2018.04.05

岡田大司教様 1

主日の義務 7」でもちょっと言ったが、私は昨年中、岡田大司教様について幾つかの記事を書いていた。しかし、完成させないまま時が流れた。と、そこへ、大司教様御引退の報が届いた。

私は今、彼に、人間的に、一応、こう言おう。
今まで長い間、ご苦労様でした。

しかし、インターネットに彼の発言が残っているとすれば、それは「過去のもの」ではなく「現在に於ける発信」である。

次に紹介するのは、2016年12月、彼が「司祭・助祭の集い」で語ったことだそうである。ここには幾つかの異常な発言がある。

カトリックさいたま教区

教区管理者 APOSTOLIC ADMINISTRATOR

2016.12.5  司祭・助祭の集い・教区管理者 講話

 ――入門講座のための信徒協力者の養成について――

(…)

 【クリスマスと聖体拝領】
 それと関連しまして、ちょっと脇道にそれるのですが、まもなくクリスマスであります。日本ではクリスマスだけは、大賑わいでありまして、たくさんの方がミサに来てくださるのですね。これは千載一遇のチャンスであって。なんか、クリスマスは教会へ、初詣は神社へと、そういう分類になっているわけですけれども、動機は何であれ教会に来ます。日本の社会では、かつてのようなクリスマスの華やかな賑わいというものはなくなったというように言っている人もいますけれども、クリスマスには来ますよね。その時に、「どういう風に我々の宗教を説明するか。」「どういうプレゼンテーションをするか。」が問われています。
 それから聖体拝領というのが、場合によってはひと悶着ですね。信者でない方も祝福が受けられます、とアナウンスがありますね。それでよくわからないけれども、ゾロゾロと皆が前に出てきます。そうするとご聖体を受けるということが、どういう意味かわからないですね。わかるはずがないです。一回来ただけでわかるはずがないですけれども、我々はなんとなく動作でわかるのですね。なんか変だけれども、前の人がそのようにしてるから、そうしようと。それで出てきて、手を出して、その手の様子が違うのです。日本では右利きの人の場合は、右手を下に置いて、左手を上に上げて、尊いものをいただく時の日本の文化に従った拝領の仕方を標準としているわけです。
 ご聖体をいただけませんが、祝福を受けられますという言葉が何を意味しているか、なかなかわからない。それは、誰かが一緒にそばにいて説明するあるいは動作で指し示さないといけないのでしょうけれども、聖体拝領する人としない人が同数、あるいはしない人のほうが多い場合もあるのですね。
 わたくしが主任司祭をしていた教会では、お父さんが洗礼受けたのですけれども、こんな有難いものを独り占めしては申し訳ないと思って、こっそり持ち帰って、家族を集めて、司祭の役割をして、それを分けていたという・・なんか素晴らしいけれども、うーん、ちょっと、それならその家族全員信者になっていただくといいということで、結果的にそうなったのですけれども。考えてみると聖体拝領というのは、一体何であるのかと。この機会に深く黙想したいものであります。

 【聖体拝領の作法】
 日本では、手で聖体を受けるという特別な拝領の仕方を教皇庁に申請して、日本の文化における適用、アダプテーション(適応)として認めていただいたと思うんですけれども。ところが、これは日本だけの特例かと思ったら、色んな国でも段々そうなってる。
 昔は全世界みんな、信徒がご聖体に触れるということは、ありえないという考えだったんですね。ですから今でも、口で受けることを強く希望する人がいます。それを拒んではいけないという教皇庁の指導でありますので、拒まないのですけれども、中には跪いていないと受けたくないという人もいて、行列が一旦そこで途絶える。ぱっとそこで跪かれちゃうと。まわりはどうであろうと、その人は跪いて受けるということに懸命でありますので、ご聖体というのは自分の満足、自分のイエスとの一致だけじゃなくて、共同体の中の自分ということを強く考えるときでありますので、自分さえ良ければ・・・、そこまで思ってはいないのでしょうけれども、どうしたものかと思いながら、中には立ちなさいと強く命令して、立たないとあげないという司祭がいて、これまたひと悶着で、すぐに訴えるということになります。
 日本の司教協議会は、日本の教会における聖体拝領について何度も話し合い、そして司教協議会から文書を発表して、こうしますということを伝えたわけです。私たちも2、3年前に、その学習をしたと思います。立った姿勢で手の上に、うやうやしくご聖体を受けて、その場ですぐにご聖体を口に運んで拝領していただくと。これは持って帰ったりとか、まして他の人にあげたりとか、それはまた話が全く別のことなんです。それに日本の文化では、人の口の中に他の人が物を入れるということは普段はないわけで、親が子どもに食べさせるとか、高齢者で介助が必要な人の口に食べ物を入れるっていうことはあるんですけれども、限りなく尊いお方をいただくという時には、それにふさわしい動作があるわけですね。ところがご聖体については、あーんと口を開けて。それはかつては当たり前だったのかもしれませんが、この辺について、ちょっと共同体でも話し合っていただけたらと思います。(…)

(大司教 ペトロ 岡田武夫)

管理人のコメント

岡田大司教様の特徴を一言で言えば、そのお考えがことごとく「浅い」、そして視界が「狭い」ということである。しかし、ただこう決めつけただけでは「失礼」ということに終わるかも知れないから、以下に説明する。

以下に引用する言葉の文字列をクリックすれば、本文中のその言葉のある箇所に飛び、所謂「前後関係」を確認することができる。

日本ではクリスマスだけは、大賑わいでありまして、たくさんの方がミサに来てくださるのですね。これは千載一遇のチャンスであって。

大司教様はそう言うが、クリスマスというのは、恋人たちが「クリスマスの “雰囲気” をちょっと味わおうか」ということで、つまり一種「物見遊山」的に教会に来ることも多いだろう。だから、その機会を好意的・希望的に見るのは結構だが、しかし「千載一遇のチャンス」とまで言うのはどうだろう。私は、ここに大司教様の「現実を見る目の甘さ」が現われているように思う。

その時に、「どういう風に我々の宗教を説明するか。」「どういうプレゼンテーションをするか。」が問われています。

彼は「説明」「プレゼンテーション」という言葉を選択する。ご本人は何気なく使っているかも知れないが、それは一つの「選択」である。そして私は、そのような言葉を選択する司祭の感覚はどうかと思う。確かに信仰は「宣べ伝えられ」なければならず、それは「言葉」によって為される。しかし「伝道」は、「宣教」は、何か、「説明」「プレゼンテーション」といった言葉を超えたものである。それは天主様と連携した動きだろうし、それゆえ「祈り」ということも無ければならないだろうし、「犠牲」ということも無ければならないだろう。しかし、岡田大司教様ばかりでなく現代の司祭方の口調には、なかなかそういうものを感じられない。何か、「表層的に知的」とでも言ってみたいようなものを感じる。

ご聖体を受けるということが、どういう意味かわからないですね。わかるはずがないです。一回来ただけでわかるはずがないですけれども、我々はなんとなく動作でわかるのですね。なんか変だけれども、前の人がそのようにしてるから、そうしようと。

何とも言語不明瞭である。私たち信者は「御聖体」に関して、「なんとなく」とか、「前の人がそのようにしてるから、そうしよう」とか、その程度の世界、そのような「曖昧」な雰囲気が濃厚に漂う世界に住んでいるというのか。また、私たち信者は、御聖体拝領の場に立ち、「なんか変だけれども」と感じることがあるというのか。大司教様は何を言っているのか。

日本では右利きの人の場合は、右手を下に置いて、左手を上に上げて、尊いものをいただく時の日本の文化に従った拝領の仕方を標準としているわけです。

しかし、一口で「尊いもの」と言っても、その「尊さ」には色々ある。つまり程度の差、〈高低〉の差がある。日本人は相手から差し出された「名刺」でさえ礼儀正しく両手で受ける。真心こめて作られた和菓子も両手で受けるかも知れない。しかし、それらの尊さと「御聖体」の尊さは比べ物にならない。また、これは以前「跪き」のことで書いたことだが、日本人は「文化勲章」や「卒業証書」を受け取る時、「手で受ける聖体拝領」とほとんど同じに、両手で受け、お辞儀する。しかし、それらのものの尊さと「御聖体」の尊さはやはり比べ物にならない。それから、御聖体を手で受けると、よく見ると目で見える程の大きさの御聖体の欠片が手に残っているという問題がある参照。しかし岡田大司教様は、常に、上のように簡単に言うだろう。1992年に言った事と変わらない。彼に名を付けよう。「簡単鳥」

 わたくしが主任司祭をしていた教会では、お父さんが洗礼受けたのですけれども、こんな有難いものを独り占めしては申し訳ないと思って、こっそり持ち帰って、家族を集めて、司祭の役割をして、それを分けていたという・・なんか素晴らしいけれども、うーん、ちょっと、それならその家族全員信者になっていただくといいということで、

大司教様が「素晴らしい」と言ったのは、その父親の「思い」の部分であって、「信徒が御聖体をこっそり家に持ち帰る」という行為を言ったものではない。しかしそれでも、「人の思い」には「素晴らしい」という形容詞を付け、そのような行為に関してはどんな形容詞も付けないという大司教様の言動に、私はただならぬものを感じる。──彼が話したその逸話は、単に「信徒が御聖体をこっそり家に持ち帰る」ということだけではなく、「信徒が御聖体をこっそり家に持ち帰り、それを未信者に与える」ということなのである。彼はもう少し何か言ったらどうなのか。

 日本では、手で聖体を受けるという特別な拝領の仕方を教皇庁に申請して、日本の文化における適用、アダプテーション(適応)として認めていただいたと思うんですけれども。

こういう時に「思うんですけれども」と言わなくて結構。日本の教会は確かに、「信徒が御聖体を手で受けること」の許可を、当時の典礼聖省から得たのである。もう一度言うが、「得たと思う」ではなく、「得た」のである。しかし、その当時の「典礼聖省」は、前回見たあの文言を書いた典礼聖省である。それからまた、正に各国司教団にその許可を与えた書簡に於いて「私たちはもっと簡単な方法を採用することもできます。それは、拝領者に聖器の中の聖体を直接取らせることです」と書いた典礼聖省である参照。このような情景を見て、日本の司教様方は何も理解しないのだろうか?

ところが、これは日本だけの特例かと思ったら、色んな国でも段々そうなってる。

いつの時代のことを話しているのか。今の時代に「段々そうなってる」などと言うのは不思議な時代感覚である。と云うのは、「手による聖体拝領」は、以前私がちょっと調べたように、ライゼ司教様参照参照のアルゼンチンをほとんど唯一の例外として、1980年頃にはもう、世界の大部分の国々に “導入され済み” だったのであり、ほとんど “蔓延” の域に達していたのであり、それ以上その方式を新規導入する国はないほどのものだったろうからである。それなのに、その地点からほとんど40年間を経た現在に於いて、まだ「段々そうなってる」と言うならば、「大司教様はいつの時代に生きているつもりなのだろう?」と訝られても当然ではないか。

昔は全世界みんな、信徒がご聖体に触れるということは、ありえないという考えだったんですね。ですから今でも、口で受けることを強く希望する人がいます。

「ですから」ではない。後述するように、今「舌で受ける御聖体拝領」を選択している人たちの中には、全信者が御聖体を舌で受けていた時代の教会(1969年までの教会)を自らは体験していないという比較的若い世代の人たちも多いのである。つまり、そのような人たちは「御聖体を舌で受けること」を、別に、自分の「過去の習慣」として今も引きずっているというわけではないのである。見るべきものを見落とさず見よ。物事を単純化すべきでない。

中には跪いていないと受けたくないという人もいて、行列が一旦そこで途絶える。ぱっとそこで跪かれちゃうと。

途中で言葉を切らないで欲しい。「ぱっとそこで跪かれちゃうと」“どうなるか” を言って欲しい。「現実」を「現実的」に想像した上でそれを言って欲しい。「ぱっとそこで跪かれちゃうと」“うしろの人がけつまずいて転倒” でもしますか?

どんな危険も、それが実際に起こる可能性が「0パーセント」ではないとすれば、司祭はそう問われた時、言葉としては簡単に、常に、「ええ、そうなるかも知れません、それは起こるかも知れません、そうなれば大変なことです、非常に危惧されます」と答えることができる。しかし、危険が実際に起こる可能性は、事柄により、「80パーセント」に見積もるべき時もあれば、「5パーセント」に見積もるべき時もあるというのが、実際のところである。

私の「現実感覚」によれば、「ぱっとそこで跪かれちゃうと、うしろの人がけつまずいて転倒する」ということは、そりゃ「可能性0パーセント」ではないとしても、そう簡単に起こることではない。何故なら、うしろの人も目をつぶって歩を進めているわけではないのだし、それに「聖体拝領」の場ということで、それなりに気を張っているだろうからだ。お年寄り? お年寄りだって目は開けているだろう。そして前の人が跪いた時、歩を止めるぐらいのことはできるだろう。

この「行列が途絶える」「うしろの人にとって “危険” なことになる」というのは、信者に「跪いての聖体拝領」を何とか思い留まらせたいと思う司牧者が必ずのように口に出すことである。
しかし、一言で言って「大袈裟なことを言うな」である。

神父様方があまりその「危険」を大ゲサにいつも言うようなら、私たちは自分の背中に「御聖体拝領の時、私は跪きます。申し訳ありませんが、お気をつけください」とでも大書しよう。

人々は笑い、呆れ、そして「変人扱い」するかも知れないが、少なくともこれで、神父様方は「うしろの人にとって危険なことになる」とはほとんど言えなくなるだろう。

跪いた人につまづいて救急搬送される人も少なくなるだろう!

「跪かれると行列が途絶える」ということに関しては、少しぐらい途絶えて何の問題があるのか。

ご聖体というのは自分の満足、自分のイエスとの一致だけじゃなくて、共同体の中の自分ということを強く考えるときでありますので、自分さえ良ければ・・・、そこまで思ってはいないのでしょうけれども、

御聖体を「跪いて受ける」ことに固執する人たちについて、仮にでも「自分さえ良ければと考えているのか?」と思うことは、理解力のなさの表われである。
大司教様は、①「物事には重要度の〈高低〉の別がある」ということをご存じないのか? そして、②「他者を他者として理解する」ということがお出来にならないのか?
①「一致のしるしを守る」ということと「神に対して不敬のないようにする」ということのどちらがより重要度が〈高い〉と思うのか? もちろん後者である。そして、② あなた自身がどう思うにせよ(「他者理解」をして下さい)、とにかく彼らにとっては御聖体を「立って受ける」ことは「不敬」なことに見えており、そうである限り、それは「自分さえ良ければ」式の考え方と同一視されるべきではないのである。
これぐらいの事、簡単に分かって欲しい。私はあなたが東大出であることが信じられない。(確かに、全ての東大生たちは、別に、「人間の心理に対する洞察力試験」に合格して東大に入ったわけではないけれど)

中には立ちなさいと強く命令して、立たないとあげないという司祭がいて、これまたひと悶着で、すぐに訴えるということになります。

岡田大司教様のこの講話は2016年12月のものである。ところで、東京のフランシスカン・チャペル・センター(六本木教会)の司祭二名が「立ちなさいと強く命令して、立たないとあげない」ということを始めたのは、遅くとも2016年2月のことである参照。つまり岡田大司教様はこの時、その教会のその件を知っていたであろう。と云うのは、私は東京の信徒たちがその件を岡田大司教様に報告したかどうか知らないが、少なくともこの私自身が、2016年6月、岡田大司教様に書簡でその件を伝えたからである参照

それでいて、大司教様は上のような口調である。「立ちなさいと強く命令して、立たないとあげないという司祭」については、ただそういう司祭が「居る」という言い方に留まっている。あまり気にしているふうでない。彼が気にしているのは、彼の言う「悶着」だけのようである。

しかし、そのような出来事は「悶着」などとという言葉で言われるべきでない。教会には規定があるのだから、大司教たるもの、何が正しくて何が正しくないかをきちんと言わなければならない。2007年の『指針・あがないの秘跡』がその第91項で、「ひざまずいて(…)聖体を受けることを望む信者に対して、そのことだけを理由に聖体授与を拒むことは適法ではない」と言っているのである。だから、「立ちなさいと強く命令して、立たないとあげないという司祭」のそのような態度は「適法ではない」のである。しかし、大司教様はこのことは言いたくないようである。大司教様は、そのお心を一皮めくったところで、教皇庁の指示に不満・不賛成である。(そして、彼の講話を聞いている司祭たちや助祭たちにしても、似たようなものだろう)

そして彼は、その「悶着」なるものの原因を、どちらかというと司祭たちの方にでなく信徒たちの方に帰しているような感じがある。しかし、フランシスカン・チャペル・センターの二人の司祭のような司祭に遭った時、信徒が「訴える」のは当然である。そして、「すぐに訴える」か「ゆっくり訴える」かはさして本質的なことではない。

日本の司教協議会は、日本の教会における聖体拝領について何度も話し合い、そして司教協議会から文書を発表して、こうしますということを伝えたわけです。私たちも2、3年前に、その学習をしたと思います。

> 何度も話し合い、

しかし、人間の世界に於いては、責任ある立場の、信任された複数の人たちが頭を寄せ合って “何度も話し合った” 末出した結論が「愚か」だった、ということは、なきにしもあらずである。

> 学習をしたと思います。

学習? しかし私は上で、「私はあなたが東大出であることが信じられない」と書いたのである。だから、私はあなたの言う「学習」は信じられない。人は「学習しよう」という意欲だけでは学習できるとは限らない。やはり「能力」の問題がシビアに絡んで来る。しかも、今問題になっているのは「地上的問題」ではない。「地上的問題」では、やはり、東大出の人はなかなかであろう。しかし、今問題になっているのは、それよりずっと捉えづらい「霊的問題」である。私は、「霊的問題」に関しては岡田大司教様より全く学のない聖ベルナデッタの方が、また肉の目には「ただの子ども」であるファチマの聖ジャシンタの方が、ずっと「優秀」だと信ずる。

それから、『メモリアーレ・ドミニ』には「すでに導入された場所においては」という文言が入っていたということも「学習」したか? また、「日本司教団は司祭や信徒の意見を求めずに『聖体を手に授ける』許可を申請した」らしいということも知ったか? 当時の日本司教団はおそらく、『メモリアーレ・ドミニ』のことをあまり大っぴらには言えなかったので、司祭や信徒に意見を聞くこともできなかったのである。それでも、あなた方はこう言うのか? 「当時の司教様たちが一生懸命考えて下さったことですから」と。そのように全てを「尊敬」ということで塗り込めようというのか? それは「善」の良い使い方ではない。

日本の文化では、人の口の中に他の人が物を入れるということは普段はないわけで、親が子どもに食べさせるとか、高齢者で介助が必要な人の口に食べ物を入れるっていうことはあるんですけれども、限りなく尊いお方をいただくという時には、それにふさわしい動作があるわけですね。

彼は「日本人の『普段』の生活に於いては、人が他の人の口の中に食べ物を直接入れるということはないが、しかし親が子どもに食べさせるとか、高齢者で介助が必要な場合には、そのようなことも人々によって了解されている」と言ったわけである。
しかし彼は、こと「御聖体拝領」に関しては、そのようなことはないかのように言うのである。しかし、それは嘘である。人々は、「これは高齢者介護の場だ」という目で見るのと同様に「これは宗教の世界だ」と思って見れば、案外容易に了解するものである。誰でも、「宗教」という世界には「普段」という枠内にはちょっと収まり切らないものがある、と知っているからである。
この問題については、私は以前、「共有了解」などという言葉を使いながら、ひとしきり書いた。まさしく、岡田大司教様が言及した「高齢者介護」の場面を使いながら。参照

> 限りなく尊いお方をいただくという時には、

いつも「日本文化」ばかりを引き合いに出す彼の口から「限りなく尊い」などという「宗教的尊崇」そのものを思わせる言葉が出ても、奇妙な「取って付けた感」が際立つばかりだ。

「日本文化」も「日本の宗教」も、「尊いもの」は持っているが、しかし「限りなく尊いお方」、即ちイエズス・キリストを知らないし、「御聖体」も持っていない。参照

「限りなく尊い」などと言いながら、あなたはこれまで「御聖体訪問」などはほとんど勧めなかった人ではないのか。そして、上で見たように、「未信者が御聖体を受けた」という出来事に関しても、ほとんど残念がる様子がない。おそらくあなたは、「人々が御聖体を手で受けることによって、その手の上によく見ると肉眼でも見える程の大きさの御聖体の欠片が残っており、それが床に落ちて、人々の足で踏まれている可能性が大である」参照と聞かされても、心を動かさないだろう。そうでありながら、あなたはやはり人々の前では、たまに「限りなく尊い」と言ってみせたりするのだろう。

ところがご聖体については、あーんと口を開けて。

この「あーんと」と言ってみるところに、大司教様が「口で受ける御聖体拝領」を少しばかり《滑稽視》していることがほの見える。

その「司祭・助祭の集い」で大司教様の話を聞いていた司祭・助祭たちは、「口での拝領」についてはよく知っていたであろう。なにもわざわざ「あーんと」などといった生々しい描写で以って教えられる必要はなかったであろう。そこを、大司教様は「あーんと」と言ったのである。無意識的に、そんなふうな言い方をしてみたくなったのである。

私は一つの事を思い出す。私が直接の目撃者であったわけではないが、聞くところによると、東京教区の教会で、或る時、或る司祭が、自身が指導する要理教室で、「あーん」ではなく「べ~~~」と言ったそうである。舌を出してそのように発声し、「口で受ける御聖体拝領」を滑稽視してみせたそうである。信徒たちの前で。

そのようなエゲツナイ司祭と岡田大司教様は「同じ」だと言うつもりはないが、しかしそれでも「どこか、うっすらとは似ている」と思うのである。

この時代、司祭たちの中には、2ch にでも転がっているような ケケ太郎 Ψ(`∀´)Ψ が居るようである。そんなものが司祭服を着て収まっているのである。それというのも、そうなっているご本人ばかりでなく、神父様方のほとんどがオブセッションのようなものについて全く無知だからである。聖パウロの言う「私たちの敵は血肉ではなく霊である」という言葉を「何か “精神的” な事を言っているのではないか」程度にしか思っていないからである。それで、油断全開だからである。しかし、そんなことでは、後輩司祭を助けることもできない。少しは、後輩司祭たちのことを心配する聖ピオ十世教皇様の御言葉でも聞いたらどうか。すゝめヘレント・アニモ

そして彼は、「あーんと口を開けて」のあとに、こう続ける。

それはかつては当たり前だったのかもしれませんが、この辺について、ちょっと共同体でも話し合っていただけたらと思います。

今さら何を「話し合う」というのか。今さら何を「考える」というのか。考えたければ考えてもいいが、この人は分かっていない。

日本の教会で「手で受ける聖体拝領」が始まってから約「半世紀」経つのである。48年間。それなのに、いまだに「舌で受ける御聖体拝領」を選択する人はなくならない。

しかも、今「舌で受ける御聖体拝領」を選択している人たちの中には、全信者が御聖体を舌で受けていた時代の教会(1969年までの教会)を自らは体験していないという比較的若い世代の人たちも多いのである。つまり、そのような人たちは「御聖体を舌で受けること」を、別に、自分の「過去の習慣」として今も引きずっているというわけではないのである。

Point
現在およそ50歳以下の信者は「跪いて口で受けること」を自分の「過去の習慣」として持ったことがない。

参照

彼らにとってその選択は「古い」ものではなく、むしろ「新しい」ものなのである。彼らには、ほとんど全ての信者が御聖体を手で受けている中、自分は舌で受けることを選択する理由がある。

その辺の事情を知った上で(あなた方としては、その辺の「不思議感」を持った上で)それについて「話し合う」なり「考える」なりすれば、まだ意味があるかも知れない。しかし、何の想像力もなく、よく調べることもなく、ただそのような人たちに向かってあなた方の「一致のしるし」に関する浅薄な説明を繰り返すだけでは、何も変わらないだろう。ただの虚しい「おしくらまんじゅう」に終わるのは目に見えている。

──ということを、大司教様はたぶん、何も分かっていない。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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