2018.04.05

岡田大司教様 2

「この人は教会の中で話す時より赤旗のインタビューを受ける時の方が顔が生き生きと輝くのではないか」と疑わせる岡田大司教様。

赤旗 2013年

赤旗 2015年

しかし私は、或る種の言い方をすれば、日本共産党の中にも「いい人」は居ると思う。岡田大司教様も「いい人」である。

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4:02-
他方、今の私たちが住んでるこの世界には、本当に、どうにかしなければならない色々な問題がありますねぇ。神様が作ったこの世界、神様が恵みを注いでいるこの世界です、しかし私たち人間の中にある、何か、悪いもの、あるいは「悪い力」と言ったらよいでしょうか、そういうものによって、思わしくない、悲しい、あるいは、「むごい」と言っていいでしょうか、そういう出来事があります。そいういうことが少しでもなくなるように、そしてみんなが本当に喜んで共に暮らせる、そういう社会を作っていきたい、そのために力を合わせたい、ほかの人々にも協力を呼びかけたい、そのために私たちカトリック教会は何をどうしたらよいのかということを一緒に考えたい、そういうことをもっぱら考えて、私たちに提案してくれる委員会、「新福音化委員会」を設置しましたので、どうか皆さん、「新福音化委員会」にご協力をお願いいたします。

彼はこのように、その御心情としては、確かに「お優しく」あられる。この世の色んなことに「胸を痛めて」おられる。彼は、私たちの世界にはいまだに「むごい」ことが絶えない、と言う。私も共感する。

しかし、人類世界に「悲しい」ことや「むごい」ことを見ている人は多い。珍しくない。そう、日本共産党の中にもそういう人は少なくない。しかし、この世の様々な悲しむべき事象を見て「胸を痛める」程度のことは、さして勝れていない。否、「勝れて」いるかどうかと云うことよりも、その程度のことでは、この「人の世」というものはどうにもならない。

> そのために私たちカトリック教会は
> 何をどうしたらよいのかということを一緒に考えたい

思うに、今のカトリックは「考える」ことばかりしている。しかし、残酷な解答を言うなら、この世界はいくら人間のチッポケな知恵を寄せ合ってもどうにもならないようになっている。無論、物事は人間の「努力」によって少しは動く。確かに、少しは動く。でも、大きく見れば、人間の力ではどうにもならないようになっている。

今田神父様の言葉を思い出そう。

人間がよりより協議して救いが得られるくらいなら、キリストは神の権威のもとにおかれる教会を建てる必要はなかった。

今田健美(こんだ たけみ)神父様 4

全くその通りである。

しかし、現在の教会は、特に日本の教会は、社会を「内部的に福音化」することばかり言い、「教会」を高く掲げることをしない。

もっとも、たとえ「教会」を高く掲げても、この世はやはり難しいのであるが。
何故なら、「人々は信じない」(聖マタイ 3:12)から。

しかしそれでも、人間の頭を寄せ合って「協議」して何か可能かも知れないと錯覚しているより、「もはや神に祈るしかない」となった方がまだマシである。「人間の無力」に早く気づいた方がいい。

そのように気づいているお一人は内山恵介神父様である。
参照: 1:19:25-

(注: これを単なる「諦め」や全面的な「他力本願」と混同したら百叩き)

対して──はっきり言う──岡田大司教様は spiritual blindness の代表格みたいなもんである。もし彼がただ「市井の人」であったなら、「彼はいい人だ」と言って済むかも知れない。しかし、彼はカトリックの「大司教」であり、日本の教会を誤導して来たから、私は大変──正直に言う──嫌悪を覚える。(憎悪ではない)

上で「『教会』を高く掲げる」と書いた。しかし、現代の司祭たちはそう聞くと、「自分たちを高く掲げる」ことかと思うかも知れない。と云うのは、どこかで「『教会』とは『神の民』である」と解説されているからだ。しかし、それが間違いの始まり。

「教会」が「神の民」であれば、
「教会」を高く掲げてみせることは、
私たちが自分を高く掲げてみせることになる。
それじゃ確かに「威張って」いるようなことになる。

しかし、違う。
「教会」は「御子の家」と言われなければならない。
イエズス様が其処で、「御聖櫃」の内に籠っておられ、恵みを与えようと、私たちを常に待っておられるからだ。

「神の家」と呼ばれなければならない。
「聖霊は自由に吹く」のであっても、やはり神の恵みの最高のものは「教会」に降るからだ。

「神の民」自身は、「御子の家」にかくまわれていても、実際には、かなりの《出来損ない》だ。旧約の時代に御父が手を焼いた御自分の民と似たようなものだ。

私たちは、自分としては謙虚に、
しかしやっぱり「教会」は「高く掲げ」なければならない。

しかし、そのためにも教会は「正常」に復さなければならない。
「手による聖体拝領」なんてしてちゃ駄目だよ。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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