もう一度、市瀬神父の言葉を見よう。何度も取り上げて申し訳ないが、しかし私にとって市瀬神父は、その種の典礼学者として全く「典型的」なものとして映っていて、ほとんど一つの「アイコン」として使わせて頂きたいぐらいなのである。
『あがないの秘跡』
(Redemptionis Sacramentum)
の受け取り方
市瀬英昭
p. 42
聖体拝領は口か手かについて言えば,歴史的には,当然,「手で」が先である。これにはエルサレムのキュリロス(司教在位 348-386)の『カテケージス』の証左がある12)。一方,口での拝領の起源と背景に関して次のように言われる。聖体を「口で受ける」という仕方についての最後の[管理人注1]文献は六世紀のものである。しかし,これは,聾唖の人に与えられたいわば特例であった。それでも九世紀にはこのやり方が「病人」への固有のものとなった。信者への聖体は手ではなく口に(舌の上へ)置かれるべきである,と規定したのは,八七八年のルーエン(Rouen)司教会議である。この変化の要因の一つに,司祭と会衆の分離ということが挙げられる。そして聖体にふれることができるのは聖別された手だけである,という考えが広まったのである。以降,口で受けることは,「欄干(拝領台)で」,「ひざまづいて」行なわれることになった13)。
p. 45
12)5章21節にこうある。「前に進み出るときに手首を伸ばしたり,指を開いたりしないで下さい。王を迎えようとするように,左手を右手に対する玉座のようにして〈左手で右手を支え〉,掌をきれいにしてキリストの体を受け取り,〈アーメン〉と言いなさい」(『洗礼志願者のための秘義教話』大島保彦訳『中世思想原典集成2巻』上智大学中世思想研究所,1992 年,168 ― 169 頁)。
13)以上に関しては,Johannes Hermans, Le Celebrazione dell'Euchiaristia. Per una comprensione teologico-pastorale della messa second il messale romano, Torino, 1985, 411–420.
[管理人注1] 「最後の」ではなく、「最初の」あるいは「最古の」の間違いだろう。(戻る)
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しかし、市瀬神父が言っているのは、こうである。
聖体拝領は口か手かについて言えば,歴史的には,当然,「手で」が先である。
それは、4世紀の人がそう言っているからだ。
あなた(読者)は首を傾げなければならない。
イラストで表わせば──
再び言葉で、もう少し詳しく言えば──
「最初の聖体拝領」から「4世紀半ば」まで、聖体拝領の具体的な方法、即ち「手で/舌で」について証言した歴史資料は存在しない。「手で」を証言したものもない代わりに、「舌で」を証言したものもないのである。
「4世紀半ば」になって初めて、そのような歴史資料が登場する。それはエルサレムの聖キュリロスの「秘義教話」であって、それは「手で」を証言している。
だから、「最初の聖体拝領」から「4世紀半ば」までも、「手で」であったに決まっている。
市瀬神父の口振りは、実際、そのようなものである。
彼は「当然」と言うのだから。
*
語尾を少し変えてみる?
「~に決まっている」を「~に違いない」に変えれば、私たちにとって受け容れ可能になるのだろうか?
しかし、私には、その二つには大して大きな違いはないように思われる。「~に違いない」も、真に「慎重」なものではない。
カトリック教会は「継承」の宗教だが、慣習や規則を「文書化」することにいつの時代も熱心だったわけではない。私たちにとっての『ローマ・ミサ典礼書の総則』あるいは『インネスティマービレ・ドーヌム(計り知れない賜物)』あるいは『指針 あながいの秘跡』のようなものは、「初期の」あるいは「古代の」教会では考えられなかったのである。当時(教会の歴史の決して短くない間)、慣習や規則は、いわば「口伝」で継承されることが多かった。
(今思えば、「初期の」や「古代の」のみならず、文字通り「最初の」御ミサ、文字通り「最初の」御聖体拝領から、そのやり方を文書で事細かく残しておいて欲しかったけれども)
しかしながら、かえってそれ故にこそ、私たちは、「歴史には影の部分も多い。現代の私たちからは見えない部分も多い」と知って、「最初の御聖体拝領から聖キュリロスまで、そこに資料的空白があるからと云って、『舌で』が行なわれていた可能性もゼロではない」ぐらいには思っていなければならない。
「資料的に先に登場するもの」と「事実において先に実行されたもの」を単純に「イコール」で結ぶことはできない(それをやっているのが市瀬神父である)。そんなことをする人は、「初代」や「古代」の教会に「文書化」の習慣がなかったことや、「最初の聖体拝領」から「聖キュリロス」までの「三百数十年間」という時の長さを勘案しない、「非慎重」の人、「乱暴」の人である。
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今シリーズを一旦これで終わる。
不十分なのは自覚しているけれども。
「27. 諸教会に潜入し、啓示された宗教を『社会的』な宗教と入れ替えよ」 - 共産主義の目標
「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」 - フリーメイソンの雑誌