2018.10.24

「初期の教会では人々は聖体を手で受けていました」?
Part 4

聖体拝領のキュリロス方式

私が描いた左のイラストは聖キュリロスが言ったとされる言葉を正確には反映していない。その言葉に従えば、それは「片手で」でもなく「指先でつまんで」でもなく「両の手を丁寧に重ねて」なのであり、またそれに従って身の姿勢も、御聖体が落ちないように「身を屈めて」ということになるだろう。

描き直した。(我ながら御苦労さん。と云うか、私は何をやってるんだか. . . )

これは人が顔を洗っている図ではない。市瀬神父の言う「エルサレムのキュリロスのカテケージス」なるものが指示するところの「聖体拝領」なのである。御聖体は重ねた両手の右手に乗っている。それをこうやって自分の目に当てるのである。そうした後で御聖体を口に入れる。これを「聖体拝領のキュリロス方式」とでも呼んでおこう。

「エルサレムの聖キュリロスのカテケージス」の最後の五つの教話(「秘義教話」)の中に、そのような内容があるというのである。

まず、マイケル・デイヴィス氏の文章で見てみよう。

フマネ・ヴィテ』研究会

『典礼革命』シリーズ第三巻『パウロ六世の新しいミサ』

Liturgical Revolution, Vol. 3: Pope Paul's New Mass

1980年

手で受ける聖体拝領

Communion in the Hand

マイケル・デイヴィス

Michael Davies

(…)

以下がその翻訳。

それ故に、手のひらを前に出したり、指を開いたりして前に進み出てはならず、左手を王様を今から受けようとする右手の座のようにしなければなりません。手のひらでくぼみを作り、アーメンと言って、キリストの体を受けなさい。それから注意深く両眼に御聖体を触れさせて清めてから、それをいただきなさい。その際こぼしたりしないように気をつけること。もし、そういうことがあれば、あなたの体の一部を失うのと同じような損失を明らかに被ることになります。もしだれかがあなたに金の粉をくれたとすると、あなたはそれをこぼしたりしないように注意深く取り扱わないでしょうか?  だから、あなたは金よりも宝石よりも尊いお方の一部が落ちたりしないように気を付けないでしょうか?

そして、御聖体をいただいた後、御血の杯をいただくために進み出なさい。手をいきなり前に差し出したりしないで、従順を示すために恭しく礼拝しなさい。「アーメン」と言ってそれを受け、聖なる者になりなさい。唇がまだ濡れているうちに、手でそれに触れ、自分の目、額、そのほかの感覚器官を濡らしなさい。最後に祈りがあるからそれまで待って、これほどの神秘にあなたがふさわしいと思って下さった神に感謝しなさい。

アメリカのポール・マクドナルド神父様もこの箇所のことを指摘している。参照

だから、この「聖体拝領のキュリロス方式」は、或る意味、現在の私たちの「手による聖体拝領」以上のものである。御聖体を目につける(当てる)ことを勧め、御血についても、唇に付着している御血(の名残り、湿り気)に指で触れ、その指で「目、額、そのほかの感覚器官を濡らす」ことを勧めているわけだから。

だから、私にとってこの「エルサレムの聖キュリロスのカテケージス」なるものは、①「敬虔さと無神経さの奇妙な混合物」である。

注)しかし、問題は「エルサレムの聖キュリロスのカテケージス」全体なのではなく、あくまで、その最後の五つの教話から成る「秘義教話」である。上のような言葉はその中にある。そして、その「秘義教話」に関しては「真の原著者・原話者は誰なのか」が一部の学者の間で疑問視されている。

そしてまた、②「矛盾した構文」「非現実的な構文」でもある。

どういうことか説明する。

「その際こぼしたりしないように気をつけること。もし、そういうことがあれば、あなたの体の一部を失うのと同じような損失…」と重大な危険を警告しながら、また御聖体の小さなカケラを連想させるような「金の粉」という言葉を出しながら、それでもこの “カテケージス” は何としても「両眼に御聖体を触れさせる」ことを教えるのである。しかも「注意深く両眼に御聖体を触れさせる」ことを教えるのである。しかし、これはほとんど笑うべきところである。何故ならば、これでは何のための「注意深さ」なのか分からないからである。「両眼に御聖体を触れさせ」などすれば、いかにそれを「注意深く」やろうと、「尊いお方の一部が落ちたり」する可能性・危険性が比較にならないほど増大することになるのは明らかだからである。(その頃のホスチアが現代のホスチアほど固く形成されておらず、つまり現代のホスチアとは違ってイースト菌を入れて発酵させた普通のパンで、比較的柔らかで脆いものだったなら、尚更である)

私の文章は今、一応物事を「検討」している形になっているので、あまり急いて言うことは好ましくないが、でも言ってしまうと──「まやかし的な文章」にはよく「混合物」が、「敬虔さと無神経さの混合物」があり、そして「矛盾した構文」「非現実的な構文」があるから、気をつけるべきである。この「聖キュリロスのカテケージス」なるもののその部分(全部ではなくその部分)はそのようなものである。

それは私に、正に、『メモリアーレ・ドミニ』を思い出させる。『メモリアーレ・ドミニ』の文章は、「祭壇の尊い秘跡に対する尊敬の低下の危険、冒涜の危険、そして教義の変質の危険」などを盛んに危惧してみせながら、しかし最後には「注意深く御聖体を手で受けることにしましょう」と結ぶ、奇妙に捻じれた、考えられない、矛盾的な流れを持つのである。参照

神父様方は日々「言葉」というものと沢山つき合っておられると思うが、しかし、もし「言葉」と親しいのと同じほどに「現実」とも親しければ、「聖キュリロスのカテケージス」に於いても『メモリアーレ・ドミニ』に於いても、「注意深く」だの「慎重」だの「配慮」だのと云った一見みばえのいい言葉たちが、実は「宙に浮いている。現実と離れて宙に浮いている」ことを感知なさるだろう。

その問題の箇所は幾つかの日本語書籍の中でも翻訳されている。
上智大学の本で見てみよう。強調は私による付加。〔 〕は、今回は私による付加ではなく、原本にあるものである。

『中世思想原典集成 2 盛期ギリシア教父』
編訳/監修=上智大学中世思想研究所
平凡社、1992年

p. 141-

エルサレムのキュリロス
洗礼志願者のための秘義教話

大島保彦=訳

pp. 168-169

21  前に進み出るときに手首を伸ばしたり、指を開いたりしないで下さい。王を迎えようとするように、左手を右手に対する玉座のようにして〔左手で右手を支え〕、掌をきれいにしてキリストの体を受け取り、「アーメン」と言いなさい。聖体に触れることで目を注意深く浄め、拝領しなさい。少しもなくさないように注意しなさい。というのも、聖体をなくしてしまうということは、あなたの身体が失われるのと変わらないからです。誰かがあなたに砂金をくれたとします。すると少しもなくさないで損をしないように注意して、できるだけ注意深くしっかりと保持するのではないでしょうか。そうであれば、金や宝石よりも価値あるものを一かけらもなくさないように、なおさらいっそう注意を怠らないことがありましょうか。

22  キリストの体を拝領した後で、血〔葡萄酒〕の杯の方へと進みなさい。手を身体から離さないで礼をして、信仰と畏敬を込めて「アーメン」と言い、キリストの血を拝領して浄められなさい。湿り気がまだ唇にあるときに手で触って目や額やその他の感覚器官を浄めなさい。次の祈りが終わるのを待って、これほどすばらしい秘義に値するようにして下さった神に感謝しなさい。

どんだけ「注意」という言葉を言うんだ、という話である。
この箇所に「注意」という言葉があればあるだけ、私には一種「馬鹿馬鹿しい」気がするのである。

別の本から。

『原典 古代キリスト教思想史 2 ギリシア教父』
小高毅(神父)編、教文館、2000年

pp. 111-112

 エウカリスティアの拝領

(…)

 祭壇に近づく時、腕を伸ばしたり、指を開いたりしないでください。来るべき王を迎える王座を作るかのように、左掌で右手を支え、凹んだ掌でキリストのからだを受けながら、アーメンと応えてください。敬虔なまなざしを聖体に向けて、目を聖[きよ]めてから拝領してください。ただ、少しもこぼさないように注意しなければなりません。聖体の一部をなくすことは、自分の肢体の一部を失うのと同じだからです。譬えば、誰かが砂金を貰ったとすれば、それを注意深く保存し、損失を招かないようにするではありませんか。まして、金や宝石よりも貴重な糧であってみれば、ひとこぼれさえ惜しむのも当然ではないでしょうか。

 キリストのからだをいただいてから、御血の杯の方へ進んでください。そして手をからだにつけ、敬虔な礼をして、アーメンと言いながらキリストの聖なる血をいただいてください。その雫がまだ唇に残っている間に、指で触れ、目や額等を聖めてください。祈りの終るまで待って、またとない秘義に与ったことを神に感謝してください。

(『ミスタゴギア』五・19-22〔ネラン=川添訳〕)

 G・ネラン=川添利秋訳は「エルサレムのキリロスのカテケシス」『ろごすXII 洗礼式』(紀伊國屋書店、一九六三年)九九~一七七頁による。なお、別の邦訳として、大島保彦訳「洗礼志願者のための秘義教話」『中世思想原典集成2』(平凡社、一九九二年)一四一~一七〇頁がある。

この「G・ネラン=川添利秋訳」は、主の御体に関しては「敬虔なまなざしを聖体に向けて、目を聖めて」と、「御聖体を実際に物理的に目と接触させる」ことではなくただ「敬虔に見つめる」ことであるかのように訳している。しかしそれでも、主の御血に関しては「その雫がまだ唇に残っている間に、指で触れ」と訳すことを避け得なかった。物理的な接触をあまり意味させたくなかったのかも知れないが、結局、その思いは成功していない。そして実際、他の多くの研究者たちにとって、それはやはり「御聖体を実際に物理的に目と接触させる」ことを意味するようである。

「27. 諸教会に潜入し、啓示された宗教を『社会的』な宗教と入れ替えよ」 - 共産主義の目標

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」 - フリーメイソンの雑誌

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