2018.04.05

感情的な反応(理知の後退)

わかる、わかるけど、こういうのはいただけない。
私たちは神から「叡知」を頂いてる筈じゃないか。「感情」の問題と「認識」の問題を “分ける” ことぐらい、できなくてどうする。

※ もっとも、「手による聖体拝領」などをしていたり、させていたりすると、知恵は「曇る」かも知れない。

悪魔が「掴む」のは私たちの「感情」である

悪魔がそれを掴んで私たちを振り回す「把手」があるとすれば、それは私たちの「感情」だ、「理知」じゃない。

悪魔は「十分に理知的なもの」は苦手だ。それは例えば──あまりいい例じゃないかも知れないけれど──私たちが「1+1=2」と考える時、悪魔はその考えを掴んで私たちを振り回すことなんかできやしない。だって、「1+1」はどうしても「2」なんだもの、それをどうしようっていうのさ。どうにもできやしない。

けれど、私たちの「感情」に対しては、悪魔は力を振るうことができる。いつもじゃない。私たちの「理知」の力が弱い時。

罪を憎んで、人を憎まず

今田健美神父様は「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉を「いい言葉だ」とおっしゃったが参照、これは単に「いい言葉」であるばかりでなく、私たちが確実に理解しておかなければならない言葉だ。特に、人を「指導」しなければならない、信徒を「牧さ」なければならない神父様方に於いてそうだ。ところが、神父様方の中には、この「罪を憎んで、人を憎まず」ということを理解しないのか、実際上、「人を憎まず、罪も憎まず」のようなことになっている人が多い。その一例が、前回見たあの大司教様だ。

「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉は、特に「カトリック用語」というわけではない。しかし、常識的に理解できる言葉だ。
どういう意味かと云えば、こうなると思う。

① 

人は、いわゆる「善悪判断」はしなければならない。

② 

しかし、不幸にして罪を犯した「人」については、石を投げつけるようにして「裁いて」はならない。

① 

人は、いわゆる「善悪判断」はしなければならない。

人は「善悪判断」に間違うことがある。しかしそれでも、基本的に「善悪判断」は必要だ。「人生いろいろ。人の考え方もいろいろ」というわけにはいかない。殊に教会に於いて、それではどうしようもない。

ちなみに、宗教初心者の中に、或いは真理探求初心者の中に、「善悪二元論は危険である。私たちは善悪を超えなければならない」などと言う人が時たま居る。しかし私たちは、確かにその時々で「善悪判断」に間違うことがあるけれど(つい「裁いて」しまったり)、しかしそれでも、「善悪判断」を放棄せず、間違ったと思ったら修正しつつその質を高めていくというのが正解なのであって、「善悪判断」そのものを放棄するなんてことが正解なのではない。

② 

しかし、不幸にして罪を犯した「人」については、石を投げつけるようにして「裁いて」はならない。

この考え方はカトリックの中にもある。「石を投げつけるようにして」と書いたけれど、まさしく福音書の中に、姦通の罪を犯して危うく「石打ち」にされかけた女性の話がある。しかしイエズス様はその時、「あなたがたのうち罪をおかしたことのない人が、まずこの女に石を投げなさい」とおおせられたのだった。

しかし、だからと云って彼は、「姦通は悪い」という「善悪判断」まで「してはならない」とおっしゃったわけではないのは、私たちの「常識」の範囲だ。実際、この逸話の最後で、イエズス様はその女性にこうおおせられたのである。「これからは、もう罪を犯してはいけない(聖ヨハネ 8:11)*

* ここで、「人生いろいろ。人の考え方もいろいろ。姦通が善い事か悪い事かについても、人それぞれ」と言ったらどうしようもない。

また、イエズス様はベデスダの池で或る病人を癒し給うたが、その病人と再会なさった時、やはりこうおおせられた。「もっと悪いことがあなたに起こらないように、もう罪を犯してはいけない(聖ヨハネ 5:14)

だから、前回見た大司教様なども、もし本当に「私は同性婚には賛成しない。賛成するわけないでしょ」と言うなら、少しはイエズス様に倣って、そのグループに何か言ったらいいようなものだが、彼はそのような動きは全て「弾圧」と名付けるべきもののように言うのである。

第二バチカン公会議以降、一部の神父様方の間で、物事を極端に言うのが流行った(?)。「主日の義務」を一足飛びに「強制」などと云った極端な語と結びつけた国井神父様がそうである。またそもそも第二バチカン公会議文書『信教の自由に関する宣言』がそうである。彼らは、「自主」然らずんば「強制」、その二つしかない、かのように言うのである。前回見た大司教様も、「自由」然らずんば「弾圧」、その二つしかない、かのように言うのである。しかし、そのような両極端しか言わないのは相当どうかしている。何故なら、それら両極端の間には、あらゆる程度と様態の「指導」ということがある筈だからである。そのような両極端のみ言う司牧者は、結局、「指導」ということを自ら放棄している。

言えなければならない

上で既に言った事だが。

③ 

司祭は、信徒が何か明確に間違った行ないなり考えなりを持っていると気づいた場合、その信徒に対し、「忠告」なり「諭し」なり「諫め」なり「戒め」なり、何事か《口に出して言う》ことができなければならない。

聖書は、「そんな時、あなたは何も言わなくていい。黙って見守っていればいい」とか、「面倒なことになりそうなら、見ることさえしなくていい。あなたの目を、何処かほかの場所に向けていることだ。関わらぬことだ」とか言っていない。
反対にこう言っている。イエズス様の御言葉である。

聖マタイ福音書 18章

兄弟的いさめ
(〔16:19〕、ルカ 17:3、〔ヨハネ 20:23〕)

 15 もしあなたの兄弟が罪を犯したならば、行って二人だけの間で、彼をいさめなさい。もし彼があなたの言うことを聞けば、あなたの兄弟を得たことになる。16 もしあなたの言うことを聞かなければ、ほかに一人か二人を、いっしょに連れて行きなさい。『すべての事は二人または三人の証言によって確実なものとなる』とあるからである。17 もし言うことも聞かなければ、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないならば、彼を異邦人や徴税人と同様にみなしなさい。

聖ルカ福音書 17章

罪のゆるし
(マタイ 18:15、21~22)

 3(…)もしあなたの兄弟が罪を犯したならば、彼を戒めなさい。そして、悔い改めたならば、ゆるしなさい。4 また、もし彼があなたに、一日に七度も罪を犯し、そして七度もあなたのところにもどって来て、そのつど『悔い改めます』と言うならば、彼をゆるしなさい。

前回見た大司教様は「人の考えを裁くな」と言った。しかし、これは大変な間違いだ。「考え」については、その善悪や真偽や正誤を「見分け」なければならない。そして、もし或る者の抱く「考え」が「正しくない」ということであれば、司牧者はそれについて口を開かなければならない。

或る人の「考え」を否定したからと云って、その人の「人」の部分を否定したことにはならない。それどころか、その人の間違った「考え」を指摘するのは、神に創られたその人の尊い霊魂を保護するためである。

こういう簡単なことが分からない司牧者は禍い!


《付録》
小林敬三神父様の奇妙な言葉遣い

天主様に非常にお厳しい面があることは事実である主の聖言。天主の司祭としてこれを直視しないのは. . . 何と言おう. . .「正直でない」。
そして、それを見ようとしない司祭は、その言葉遣いまで変になるようである。

それは「主日の義務 1」で紹介した西千葉教会の小林敬三神父様のことである。彼は「放蕩息子の帰還」の喩え話についてこう書いている。

ところが、まだ遠く離れているのに、父の方が息子を先に見つけ、走り寄って首を抱きしめる。帰って来たという事実だけを喜び、接吻し、良い服を着せ、手に指輪をはめ、足に履物を履かせ喜ぶ。さらには子牛をほふり、料理し、祝宴を開く。つまり、この話は、過去はどうであれ、心から悔い改めれば、無条件でゆるしてくれる天の父である神の愛の深さを教えている。我々の父なる神は、どんなに我々が罪を犯しても心から悔い改めれば無条件でいつでもゆるしてくださるその愛の深さ、無限の心の広さを語っている。

カトリック西千葉教会

私はこれまで、しばしば、「現代の神父様方は物事と物事の《連結の仕方》がどうも変である。性質の相反した二つのものを、或いは大して親和性のない二つのものを、《無理に接ぎ木》して平気な顔をしている」ということを書いて来たが、ここでも同様の違和感を覚えるのである。と云うのは、気づいた人もあると思うが、この神父様の「心から悔い改めれば無条件で」という言い方である。彼はそれを二回も言っている。しかしこれは、普通の言語感覚を持っている人にとっては、「心から悔い改める」ということが「条件」である筈である。

神は罪を「無条件で」赦してくださるわけではない。
そのためには「悔い改め」が必要である。
悔い改めることが「条件」である。

──と、このような言い方になる筈である、普通は。

※ 或いは、小林神父様の言う「心から悔い改めれば無条件で」とは、「心から悔い改めれば、ゆるしの秘跡など受けなくても」という意味なのか?(このような司祭にとっては「秘跡」はしばしば神秘的なものというより教会という人間集団がこしらえた「制度」である)

私も「神は愛」であることを否定しない。もちろんだ。
しかしイエズス様は、その「放蕩息子の帰還」の喩え話で、そのことだけを言っておられるわけではない。彼は、「神は大いなる愛」であるとしても、私たちが私たちとして神に対して取らなければならない姿勢というものを教えておられるようである。小林神父様は「心から悔い改めれば無条件で」という変テコな言い方を二回繰り返したが、イエズス様も或る言葉を二回繰り返しておられる。

聖ルカ福音書 15章

17 そこで、息子は本心に立ち返って言った。『 18(…)父のもとに行こう。そしてこう言おう。《お父さん、わたしは天に対しても、あなたに対しても罪を犯しました。19 もう、あなたの子と呼ばれる資格はありません。どうかあなたの雇い人の一人にしてください》』と。20 そこで、彼は立って父のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父は息子を見つけて哀れに思い、走り寄って首に抱き、口づけを浴びせた。21 息子は父に向かって、『お父さん、わたしは天に対しても、あなたに対しても罪を犯しました。もう、あなたの子と呼ばれる資格はありません』と言った。22 しかし、父はしもべたちに行った。『急いで、いちばん良い着物を出して、この子に着せなさい。手には指輪をはめ、(…)

イエズス様は私たちに「悔い改めはこうあらねばならない」と教えておられるようである。一言で言って「へりくだり」である。

しかし「神の無限の心の広さ」と言う司祭は、まず必ず、「そんなに畏れることはないんだよ。ちょうど無邪気な子供が親をすっかり信頼してその両腕の中に飛び込むようにすればいいんだよ」と言うであろう。しかし、私たちは純真な子どもではない。多くの罪を犯して来た者である。そして、そのことを大人らしく「知っている」者である。イエズス様が上で二回繰り返された言葉は「卑屈」を意味するものではなく、実際、私たちに必要な姿勢だろう。

イエズス様はまた、次の言葉を言った百人隊長をお誉めになった。
主よ、わたくしはあなたを自分の家にお迎えできるような者ではありません(聖マタイ 8:8、聖ルカ 7:6)
そして、この言葉は昔の御ミサでは何度か繰り返された。
「Domine, non sum dignus, ut intres sub tectum meum.(主よ、私は主を我が家に迎え奉るに足らぬ者である)」参照

小林神父様は軽く「心から悔い改めれば」と言う。しかし、ここでも「実際」ということに目をとめなければならない。人間にとって「心から悔い改める」ということは、実はかなり難しいのである。小林神父様の口吻は軽い。彼は、「遷善の決意」などと聞けば、「ああ、古い言葉ですね」という反応をするだろう。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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