2019.05.25

苦しむ探求者のブログ「巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

一つのブログを紹介する。

思わずこんな絵を描いてしまった。
絵もダサいが、言葉もダサい。
よく言われるように、「頑張れ」は、既に頑張ってる人に言うべき言葉ではない。しかし、そこは、日本人の常套句、習慣的な言葉として許してもらいたい。

とにかく、私は今、そのブログ筆者に対し、そんな気持ちでいる。

そのブログのタイトルは「巡礼者の小道(Pursuing Veritas」である。そして、そのタイトルは副題を持っている。「聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。」

少し読ませてもらった。全ては読んでいない。が、私は既に感銘を受けている。それで、少し紹介させてもらいたい。

その前に、断り書きを二つ。

まず一つめは、いつも書くことだが──
そのブログ筆者と私の間には何の交流もない

実際、その通りだからである。私は、そのブログ筆者との間では、メールのやり取りも、ブログのコメント欄への投稿もしていない(コメント欄は設定しておられないようであるし)。
だから──何を言いたいかと云うと──世の中には「『護教の盾』が紹介しているから、そのブログもこう違いない」とか、「『護教の盾』がリンクしているから、それもこう違いない」とか、色々と気を回す人が居るようだが、そういうのは無用だから。

断り書きのもう一つは、言いにくいことだが──
既に言ったように、私はそのブログ筆者の書くことに「感銘」を受けているので、以下においても、つい、その人を「誉める」書き方になってしまうことがあるかも知れない。場合によっては「誉め上げる」「誉め讃える」程度にさえなってしまうかも知れない。なるべく抑えようとは思うけれども。

それで、この断り書きは、その筆者さんへの断り書きなのだが──
率直に言わせて頂く。どうか、私があなたのことを「誉める」書き方をしても、(偉そうに言うが)ご自分の心を正しく治めて頂きたい。否、私はあなたのあの文章を見たから、あなたに限って、まずまずそんなことはあるまいと思ってはいる。しかしそれでも、人間は弱い。誰だって、誰かから誉められれば、最初は「嬉しく思う」程度だったものが、次第に、知らず知らず、心の隙間に別のものが入り込む余地はあるものだ(私にも身に覚えがある)。だから、そこのところ、よろしく。

あけすけな紹介

実際のブログ記事に当たらせてもらう前に、このブログ筆者のことを私流に「あけすけ」に紹介させてもらいたい。引用ではなく自分の言葉だが、枠で囲むとする。何だか大声で言いたい。

ヒトラーは「民衆がものを考えないということは、支配者にとっては実に幸運なことだ」と言ったものだが、私が思うに、現在のカトリック信者の九割方がこの言葉に全く当て嵌まる中、このブログ筆者は違う。

否、これは「あけすけ」というより、カトリック信者への「当てつけ」である。しかし、当てつけたくもなるのだ。何故なら、このブログ筆者はカトリックではないからだ(少なくとも、地上の教会の名簿上では、未だ)。しかし、それにもかかわらず、現在のカトリック信者の九割方より、現在のカトリックの問題点に関し、遥かに多く気づき、理解しておられる。

彼女(女性である)はつい最近まで福音主義プロテスタントとして生きていた人である。しかし、ごく最近(今月!)、彼女は福音主義に対し、「これまで本当にありがとう。そしてさようなら」と、別れを告げた。その顛末が次の記事に書かれている。
2019-05-11 福音主義にはリベラリズムの倫理的土砂崩れを食い止める力と権威が無いことをついに悟る。

この表題だけでも、私には何だか<圧倒的>だ。なるほど、理屈の上では、「物事はそうなって当然だ」とカトリック信者は思うだろう。しかし、これは理屈ではない。一人の生きた人間が、長い煩悶の末「ついに」その場所に到達するというのは、何だか、私に<身震い>させる。(身震い。もちろん、悪い意味ではなく)

そして──そのように表明し、告白した彼女は、今、カトリックにも目を注いでいるようである。聖母にちなんだ聖歌や御絵、またカトリック聖人の御絵などを、彼女は掲げている。

しかしながら、である、彼女のような人は、当然、カトリックの問題にも気づかないではおれない。

さて、私はやっと彼女の実際の記事を紹介する。
ごく部分的に、チョイチョイと引用させてもらう。
関心を持った人は各自、元記事を読んでもらいたい。

世俗化

巡礼者の小道(Pursuing Veritas

2019-05-22
聖いカトリック教会はもうどこにもないのだろうか?ーー修道女ロックバンド、教会の俗化、そして求道者たちの叫び

修道女たちのロックバンド「シエルバス」(Siervas)出典

(…)

今年の1月22日から27日までパナマで行われる「世界青年の日*4」(WYD=ワールドユースデー)パナマ大会でも、シエルバスは再び教皇フランシスコを前に演奏すると報じられている。カトリック宇部教会(山口県宇部市)の主任司祭である片柳弘史神父は、1月19日、ツイッターでシエルバスに言及し、「修道服をまとったシスターたちの、魂を揺さぶるロックな演奏、最高です\(^o^)/」と絶賛した。*5

「片柳神父様は本当にそんなことを言ったのか?」と思い、私は片柳神父様のツイッターにじかに当たった。あった↓

https://twitter.com/hiroshisj/status/1086464993464209408

私は何も見もせず、何も聞きもせず書いていない。その YouTube をちゃんと再生して聞いたのである。しかし、これは普通の音楽である。普通の世俗的な響きを持った音楽である。何故、このようなものを、カトリック司祭たるものが、「魂を揺さぶる」「最高」などと言うのか。ご自分の「魂」を何処に置いているのか。

「巡礼者の小道」の筆者さんは、今まで、福音主義プロテスタントの世界で、一言で云って、日ごとに深まる「世俗化」の問題で打ちのめされて来たのである。そして今(否、彼女は以前から気づいていただろうが)、カトリックによってもまた、こういうものを見せつけられているのである。

彼女は同記事の後半、リジューの聖テレーズの御絵を掲げながら、こう書いている。

カトリック教会というのは本来、御霊の臨在されるいとも聖い神聖なる場所ではないのだろうか。それともそのカトリック教会はもう終わってしまったのだろうか。私たちは生きる希望をどこか他の場所に見い出さなければならないのだろうか。誰か私の叫びに答えてほしい。

現代カトリックは真摯な探求者に苦悶を与えている。

舌による聖体拝領

巡礼者の小道(Pursuing Veritas

2019-03-23
舌による聖体拝領ーー人間疎外の問題に対する神の愛なる御応答と永遠の智慧

この記事に関しては、私の下手な紹介に聞くより、元記事をじっくり読んでもらいたい。

西方教会の女性化

巡礼者の小道(Pursuing Veritas

2018-12-21
危機的時代に神は勇敢な男性たちを興される

昨晩、カトリック教会の復興を祈る世界中の信徒/聖職者が、マイケル・ヴォリスの証に涙したと思います。

テーラー・マーシャル博士は次のように的確にコメントしています。「(…)

(…)

「なぜ男性たちは教会に来たがらないのだろうか?*1」という記事の中でロッド・ドレハー氏は、女性化が進むカナダの西方教会の中にあって、唯一、正教会だけが男性減少の問題を抱えていないことを指摘した上で、「現在、西方教会の中で、従来の健全なmasculinity(男らしさ)やmanhood(男性像)の回復が緊急に求められている」という事を論じています。

(…)

そんな風潮の中にあって、ヴォリスの男らしさは、正教の修道士たちに引けを取らないくらい*2際立っているように思います。ここから私が学ぶのが、ある男性の内で古典的カトリシズムの精神及び実践が回復されていけばいくほど、その人は、より男らしく、より勇敢になっていくのではないだろうかということです。

マイケル・ヴォリスとは、ご存知の通り、Church Militant の闘士、Michael Voris のことである。テーラー・マーシャルとは、私が以前訳した文章の筆者、Taylor Marshall のことだろう。

「男らしさ」云々に関しては、ここでちょっと、私の以前の記事も思い出してやってもらいたい。私はこう書いたのだった──「私はもう、彼らのことを『岡田お母さん』『森お母さん』としか呼びたくない」母性的な教会(父性を欠く教会)

励まし

彼女のブログの中に、現在の教会の中でともすると消沈しがちなカトリック信者の励みになりそうな文章を発見した。レオナルド・ラーベンヒルLeonard Ravenhill)という人の言葉だそうである。

巡礼者の小道(Pursuing Veritas

2016-12-06
その時代を生きる預言者というのは、神によって完全に受け入れられる一方、人からは全く拒絶される存在である。(レオナルド・ラーベンヒル)

その時代を生きる預言者というのは、
神によって完全に受け入れられる一方、
人からは全く拒絶される存在である。

彼らは、危機的な時代に 神によって備えられし緊急人(emergency men)である。そして、そういった預言者の払うべき代価 それは、彼が孤独のうちに生きなければならないということである。

偉大な神の人というのは、これまで例外なく、非常に、非常に、孤独な人であった。

「預言者の機能は、」とオースティン・スパークスはかつて言った。
「ほとんど常に、回復をもたらすためのものである」と。

預言者は、失われし宝を探し当てる神の探偵である。そして彼の有用性の度合いは、この人の「不人気度」によって決定される。

妥協というのは彼の知らざる所のものであるからだ。

神の人は、その顕現の日まで隠されている。しかしやがて現れる。

この人はその務めの間、日々、苦しみのパンを食べ続け、その一方において、彼に聴く者に、いのちのパンを供給する者である。

その通りだろうと思う。
シエルバスよりもこっちの方が「最高」だろう。

私は今回、「巡礼者の小道」というブログを、その筆者さんを紹介した。けれど、本質的には「個人」に焦点を当てたわけではない。「個人」を通して、しかし「問題」を見たのである。現在の教会の持つ「問題」を。

しかしそれでも、人の「生きた実例」を見ることも大事かと思う。既に冒頭の方でもリンクしたけれども、一人の探求者の来し方、つまり、これまで歩んで来られたストーリーを窺える頁を、ここでもう一度案内しておく。
2016-12-19 このブログを開くに至ったいきさつ(証し

そして、このイラストをもう一度掲げよう。

「27. 諸教会に潜入し、啓示された宗教を『社会的』な宗教と入れ替えよ」 - 共産主義の目標

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」 - フリーメイソンの雑誌

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