2018.04.05

現代の神父様方は祭司アロンに似ている

モーセの兄アロンは、モーセと共に天主様に重用された良い祭司だったが、どこかその性格に弱いところがあったようだ。
私は、第二バチカン公会議後の神父様方はこのアロンと「そっくり」だとさえ思うのである。
以下、映画『十戒』(1956年)から。字幕自体はこの映画の日本語字幕版のまま。吹き出しは私が付けた(暇人)

この時のイスラエルの民ほどではないにしろ、私たちの人生も常に楽なものとは限らない。

私たちも「神は何してんだ?」と思う時がある。
それで、或る意味、
「不信者」が現われるのは避けられない。

話しているのはダタン(Dathan)。民数記第十六章にその名がある。祭司ではないが、有力者である。反逆者一派の一人である。地上的感覚の彼は「不信」を撒き散らす。彼は祭司に挑戦し、祭司の信仰をぐらつかせる。(本田哲郎神父みたいなもんである)

この人が祭司アロン ↑

だが、アロンはあまり自信があるようでない。

この「皆のために」というのがなかなか曲者である。

  • 「われわれ日本人の皆のために、キリスト教の神をもう少し母性的なものにしよう。洋服を日本人の体に合わせて仕立て直すように」

  • 「われわれ日本人の皆のために、未信者を含めた皆のために、聖体拝領や聖変化の時の姿勢と動作を日本文化に合ったものにしよう」

  • 「ただでさえ人生にはいろいろ辛い事や悲しい事がある。だから、イエス様のリアルな磔刑像などはあまり目立たせないようにして、皆のために、ミサをもっと明るく楽しいものにしよう」

アロンは結局、折れる。同意する。

アロンはなぜ同意したのか。
彼自身、人々に「同情」した面もあったのではないか。
人々は旅に疲れていた。モーセを待つことにも疲れていた。
アロンはこう考えたのかも知れない。
「人々の鬱屈した気分を晴らすような明るく楽しい宗教があってもいいかも知れない。それに、私たちは皆、エジプトに居た時、多かれ少なかれこのような宗教に親しんでいたではないか」

斯くて、人々は「喜び中心」の宗教を踊り出す。

しかし、この様を眺めながら──

アロンは責任を感じていた。

戻ったモーセが怒りを発すると、アロンは責められる。

「お前が悪い」

アロンは言い訳する。

「強制されたのだ」

現代の神父様方も、第二バチカン公会議後の信仰と典礼の変化について、死んで向こうの世界に行った時、色々な「だって」を言いたくなるかも知れない。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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