言わないのだから、呆れたもんだ。全くの spiritual blindness だ。

注)彼らも「マリア」については話をすることがあるかも知れない。しかし、私が言っているのはそういうことではない。(わかるよね?)

林 道義(著)『父性の復権』(中公新書)

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右の本を、私はまだ大して読んでいない。ただ、この表紙の言葉を早急に見せたかっただけだ。

しかし、日本の教会がもう少し「父性」を取り戻さなければならないというのは確かだ。

今田神父様も、「昔の厳しさには、行きすぎもたしかにあったと思う。いらないところで、こわおもてをしていたと反省する」とお書きになっていたりする(今田健美神父様 2)。

しかしそれでも、既に言ったが、第二バチカン公会議の時代を(或いは「遠藤周作の時代」を)色濃く生きた世代の神父様方は、私たちの教会に「バランスを取り戻した」のではない。彼らは甚だしく「オーバーラン」した。もう一つの「行き過ぎ」をやらかした。「父性」はここまで薄められるべきではなかった。

■ 遠藤周作と親しかったカトリック作家・三浦朱門の言葉

遠藤の信仰の救いには、母性的な優しさ、慈悲というか、何をしても許してくれる母性愛的なものが感じられる。結局のところ、母親は子どもの失敗をみても、最初から許す気になっている。とがめることなどしない。

とがめることなどしない?

これに同意する司祭は──つまり、こういう神観を日本のカトリック教会の中に持ち込もうとする司祭は──口では何と言おうと内心では、「ゆるしの秘跡」の必要性を大して認めないだろう。
「『ゆるしの秘跡』を受けなければ赦されない? 『遷善の決意』をした上でそれを受けなければ赦されない? いや、そんなうるさいことを言わず、無条件で赦してくれよ」と思うだろう。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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