2018.10.24

「初期の教会では人々は聖体を手で受けていました」?
Part 6

真に誰によるものかはっきりしない 1

「エルサレムの聖キュリロスのカテケージス」の中の最後の五つの教話、「秘義教話」は、真に誰によるものかはっきりしない。

以下の二つの引用は、日本の典礼学界の本からである。つまり、手による聖体拝領に批判的な本からではない。それどころか、エルサレムの聖キュリロスの言葉(とされているもの)の中に「豊かな証言」を見ているらしい人たち(日本の典礼学者たち)の本である。そのような本が、以下のように認めているのである。
私が強調表示した部分を拾い読みするだけでも、「秘義教話」の「不確かさ」「頼りなさ」を感じることができるだろう。

文中に登場する「クワステン(Quasten)」という名を覚えておいて頂きたい。それは近年の有名な教会史家の名である。

『中世思想原典集成 2 盛期ギリシア教父』
編訳/監修=上智大学中世思想研究所
平凡社、1992年

p. 141

エルサレムのキュリロス
洗礼志願者のための秘義教話

大島保彦=訳

pp. 142-143

解説

 エルサレムのキュリロス(Kyrillos)は、三一五年頃エルサレムに生まれ、四八年頃エルサレム司教となり、八六年に歿している。教会史の上では反アレイオス派の論客として知られているが、本著作にそのような論争的な側面は窺えない。
 ここに訳出した『洗礼志願者のための秘義教話』(Catecheses mystagogicae)を含む『カテーケーシス(教話)』(Catecheses illuminandorum)は、その大部分が三四八/五〇年にエルサレムの聖墳墓教会で行われた教理講話の(おそらく受講者による)記録であり、「キリスト教古代における最も貴重な宝の一つ」(クアステン(1) と称すべき文書である。(…)

1───J. Quasten, Patrology, vol. III: The Golden Age of Greek Patristic Literature, Westminster 1960/1983, p. 363.


p. 144

洗礼志願者のための秘義教話

第一講 洗礼者の儀式〔洗礼堂の控え室での儀式〕

公同書簡「ペトロの手紙一」の朗読。「身を慎んで目を覚ましていなさい」から最後まで〔一ペト五:八~一四〕。〔先の教話[カテーケーシス]を行ったのと〕同じキュリロスおよびヨアンネス (1) によって。

導入

1 教会の真正にして望まれる子たちよ、(…)


p. 169

訳註

1───ヨアンネス二世(Ioannes II)。エルサレム司教(在位三八七~四一七年)。本書の著者がキュリロスとヨアンネス二世の二人とされることをめぐる議論については、J. Quasten, op. cit., pp. 364-367; A. Piédagnel, op. cit., pp. 18-40; L. P. McCaulely/A. A. Stephenson, op. cit., pp. 143-149 参照。クアステンはキュリロスが講話を行い、ヨアンネスがそれを補足したと考えるが、異論もある。

つまり──

それは「(おそらく受講者による)記録」である。
聖キュリロス自筆のものではない。

加えて、それは「聖キュリロスだけが話した」とも言えない。
「ヨアンネス二世が補足したかも知れない」のである。

「ヨアンネス二世が確かに補足した」とは言えない。
あくまで「ヨアンネス二世が補足した “かも知れない” 」のである。

これはそんな世界なのである。

別の本から。

『原典 古代キリスト教思想史 2 ギリシア教父』
小高毅(神父)編、教文館、2000年

p. 99

6 エルサレムのキュリロス

(…)この五つのミスタゴギアに関しては、キュリロスのものか、彼の後継者ヨアンネスのものか論議を呼んでいるが、キュリロスの行った講話に、ヨアンネスが手を加え改訂したものとするのが妥当であろう。いずれにせよ、当時のエルサレムの教理教育、典礼を知る重要な資料であることに変わりはない。

真に誰によるものかこれほどはっきりしないのに、上の筆者は「いずれにせよ」と言い、上のように評価するのである。ちょっと意識が甘くないか。

この筆者は、結局、こう言っているようなものである。

一人の「司教」である者、「責任」の自覚あるはずの者、普通の人間よりも「人格」が優れているはずの者、ヨアンネスが、自分の前任者であるキュリロスが遺した教話に手を加えたかも知れない。しかも、そうだった場合、彼は自分が手を加えたことを明記しなかったようである。でも、この文書は信用できる。

「27. 諸教会に潜入し、啓示された宗教を『社会的』な宗教と入れ替えよ」 - 共産主義の目標

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」 - フリーメイソンの雑誌

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