2018.05.05

エルデル・カマラ大司教 1

世界の宗教者が一堂に会して世界について協議する「世界宗教者平和会議」の第一回目は、1970年10月、国立京都国際会館で開催された。

書籍『世界宗教者平和会議・会議記録 1970  / 京都』から

ちなみに、国立京都国際会館は「国連総会議場のような国際会議のための建築を日本にも造ろう」という構想のもとに造られたとの由。

私は勿論このようなものは支持しないが、しかし、この会議に参加していた一人の日本人の宗教家が興味深い観察をしているので、以下に紹介する。

その宗教家は誰なのかは私たちは知る必要がない。それで、彼の名もその音源(これは或る録音から私が書き起こしたものである)の出典も記さない。私は彼の宗教には賛成しない。しかしそれでも、彼の感想のこの一片には共感する。私たちの神父様方に於いても、これを読んで我が身を振り返るべきところがある筈だ。

画像は私による付加。〔 〕は私による補足。文中の「?」は必ずしも疑問を意味せず、尻上がりに発声されたところにも「?」を付した。

皆さん、しばらくご無沙汰いたしました。

えー、皆さんご存知のように、先日から京都、名古屋、伊勢、奈良、ず~っと回りまして、うちの会をやりまして、それから京都で宗教者の世界平和会議がありまして、それに出席したわけであります。やや一週間ですかね、世界中の三十何箇国の、正式の代表が三百人余り、オブザーバーや色々な人を入れますと八百人ぐらい集まりましてね、京都の国際会館で開かれたんです。

まー、あれですねぇ、色んな国がありますね。黄色い、褐色のような服をガラガラ~ッと体に巻いて、半分裸みたいな人もおりますし、白いターバンで、ダーーッと白い服を着た人も居ますし、黒いターバンみたいな帽子みたいなもの被って、真っ黒な服を着ていたり、髭モジャでもって顔がないような人も居たりね(笑)。ま、沢山あるんですよ。それはインドもあればインドシナもあれば、いわゆるセイロンだとかシンガポールとか、そういう人たちも居ますしね、アフリカの人がだいぶ居ますし、それから、欧米ですねぇ。ま、各国から様々な人種が集まってます。

白柳枢機卿様(当時は大司教)の姿が見える。クリックで拡大

で、様々な宗教ですから、お互いに色んなお祈りがありましてね、会の始めにお祈りをするんですね。そうすると、ま、仏教で初め祈ったり、次にマホメット教、イスラム教ですね、でやったり、キリスト教でやったり、えー、「何とか教」って、分かんないんですけどね、長過ぎちゃって(笑)。色んな宗教が、とにかくあるんですよね。

お祈りはまことにみんな、どのお祈りも、言葉を聞きますと、いい言葉ですね、いい祈り言葉です、みんな。だから、祈り言葉はいいのだけれども、やっている人は五、六人、こういう壇上に出てやるわけです、その代表が。ところが、それやっているんだけど、会場の人は誰もやってないんですよ。何にも祈ってないんです。祈っているのは壇上の人が形式的に祈っているだけでね。それでまぁ会が始まるわけです。

さて、会が始まるとどういう話が出るかと言いますと、「ベトナム問題」ね。如何なることがあってもですね、その人員を殺傷してね、物を壊したり人を殺したりすることは罪悪だと。ま、そりゃまぁそうです、そりゃ間違いありません。そういう、「ベトナム戦争を早くやめさせなければならない」という話。これは誰でもそう思いますね。

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これは現代の司祭、菊地功大司教様の本。amazon

それから、「低開発国」って言うんですね。低開発国っていうのは、産業が盛んでなくて、食べるに食べられないような国、貧富の差が激しい国、富んでいる人は富んでるし、貧しい者は食べるに食べられないという、そういう状態の国が意外と多いんですね。まあ、日本人なんて有り難いことにね、働いていて食べられない人はほとんど有りませんですね。誰もが食べられる。働かなければ食べられないのは当り前だけれども、働いていて食べられない人は有りませんですよね。餓死する人なんてほとんど有りません。だから、日本人から見ますとね、低開発国というものの惨状というものが目に浮かばないんですよね。どれだけ酷いものか。

ところが、実際にそういう酷い状態の生活をしている中から選ばれて来ている人が沢山ありましてね、そういう人たちの発言が多いもんだから、自然と問題は「経済問題」になっていくわけですね。例えば、北半球の者が80%の富を持っていて、人口が少ないのにそれだけのものを持ってるとかね。(…)南半球は20%しか、人口が多いのに20%しか富がないと、こういう不公平なことはあってはならないから、富の分配を公平にしろとかね、ま、そういう問題で、もう終始一貫「経済問題」なんですよ、経済問題の話ばっかりでした。「非武装」「開発」、それから「人権」という、この三つの議題に分かれて行なわれたんですけれども、「非武装」の面においても「開発」の面においても「人権」の面においても、ほとんどが経済的なもの、経済の話ばっかりになってしまうんですね。

それで、私がたまりかねてね、手を上げて。手を上げてもね、みんなね、外人は大きいんです、みんな六尺ぐらいあってね、坐ってて手を上げてもね、私より長いんです。私、立って手を上げても短いんです。むこうは「はーい」って言えばすぐ目について指されるんですね。で、だいたい外人が議長ですから、外人同士は名前を知っていたりするんですね。だから、「ドクター何々」なんて、すぐ指される。ところがこっちは日本人だし、ちっちゃいでしょ? 目立たないんですよ。手を上げても見えないらしくてね、幾ら手を上げてもね、指さないんです。あっち指したりこっち指したりしてね。みんな挙手でもって言うわけですから。で、みんなこんなことをやってましたよ。これがまぁ挙手の礼らしいんですけど、私知らないでしょ、こんなことねぇ。だから、こうやって日本人らしく手を上げる。手がなにしろ短いんです、目立たないんです、これがね。まぁしょうがないからから十回ぐらい上げてもなかなか指さないんですね。だからね、大きな声で「はーい!」って言ってね、もうね、睨みつけてやったの(笑)。そしたら初めてね、「Japan」って指してきた。それで、話すわけですけどね。

やっとこさでもってそこまで辿り着いて話をしたのは何かというと──

今日の会議は、宗教者の世界平和会議である。だけど、今まで聞いておりますと、「祈り」とか「神」とかいう話は全然聞かない。「祈り」の話をした人が一人もいないのはどういうわけか。経済の話ばっかりじゃないか。宗教者の会議で「神」や「祈り」が出ない会議っていうのは一体あるものか。

──と、ま、私はね、時々激しくなる時がありますわね。これでも怒る時がありますよね、時々。ああいう激しい調子で始まったわけです。

なぜ祈りをやらないのか。祈りの話は誰も出さない。「宗教」というのは神の御心をこの世に伝えるものであって、神と人間とが一つになって働くのが宗教の、宗教者の立場だ。それなのに「神」もなけりゃあ「祈り」もない宗教会議ってあるものか。我々は宗教者なんだから、神の御心を体して、それを地上界に行なうべきである。それで、神と人間を繋ぐものは何かというと「祈り」なんだ。祈りのないところに宗教があるか。まず祈りをやらなきゃなんない。(…)

──と、そういう話をしたんですね。(…)すると、そういう話をするとしーんとなるんです、私の時はしーんとなります。しーんとなるけども、魂の方じゃ分かってるんでしょうがね、頭の方がね、「低開発」「経済援助」なんてばかり思ってるもんだから、魂が分かって頭が分かんないですね。頭の方が馬鹿で、魂の方は利口かも知れないですけれど、分かんないんですよ。それで、話をした時はしーんとはしたけれども、その時はね。〔しかし〕そのまま済んじゃう。で、そのあとで、私のあとでね、発言したのはキリスト教の人だと思うんですけどね、ま、恐るべき、驚き入った発言をするんです。どんな発言をしたかと云うと──

「神だの祈りだの言ったって世界は良くならない」

──と、こう来たんです。

私はね、若い時にね、中央労働委員会に居ましたでしょ? ま、30年前にね。その時によくその話を聞いたんです、共産党、社会党の連中ばかりですから。私が神様の話をすると、「神だの祈りだのと言って、この世に〔変化が〕現われるか」というようなことをね、よくやって、ま、喧嘩したことがあるんです。それと同じ言葉を聞いたんです、宗教者の会議で。ま、呆れ果ててね、驚き入ったということですね。「神だの祈りだのと言っててね、それじゃ世界なんかどうにもならない」と言うんです。

そのあとがいいですよ。ま、普通ならそれだけです、共産党が言うならば。それが、さすがに宗教者ですよね──

「神だの祈りだのと言ってて、世界はどうにかなるもんでない。われわれ宗教者は」

──と、こう来たんです。〔聴衆笑〕

何を「宗教者」と言うのか。経済教なんですね、あれは。経済教の信者が居るわけです。まあ、驚き入りましたね、私はあれ見てて。それがまた得々と話をするわけですね。(…)まあ、全部が「経済」のことなんです。もう嫌になっちゃう、聞いてて草臥れちゃう。

それから、イスラエルとね、要するにアラブとユダヤ教ですね、いわゆるね。ま、その争いが根本になって、しかも「経済問題」、それから「敬意〔人権〕の問題」「国土の問題」で争っているアラブ連合とイスラエルの問題ですね。それから、レバノンってありますね。イスラエルとレバノンっていうのはあまり、仲悪いらしいんですね。レバノンの国民をイスラエルが圧迫するとか、ま、言い出すんですよ。そうするとイスラエルの方ではね、全部ね、パレスチナ人ですね要するに、とイスラエルとはもうほとんど同じに扱っていて、別に差別待遇をしていないと、こう、イスラエルの方が言うわけです。と、アラブの方は「そうじゃない」と、もう喧々囂々とね、何のことはないんですよね、宗教はそっちのけになってね、イスラエルとアラブの争いが始まってるんですね、論争が。「そうじゃない、そうじゃない」と、みんなそんなこと言っててね、「宗教」の「しゅ」の字も、「精神」の「せ」の字も、「祈り」もなんにも出て来ないで、やってるわけです。で、時間が、延々と一時間も二時間も経っていくわけですよ。

それから、一日が八時間〔会議のために割り当られた時間〕ですからね。私はまぁ痰が出る体だったでしょ? で、こうやって座ってるのが容易じゃない。で、自分は喋らないで、つまんない話を聞いてるんですから。つまんなくないかも知れませんよ?〔しかし〕私たちにとってはつまらないんです、根本がないからね。神様はそっちのけになって、宗教はそっちのけになって、「国土の問題」「敬意の問題」「経済の問題」でしょ? そればっかりです。もう、どうにもこうにもやりきれない思いがするんですね。それが、まあ、「何々大司教」とかね、いわゆる「何々教授」「何々博士」という連中がほとんどなんです、集まっているのはね。だいたい各国の宗教者の代表ですから。だから、いずれもインテリゲンチャで、ま、相当な人たちなわけです。

で、日本人の方は──日本人ってのはだいたい遠慮深いでしょ? だからなかなか発言しないんですよ。また、小さいしね、〔居ても〕分かんないし。なかなか発言しないし、発言しても向こうに「おもねる」わけで、なかなかこう、発言がたどたどしい。だからもう、黒い人たちね、〔また〕黄色い、私たちよりもっと黄色い人たちね、が一杯喋って、で、そこに白人が中に入って喋って、終始一貫「経済問題」と「人権の問題」ですね。要するに「公平にしろ」という富の分配と、それから「いじめるな」と、要するに、何といいます、「敬意の問題」ですね、の話し合いばっかりなんです。(…)

キリスト教ってのはイエス様をはじめ「社会的に働く」ということを、もう前提にしてる。「人類のために働く」というのが前提なんですね、キリスト教はね。自分が深まって、自分の魂を立派にしてね、まあ、仏教のように座禅やなんかあって自分を立派にするってことは二の次で、「社会のため、人類のため」っていうのがキリスト教じゃ先なんですね。だからどうしても、目に見える世界、そういうものに向かって行く。

イエス様がそう言ったんじゃありませんですよ? イエス様はそういう心じゃないけれども、キリスト教本来はそうじゃないけれども、だんだんだんだんキリスト教が社会主義的になっていってね、社会主義者でクリスチャンはずいぶんあります。だから、キリスト教の人たちは社会主義者とほとんど何ら変わらないですね。

それでだんだん神を忘れてっちゃう。この地上界の「経済問題」とか「国土の問題」とかね、そういうものとくっついてますと、だんだん神様と離れていってね、「経済」の中に入っちゃうんですよ。「ああ、あそこにこんなに貧乏人が居る、ここにはこんなに富んでいる奴が居る、あの富を取って来て貧乏人にやればいいじゃないか」と、こういうふうに考えちゃうんですね。

ま、それも有りですよ、ヒューマニズム、人道愛ですから。〔しかし、それは確かに〕愛ですけども、だんだんだんだんそれやってると神様から離れていって、地上界の、いわゆる物質界に思いがひっついてしまうね。そういうふうに、物質界に思いがひっついてしまった。自分が欲張っているというのじゃありませんよ? 「全ての富を分配しなきゃいけない」とかね、そういうふうに、ま、悪い事じゃないのは勿論なんだけども、そういうことにあんまり囚われ過ぎてしまってね、だんだんだんだん神様から離れて行った人がキリスト教には多いんですよね。(…)

面白いことに、この宗教家も「だんだん」という言葉を頻りに使っている。生きた人間をよく見ている “実際家” であるしるしである。参照

この会議で注目が当たった一人はベトナムの禅僧ティク・ナット・ハンである。彼はこののち、国連に大変好かれるようになるだろう。

また、「同性愛は恵み」と発言した米国聖公会のショーリ主教から「偉大な模範」と讃えられるだろう。

「27. 諸教会に潜入し、啓示された宗教を『社会的』な宗教と入れ替えよ」  - 共産主義の目標 -

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