2018.08.01

曲事(まがごと)

前々回のサラ枢機卿様の御文章の中に善い言葉を見たと思います。

まっすぐに歩む者の歩みは安全である。しかし、その道を曲げる者は災いにあう。(箴言 10:9)

失礼ながら、私は、カトリックの神父様方は「頭」で考えること多く「感覚」は鈍い、と考えています。神父様方の「西洋的知性」のゆえでしょう。何事につけ「日本では、日本では」と言う神父様方としては、皮肉なことに。

そこで、私の “プチ宗教遍歴者” としての経歴を生かして(?)、少し書いてみたいのです。まあ、「感覚的」と言っていいだろうことを。

禍事 = 曲事

日本語に「禍事(まがごと)」という言葉があります。「凶事」のことです。ところで、日本の神道系の宗教は所謂「言霊」を云々することがあるわけですが、私が小耳にはさんだ一説では、「禍事」は「曲事」であって、すなわち、物事を「曲げる」ことなのだそうです。つまり、物事を「まっすぐ受け取る」のでなく「曲げて受け取る」ことが「禍事」「凶事」である、あるいはその「元」だというわけです。

そこへ行くと、『メモリアーレ・ドミニ』のあの文言、一つの「限定」を定めた文言、「手に聖体を置く方法が既に普及してしまっている場所に関しては」(その方法の続行を許し得るかも知れない)という文言を踏み倒して進んだ恰好になった各国の司教団は、物事を「曲げた」のであり、それゆえそれが「禍事」となっているのです。

「踏み倒した」という言い方が悪いというなら、ではどういうことだったか言ってみてください。ちゃんと説明できますか? 「当時の司教様方が日本の教会のために心から真剣に考えてくださったことなんだから、とにかく」などと曖昧なことを言わずに、『メモリアーレ・ドミニ』のその文言をどうしたのか、どこに持ってっちゃったのか、どう料理したのか、どう隠したのか、言ってみてください。

そう、「隠す」こと──

包み = 罪

そうして──「まるでゴロ合わせみたいだ」と笑っている人が居るかも知れませんが、これも小耳にはさんだことですが、日本の「言霊」の世界では、「包み」は「罪」に通ずる、つまり、物事を「隠す」ことが「罪」である、あるいは「罪」の「元」になる、というような考え方があるようです。

「隠す」ことが悪いと言って裸で歩き回る必要はありませんが、しかし私たちは、私たちの社会において、いわゆる「隠蔽体質」有る所に「罪」あり、という感覚を持っていると思います。そして、それはかなりの程度、真実なのではありませんか?

そこへ行くと、『メモリアーレ・ドミニ』の問題は、やはりこの「隠す」ということにも関わっていると思うのです。

マイケル・デイヴィス氏は「興味深いことに『メモリアーレ・ドミニ』が出版されなかった国もあり」と書いていますが、日本はそれに含まれます。カトリック中央協議会は、私が持っている印刷物の範囲では、1989年6月1日初版発行の『カトリック儀式書 ミサ以外のときの聖体拝領と聖体礼拝』の中に、典礼聖省が「聖体を手に授けること」を日本にも許可したところの『各司教協議会宛の書簡』を翻訳して掲載しています。しかし、その前段階の『メモリアーレ・ドミニ』は翻訳していません。「それは司祭向きの教令だから」という理由で一般信徒向けには翻訳しなかった、というのではなく、司祭向けにも翻訳しなかったようです。私もいろいろ調べますが、今までその公式翻訳などというものにお目にかかったことはありません。(あるのは『フマネ・ヴィテ』研究会による非公式訳と、「ある」とも言えない頼りない、私による試訳だけです)

「翻訳なんかできるものではない」と私は思うのです。何故なら、それを読んだ誰かから「司教様、この教書は対象を『その方法が既に普及してしまっている場所』に限っているようです。これをどうなさるのですか?」と訊かれたら、どう答えるのですか。「いや、確かに文言はそうなっていますが、どうも、必ずしもそうではないようです。それが普及していない場所にも、結局、許可は出るような雰囲気です。なにか、そういうのが今の教会の流れなのではないですか? いずれにせよ、典礼聖省の回答によってはっきりすることです」とでも言うことができるでしょう。個人と個人の内々の会話においてはそんなことも言えるでしょう。しかし、そんなことを公に言えますか? できないのですよ、そんなことは。「その方法が既に普及してしまっている場所に関しては」という文言を司祭や信徒の目に触れさせることを、日本の司教団としてはどうしても(あるいは、まずまず)「避けたかった」のです。

つまり、あまり責めることもしたくないけれども、
当時の日本司教団は、
物事を
「曲げる」ことと「隠す」ことの二つ共を
やったわけなのです。

確かにこの事は日本の信者の心を傷つけますが、しかし目を背けないで過去をよく観察する時、「真実」であるとしか言えません。

ブニーニ大司教

そして──この事も信者の心を傷つけますが──或る意味、当時の典礼聖省も「共犯」だったのです。「その方法が既に普及してしまっている場所に関しては」という文言は、マイケル・デイヴィス氏が言うように「『メモリアーレ・ドミニ』が公布されたその時点でその方法が普及してしまっている(いた)場所に関しては」という意味です。ところが典礼聖省は、やがて全世界の国々にその特別許可(Indult)を与えることになります。ということは、ナニ? 『メモリアーレ・ドミニ』が公布されたその時点で「手による聖体拝領が既に普及してしまっている場所」が既に全世界にあったということですか?
これを「インチキ精神全開」と呼ばずして何と言いましょう。彼らは自分たちが発行した「教令」の文言を自分たち自身がテキトーに扱っていることをもちろん自覚していました。自覚していない筈はないのです。何故なら、『メモリアーレ・ドミニ』のその文言と、許可申請さえ来ればどんな国にも許可を与えるという彼らの行動との間に、明らかに「矛盾・齟齬」があるということが分からないほど彼らは馬鹿ではないからです(それが分からないほど◯◯なのは、むしろ現代の司祭たちと信者たちの方です)。彼らは「確信犯」なのです。全てを「見越した」上で物事を進めていたのです。初めから計画的に。

しかしそれでも、残念なことに、形の上では確かに、日本は聖座から「御聖体を手の上に授けるための特別許可」を得た格好になっています。それが確かに、一つの形ある「結果」としてここ(現在)にあります。そして日本の司教様方も神父様方も、大抵、この「結果」からしか物事を考えません(「賢明」から “程遠い” と思います。さっきの言葉を使いたいぐらいです)。
しかし、サラ枢機卿様が示唆なさったように、そこに至るまでの「プロセス」を振り返ることが、この場合、非常に大事です。

当サイトがトップページに飾っている絵

「その方法が既に普及してしまっている場所」を持っていなかった国々が平気な顔をして特別許可を申請し、また典礼聖省も典礼聖省で、調べることもなく特別許可を連発した、無節操に連発した。このことが教会法上どうなのか、その辺りをボルトリ神父様前回は論じておられるのかも知れません。(ライゼ司教様もその御著書で教会法の観点から論じておられます。そしてボルトリ神父様の御著書にはライゼ司教様のことが出て来るそうです)

そしてもう一つ言いたいのは、『メモリアーレ・ドミニ』はその全体としては実にフザケタ文脈を持っているとは云え、その中には「御聖体を今まで通り舌に授ける」ことを強く勧める教皇様の御意向がはっきり書かれていることです。

15 従って、諸教会を「治めさせるべく聖霊が置いた」この人々〔司教たち〕の意見と忠言を考慮に入れ、問題の重大さと主張された論拠の力強さに鑑みた上で、教皇は、信者への聖体授与の既存の方法を変えるべきでないと判断した。

Therefore, taking into account the remarks and the advice of those whom "the Holy Spirit has placed to rule over" the Churches, in view of the gravity of the matter and the force of the arguments put forward, the Holy Father has decided not to change the existing way of administering holy communion to the faithful.

拙訳 / EWTN

しかし、当時の日本司教団は教皇様のこの御意向を顧慮しませんでした。「問題の重大さと主張された論拠の力強さ」を教皇様と共有しませんでした。「教会は平等主義的になった。そのような態度が “普通” であるほどに平等主義的になった」とでも思ってか。

しかし「教皇」と言えばイエズス様がその上に御自分の教会をお建てになった「ペトロ(岩)」なのですから、その後継者なのですから、これほどはっきりしたその御意向を顧慮しなかったのは、カトリック信者の感覚としては異常です。

その上「手に聖体を置く方法が既に普及してしまっている場所に関しては」という文言をも「無視」し、その文言を信者の目から「隠す」ようにして物事を進めたとすれば、物事を「まっすぐ素直に」受け取るべき信仰の世界に二重にも三重にも「捻じ曲げ」を持ち込んだわけで、曲がりに曲がった「禍事」を発生させたということになりませんか?

司教様方は「訂正」あるいは「修正」という言葉を知らないのでしょうか。「過去」を「検証」し、そこに好ましくないものを見たなら今からでも「修正」するという、ごく「まっとう」な、ごく「健康的」なことはお嫌いなのでしょうか。

「27. 諸教会に潜入し、啓示された宗教を『社会的』な宗教と入れ替えよ」 - 共産主義の目標

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」 - フリーメイソンの雑誌

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