2018.10.24

「初期の教会では人々は聖体を手で受けていました」?
Part 3

エルサレムの聖キュリロス

生313年頃 – 没386年

前回の記事に追記したところがあるので、よければどうぞ。大したことではない、聖キュリロスの日本での呼び名のこと。参照

Part 1 の最後にこう書いた。

あなたはこれまで、「司祭」の口からであれ、「典礼学者」の口からであれ、そして「聖座」の口からであれ、「初期の教会では人々は聖体を手で受けていた」と主張された時、その「根拠」を、また「典拠」を、その「具体的」なものを、彼らの口からどれほど聞いたことがあるか?
不思議なことに、ほとんど聞いたことがないのではないか?
私はほとんど聞いたことがない。

しかし、「ほとんど聞いたことがない」ということは「少しは聞いたことがある。それらしきものを」ということを意味する。後で少し見よう。

「後で少し見よう」の「少し」は、まあ、「エルサレムの聖キュリロスの言葉」なるものを意味する。実際、「手による聖体拝領」の正当なることを主張する人たちがその「根拠」「典拠」として挙げるのは、“第一” に、そしてほとんど “唯一的” に、それであるようである。

そのような人たちの言葉を見てみよう。

◎ 神言修道会の前日本管区長 “典礼学者” 市瀬英昭神父の言葉

南山大学機関リポジトリ

『あがないの秘跡』
(Redemptionis Sacramentum)
の受け取り方

市瀬英昭

p. 42

聖体拝領は口か手かについて言えば,歴史的には,当然,「手で」が先である。これにはエルサレムのキュリロス(司教在位 348-386)の『カテケージス』の証左がある12。一方,口での拝領の起源と背景に関して次のように言われる。聖体を「口で受ける」という仕方についての最後の管理人注1文献は六世紀のものである。しかし,これは,聾唖の人に与えられたいわば特例であった。それでも九世紀にはこのやり方が「病人」への固有のものとなった。信者への聖体は手ではなく口に(舌の上へ)置かれるべきである,と規定したのは,八七八年のルーエン(Rouen)司教会議である。この変化の要因の一つに,司祭と会衆の分離ということが挙げられる。そして聖体にふれることができるのは聖別された手だけである,という考えが広まったのである。以降,口で受けることは,「欄干(拝領台)で」,「ひざまづいて」行なわれることになった13

p. 45

12)5章21節にこうある。「前に進み出るときに手首を伸ばしたり,指を開いたりしないで下さい。王を迎えようとするように,左手を右手に対する玉座のようにして〈左手で右手を支え〉,掌をきれいにしてキリストの体を受け取り,〈アーメン〉と言いなさい」(『洗礼志願者のための秘義教話』大島保彦訳『中世思想原典集成2巻』上智大学中世思想研究所,1992 年,168 ― 169 頁)。

13)以上に関しては,Johannes Hermans, Le Celebrazione dell'Euchiaristia. Per una comprensione teologico-pastorale della messa second il messale romano, Torino, 1985, 411420.

[管理人注1] 「最後の」ではなく、「最初の」あるいは「最古の」の間違いだろう。戻る

市瀬神父のこの短い箇所に対してさえ、私は色々言いたいことがある(特に、「聾唖の人に与えられたいわば特例であった」などという言い方について)が、別の機会に回す。

◎ The Tablet 誌の編集室(の誰か)の言葉

The Tablet

サラ枢機卿の馬鹿げた声明

Cardinal Sarah’s foolish statement

編集室

From the editor's desk

2018年2月28日

28 February 2018

4世紀の半ば、エルサレムの司教キュリロスは、これからカトリック教会に加わろうとしている人たちに対して次のように教えた。「あなたが聖体拝領のために前に進み出る時、手を広く広げたり、指と指の間をひらいたりしながら近づかないでください。そうでなく、王をそこに迎えるように、左手を右手のための玉座のようにしてください。キリストの体を手のひらの窪みに受けてください。そして、アーメンと答えてください」

In the middle of the fourth century Bishop Cyril of Jerusalem gave this instruction to those who were about to join the Catholic Church: “When you come forward for Holy Communion, do not draw near with your hands wide open or with fingers spread apart; instead, with your left hand make a throne for the right hand, which will receive the King. Receive the body of Christ in the hollow of your hand and give the response: Amen.”

バチカンの典礼秘跡省の長官であるロバート・サラ枢機卿によれば、聖体のそのような受け方は、聖体の秘跡に対する「最も狡猾な悪魔的攻撃」であり、悪魔自身によって仕向けられたものなのである。

According to Cardinal Robert Sarah, head of the Vatican’s Congregation for Divine Worship, this way of receiving Communion constitutes “the most insidious diabolical attack” on the Blessed Sacrament, organised by Satan himself.

当然だが、The Tablet 誌の中にも色々な人が居るということだ。

注)上の記事の二番目の段落は、The Tablet のサイトではどういうわけか表示されない。意図的に不可視にされているかどうかは分からない。The Tablet の読者としてアカウントを取ってログインすれば表示されるのかも知れない。しかし、そうしなくても、その記事のテキスト全体をテキストエディタにコピペするか、あるいはその記事のソースを見れば、その記者がそう書いているのが分かる。

サラ枢機卿の声明とは → 参照

問題あり

しかし、エルサレムの聖キュリロスに帰されているそれらの言葉には問題がある。まあ、二つ。

一つは、authorship の問題、つまり「真に誰を源泉とするものであるか」「真の原著者・原話者は誰なのか」の問題、つまり「本当にエルサレムの聖キュリロスその人がそう言ったのか?」という問題。

そしてもう一つは、──私にはこれの方が重要に思われるが──内容それ自体の問題、つまり「エルサレムの聖キュリロスに帰されているその言葉」が言っている事自体の問題。

次回、後者を、内容それ自体の問題を見る。次へ

「27. 諸教会に潜入し、啓示された宗教を『社会的』な宗教と入れ替えよ」 - 共産主義の目標

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」 - フリーメイソンの雑誌

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