2019.07.22

モンティキアーリとフォンタネッレ 8

私がこころところ「サン・ダミアーノ」と「モンティキアーリ - フォンタネッレ」に引っ付いているわけを、この辺で書いておく。

サン・ダミアーノとモンティキアリは本物だ。教会はそれらを認めなかった。これは我々の成果だ。(…)

参照

私の頭には常にこれがあった。
その二つの私的啓示については情報が少なく、また、その少ない情報を読んでも、私には、それらがわりあい「平凡」な内容を持っているように思われ、私の関心は本当には動き出さなかった。
しかしそれでも、上の言葉は私の頭に印象深く残り続けていた。
そして、最近、或るカトリック・ブログの記事(既出参照)が刺激となり、海外記事を少し調べてみようか、という気になった。
そんな次第である。

さて、本日のお題。

聖母崇敬への敵対者たちの浅ましいやり口と
弱腰の司教たち

Fr. Francesco Rossi

かつてモンティキアーリにフランチェスコ・ロッシという神父様がおられた。この御出現に関し、聖母の御望みに従い、聖母の御像の制作を手配したり、フォンタネッレを聖地として整えたり、一言で言って、この御出現に関し色々と「尽力」なさった神父様であるらしい。今は帰天者であるが、イタリアの「ローザ・ミスティカ・フォンタネッレ協会」のニューズレターには、今でも彼の名がたびたび登場する(一例)。

この神父様が、この御出現をめぐる当時の状況(敵対勢力の動き、司教たちの対応など)を証言していて、それがワイグル神父様の本に載っているらしい。以下、例のチェコ語 PDF から、機械翻訳に頼りながら試訳する。〔  〕と強調と画像は私による付加。

チェコ語 PDF / HTML

A. M. Weigl

Maria, Mystická Růže

Montichiari – Fontanelle

教会当局の態度

Postoj církevních autorit

The attitude of church authorities

当時の地元司祭フランチェスコ・ロッシは、この啓示の真正性を初めから絶対的に確信していた。以下、彼の言葉をワイグル神父の本から引用する。管理人注1

1947年12月8日、神の母が何千人もの人々で溢れたモンティキアーリ大聖堂管理人注2の中にお現われになった時、私はまだグラドン〔地名らしい〕の司祭だったので、その場には居合わせませんでしたが、この啓示のことは既に知っていました。

私は1949年7月にモンティキアーリの司祭になり、1971年までそこにいました。計22年間です。私はすぐに、司祭たち、私のチャプレンたち、そしてとりわけ私の教区民たちから、この啓示に関する非常に多くの詳細を聞きました。1974年12月8日の御出現における三つの奇跡については、とりわけ詳しく聞きました。

私はこの啓示の真正性を絶対的に確信しています。

(…)

当時のブレーシアの司教、ジャチント・トレイディチ司教様は、この啓示のための最終的な声明を発表しませんでした。しかし、全期間を振り返り、また、私が彼との間で持った個人的な会話を振り返った時、私の個人的な印象としては、彼は個人的にはこの啓示を真正なものだと考えていたと思います。1951年の教区訪問の時、人でいっぱいになった大聖堂の中で管理人注3、彼はこう述べました:「これが本当に聖母からの啓示だったとしても、その超自然性を絶対確実に証明する証拠というものを、私たちは持っていません。しかし、超自然的な事実なら、たくさん持っています」。

1948年、トレイディチ司教様は調査委員会を任命しました。しかし、私の強い意見では、この調査委員会はあらかじめ決められた否定的な見解に沿って仕事を進めたのであって、決してその仕事を正しく果たしたのではありませんでした。

第一に、奇跡も奇跡的な癒しも調べられませんでした。第二に、どの目撃者も聴取されませんでした。管理人注4  第三に、一人の医師が、ピエリーナはヒステリックなモルヒネ中毒者である、と宣言しました。管理人注5

それは邪悪な中傷でした。ピエリーナは精神的に正常であり、薬物中毒者などではなかったと誰もが信じることができました。1948年の段階で彼女がそんな状態であったならば、彼女は生きることができず、そして特に、その顔に自然な外観と健康的な色を持っていなかったことでしょう。このことは、それらのあらゆる中傷に反対しています。

Bp. Luigi Morstabilini

それに加えて、ピエリーナはもちろん他の医師によっても調べられたが、彼らの診断は、彼女が肉体的にも精神的にも健康であることを明白に証明した。ロッシが更に述べているように、この啓示は、教会の高いランクの、名の知られていない或るグループから強い敵対を受けていた。ブレーシアの二人の司教、トレイディチ司教とその後継者ルイジ・モルスタビリーニ司教は、この啓示を個人的には信じていたが、その有力な敵対者たちを恐れて、この問題について確固たる立場を取らなかった。彼らの弱腰の譲歩によって、彼らは、ピエリーナが苛められ、嘲笑され、長年にわたって、まるで一人の奴隷であるかのように、社会のおもてから引き下がらされることを許した管理人注6──これら全てが「人権」の世紀の只中で起きた!

そして、その目的を達成するために、この聖母出現に対してばかりでなく聖母崇敬に対しても反対する多言語で書かれた宣言文が、大聖堂のエントランス・ドアに貼り出された!

それに関し、ロッシ神父は次のように語っている。

この聖母出現に反対する宣言文が、モンティキアーリの全ての教会のドアに、長期間にわたり、貼り出されました。しかしその宣言文には、このような重要な案件に関しては当然あるべき、特に司教自身が書面を通じて通達する時には必ずあるべき、司教の真の署名がありませんでした。管理人注7

1973年1月5日と翌6日、司教様がモンティキアーリを訪問した時のことです。彼が訪問している間、それらの宣言文は全ての教会のドアから取り外されていました。しかし、司教様が去ると、それらは再び貼り出されました。このことから、そこにはブレーシアの司教による正式で適法な禁止など無かった、ということが明らかでした。これの意味するところは明らかです。すなわち、モンティキアーリとフォンタネッレへの巡礼は禁じられてなどいない、ということです。管理人注8

だから、司教たちに圧力をかけ、反マリア闘争を彼らの教区で懲戒も受けずに組織する力を持っている秘密の部隊が、教会の高い階層にあるのではないか、と私たちが疑ったとしても、無理もないことではあるまいか。管理人注9

しかし、マリアは無敵である。困難はあったが、彼女はモンティキアーリで勝利した。このことを、ロッシ神父がうまくまとめている。

偏見を持った敵対者が、今も多く存在するかも知れませんが、事実が彼らを圧倒するでしょう。何千人もの巡礼者が、モンティキアーリに、そして特にフォンタネッレにやって来ています。ここには、主の時代のように、しるしと不思議があります。自然における奇跡、悩める人や病める人の癒し、しかし何よりも、多くの自発的な大きな回心は、私にとって最も明白な、この啓示が真正なものであることのしるしです。

(…)

[管理人注1]  こういう書き方からすれば、このチェコ語 PDF は、一応ワイグル神父様の本に「基づいて」「沿って」書いてはいるらしいが、同時に、思いのほか、かなり自由に書いているようだ。

[管理人注2]  モンティキアーリ大聖堂、イタリア語では「Duomo di Montichiari」。
しかし、日本で「大聖堂」と言えば普通「司教座聖堂」を意味するが、モンティキアーリ大聖堂は「司教座聖堂」ではないようだ。

イタリアの人たちが「Duomo di どこどこ」と呼び習わす時、その「doumo」という言葉を必ず「cathedral」と訳すのは間違いなのだろう。そう訳している英語記事が散見されるけれども。

イタリアの人たちは、doumo(丸天井)を持った、壮麗であったり歴史的であったりする自分たちの教会建築を、たとえそれが「司教座聖堂」ではなくても、親愛や尊敬の情をこめて「Duomo di どこどこ」と呼ぶのだろう。(違うのかな)

[管理人注3]  もう一度念押し。日本で「大聖堂」と言えば「司教座聖堂」を意味するから、司教が司教座聖堂に「教区訪問」するのはおかしい、ということになる。しかし、管理人注2で言ったように、モンティキアーリ大聖堂は「大聖堂」とは言っても「司教座聖堂」ではないようだ。

[管理人注4]  何ということ! しかし、私にとっては「ここでもか!」。と云うのは、私はこれとそっくりの事例を既に知っているからである。それはベイサイドである。ベイサイドも、奇跡も奇跡的な癒しも調べない、どの目撃者にも聴取しない「綿密な調査」によって否定されたようなのである。参照: ベイサイドの聖母出現は実のところ少しも「調査」されていない

[管理人注5]  これは私にちょっと秋田を連想させる。第一次調査委員会の一人(そのリーダー、イエズス会のマリア学者、故エバンジェリスタ神父?)が「それはシスター笹川の超能力によって引き起こされたものだ」と、何の根もなく主張したことを。

[管理人注6]  例のノヴェナに関する小冊子(PDF / HTML)も「聖母のこれらの啓示の後、(…)そこの司教はかの女に、完全に沈黙を守るように命じました」と書いている。しかし、その司教がそう命じた「理由」「動機」については書いていない。しかし、このチェコ語 PDF は、司教は「有力な敵対者たちを恐れて」そうしたのだ、と推察している。私は、その推察は正しいだろうと思う。
トレイディチ司教は「その超自然性を絶対確実に証明する証拠というものを、私たちは持っていません」と言っている。敵対者たちはもしかすると、そのような証拠を「出せ、出せ」と言って攻め立てたのかも知れない。それで司教は辛くなって、ピエリーナの口を閉じさせたのかも知れない。
まあ、「司教も人間」というわけだろう。しかし、それでいいのか? いいわけがない。

[管理人注7]  機械翻訳で「司教の真の署名(real signature)がありませんでした」と出る。これをそのまま受け取れば、その宣言文には「これは司教様のお望みでもあります」というような文言があったが、司教自身の署名はなかった、とか、そんな感じなのかな。いずれにせよ、このあとロッシ神父が状況を説明するだろう。

[管理人注8]  その宣言文はピエリーナも見ている。以下、チェコ語 PDF の別の章から。〔  〕は私による付加。

チェコ語 PDF / HTML

御出現は続く

Zjevení pokračují

(…)

1974年9月8日

8. září 1974.

それは午後1時頃のことでした。私が私の小聖堂でロザリオを祈っていた時、思いがけず聖母がお現われになりました。いつものように、それ〔光景? 聖母?〕は美、光、そして善でいっぱいでした。聖母はこう申されました:「私はマリア、教会の母です。教会のために、教皇のために、司祭たちのために、そして教会の全ての子供たちのために、祈って、祈って、祈ってくれるようにと、私は求めます。天主様への真の愛が彼らの心に戻るようにと、そして、隣人に対する真の愛も彼らの心に戻るようにと!」。

私は答えました:「はい、聖なるお母様、私は、あなた様の御助けを借りて、そうしたいと思います。そして、この事をあらゆる人に伝えたいと思います!」

(…)

少しの休止ののち、聖母はこう続けられました:「特に、全ての差し迫った危機から教会を守るために大天使聖ミカエルに保護を求めなさい! 教会がこれほど大きな危険にさらされたことはかつてなかったからです! 私も教会のために執り成します。この小さな場所からでも光は輝きます!」。

突然、聖母は更に大きな威厳で輝かれ、こう申されました:「主の光は本当に来るでしょう!」。

私はお答えしました:「聖なるお母様、私たちに対するあなた様の全ての愛に感謝申し上げます。しかし、私はどうしたら、そのような事を教会当局に伝えたいと思うことができるでしょう?」。

私の声は大きな悲しみで沈みました。と云うのは、聖母の御生誕の祝日であった正にその日の朝、この御出現に反対する宣言文が再びモンティキアーリ大聖堂のドアに貼り出されていたからです。それはかなり以前に取り外されていました。しかし、その日の朝に見たものは、明らかに新たに印刷されたものでした。

ここでピエリーナの言葉を一時中断して、1971年までの長い間地元司祭であったロッシ神父がこの再禁止について取った立場を引用してみよう。

モンティキアーリでの奇しき薔薇の聖母の御出現の真実性に反対するこの宣言文は、真実、正義、および愛に対する最も攻撃的なものです。私自身、この御出現に対する最大の敵対者たちの幾人かが突然の予期せぬ死を遂げたことを目撃しています。神は嘲りをお許しになりません! しかし何よりも、御自分の御母が侮辱されたままになっていることをお許しになりません。しかし、ブレーシアのルイジ・モルスタビリーニ司教様はこの件に関与しておられません。私はこのことを確かに知っています。彼がモンティキアーリを訪問された時、それらの宣言文は彼の目に触れないようにされていました。その間、それらは取り外されていたのです。しかし、司教様がモンティキアーリを去られた後、それらは再び貼り出されました。また私は、司教様の次のような御声明も聞いています。「私は、幾つかの方面から、繰り返し繰り返し、奇しき薔薇の聖母に対する崇敬に厳しく当たるよう、そしてモンティキアーリに押し寄せる巡礼者たちに禁止令を出すよう、急き立てられています。しかし、もしこれが聖母の本物の御出現だったら、そんなことをした私は重い責任を取らされることになるでしょう、自らを有罪としてしまうことになるでしょう。私はそんなことには決してなりたくありません!」

注)私は初め、この箇所を(上と同等の箇所を)或る英語記事から訳した。しかし後から、どうもチェコ語 PDF の文章の方がいいような気がして来た。それで、最初のアップから二日後に差し替えた。

[管理人注9]  以前紹介したように、このチェコ語 PDF は自らの出自を説明して次のように書いている。

共産主義の時代に、その本〔ワイグル神父様の本〕はホルニー・シュチェパーノフ地名の主任司祭 Josefem Fabíkem によってチェコ語に翻訳され、自家出版された〔検閲を逃れるために〕。その翻訳から私たちは、翻訳者の許可を得て、幾つかのテキストを引き継いだ。

つまり、この筆者は「共産主義」を意識しているだろう。そして、それを意識している限り、当然、ベラ・ドッドやダグラス・ハイドが証言した「共産主義の教会転覆計画」についても知っているだろう。

共産主義(国)の恐ろしさ・不自由さを自ら体験した者と、共産主義の理想の部分に或る種のシンパシーを感じているらしい日本の司牧者たち(の一部?)は、そりゃだいぶ違っているだろう。

「27. 諸教会に潜入し、啓示された宗教を『社会的』な宗教と入れ替えよ」 - 共産主義の目標

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」 - フリーメイソンの雑誌

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