2019.09.12

モンティキアーリとフォンタネッレ 10

詩篇50 (51) ダビデの痛悔の歌「ミゼレーレ」

Miserere mei(ミゼレーレ・メイ)= われを憐れみ給え

次回書くが、これは今取り上げている御出現に関係する)

現在、聖書の訳文としてネットに溢れているのは新共同訳である。今回取り上げる詩篇50 (51) についても然り。
(ネットばかりでなく、カトリックでは、あらゆる勉強会で、そしてミサの聖書朗読で、新共同訳を使っている)

それで、ここに、珍しいカトリックの文語訳(最近、古書店で入手した)と、バルバロ訳を置いておく。

文語訳

書 名    

舊約聖書抄

訳 者    

荻原 晃(イエズス会司祭)

発行者    

グイド・パガニーニ

発行所    

中央出版社

昭和二十二年十一月廿五日 初版発行
昭和二十三年 五月 十日 再版発行

若干、漢字の旧字体を新字体に改めた。(元の表記
〔Miserere mei〕は私による付加。

pp. 345-347

ダヴィドの痛悔の歌

第五十篇 一、二  ダヴィドがベトサベエと関係したるによりて、預言者ナタン来りし時歌のかみに歌わしめたるダヴィドの歌

三   

ああ神よ、御身のいつくしみによりて、我を憐み給え〔Miserere mei〕。御憐れみの大きによりて、我が罪を取り去り給え。

四   

我が科[とが]を、すべて我より洗い去り、我の罪より、我を浄め給え。

五   

まことに我は、我が悪を知ればなり。我が罪は、いつも眼前にあり。

六   

御身にそむき、ただ御身にそむきて、我は過まてり。御身の御前に、悪しき事を我はなしぬ。御身は、御裁きに、正義にて在すことを示し給い、涜[けがれ]なく、審判の中に立ち給う。

七   

然れど見よ、我は罪のうちに生れたり。科をもて、我が母すでに我をはらめり。

八   

然れど見よ、御身は直き心を望み給い、我が内に、智慧を与え給えり。

九   

イソプにて、我を浄め給え、然らば我は清くならん。我を洗い給え。然らば我は雪にまさりて白くならん。

十   

喜びと、楽しみを、我に味わわしめ給え。御身の打ち給う我が体を、喜びおどらしめ給え。

十一   

我が罪の前に、御顔を覆い給え。我が悪をすべて消し給え。

十二   

あゝ神よ、潔き心を我に与え給え、正しき心を我に新たならしめ給え。

十三   

御顔より、我を棄て給う勿れ。御身の聖なる霊より、我をとりのけ給わざれ。

十四   

御身の聖なる喜を、新たに我に感ぜしめ給え。御旨のうちに我を強め給え。

十五   

かくて我、罪人が御身に帰えるため、御身の道を悪人たちに告げ示さん。

十六   

ああ神よ、流血の罪より、我をとき給え。御身は我の救いの神にて在すなり。然らば我が舌声高く、御身の恵をほめたたえん。

十七   

主よ、我が唇を開き給え。かくて我が口は御身のほまれを告げ知らせん。

十八   

御身は犠牲を好み給わず、我それを御身にそなえんとしたれども、……燔祭を御身は好み給わざるなり。

十九   

神のよみし給う供物は、痛悔の心なり。……ああ神よ、御身はそれを軽んじ給わず、とこしえに。

二十   

御慈悲によりて、シオンに善きことをなし、エルザレムの城壁を築き給え。

二十一   

かくて後、御身は正しき供物と、燔祭と……全き犠牲とをよみし給う。かくて人、御身の祭壇に牡牛をさゝぐべし。

この本は旧約聖書の抄録である。それで、この第五十篇の次には第六十六篇が来たりしている既出参照
しかし、ともかく、この本は第五十篇を省かなかった。省ける筈もなかった。何故なら、それはここに↓登場したりするから。

クリックで拡大)

これについて、或る外部サイト(当サイトとは無関係)が説明してくれている。引用させて頂く。強調と〔Miserere mei〕は私による付加。

Per Mariam ad Deum.

アスペルジェス・メ

Liber Usualisの11ページには、Aspergesという聖歌が記載されています。ミサの冒頭に潅水式という式があって、司祭は会衆に対して聖水を注ぐ(潅水)のですが、その時に歌う聖歌です。聖水は教会の定めた準秘跡であり、霊的な浄めの象徴でもあって、小罪を許す効力があります。ミサの前に心の汚れを拭い去る為に行われていたのでしょう。それを促すかの様に、聖歌は詩篇50章9節と3節から採られていて、「主よヒソプをもって私に注いで下さい、そうすれば私は清くなるでしょう。私を洗って下さい、そうすれば私は雪よりも白くなるでしょう。主よ、大いなるいつくしみによって、私を哀れんで下さい〔Miserere mei〕」という様な意味です。読んで字の如く、ミサ聖祭というキリストの御受難に参与するに当って、「私を清めて下さい、私を慈しんで下さい」と、痛悔を以った心からの嘆願を意味し、それを信者の霊魂に訴え促している聖歌だと思います。

(…)

私の説明では不充分な事は承知の上ですが、潅水式は大変美しい式だと思います。勿論、現在のミサ聖祭にもこの潅水式はありますが、残念ながら(枝の主日を除いて)行われてはいない様子ですね。どうしてでしょうか?

私は、言語について素人ながら、日本語というのは優れた言語だという気がしている。しかしそれでも、よく言われるように、「率直さ」という点では、確かに、欧米語に一歩も二歩も、事によると十歩ぐらい譲っていると思う。この歌においても然り。言語構造の違いによって、「Miserere mei(われを憐れみ給え)」という言葉は、日本語では文尾に来てしまう。しかし、ラテン語を含むインド・ヨーロッパ語族の言語(ということでいいのか?)では文頭に来ていて、それだけで印象的である。それだけで、これが「痛悔の歌」であることを際立たせている。──考え過ぎか?
しかし、見よ、このラテン語を。

Douay-Rheims Catholic Bible Online

[3] Miserere mei〔われを憐れみ給え〕, Deus〔神よ〕, secundum magnam misericordiam tuam; et secundum multitudinem miserationum tuarum, dele iniquitatem meam.

歌に疎い私は、恥ずかしながら今回初めて知ったが、音楽を愛するキリスト信者の間で「ミゼレーレ」と言えば、まず大抵「ミゼレーレ(アレグリ)」を意味するようである。そしてそれは、今見ている「ダビデの痛悔の歌」を基にしたものである。

バルバロ訳

あまり意味のない書誌情報: バルバロ訳の聖書(旧約・新約)は講談社からのものがあるが、私が持っているのはこれである。

書 名    

口語訳 旧約新約聖書

訳 者    

バルバロ ー デル・コル

発行者    

ドン・ボスコ社

発行所    

ドン・ボスコ社

1964年10月24日 初版発行
1976年09月10日 8版発行

pp. 1090-1091

1   

51 (50) 歌の指揮者に。ダヴィドの詩。

2   

* かれがベツァベアに通ってのちのこと、預言者ナタンが、かれのもとに来たとき。

3   

神よ、あなたのお慈悲によって、私をあわれみ〔Miserere mei〕
あなたの深い憐憫によって、私のとがを消されよ。

4   

たえず、私の不義を洗い、
私の罪を清めよ。

5   

私は、自分のとがをみとめる、
私の罪は、常に私の前にある。

6   

あなた、ただあなたに向かって、私は罪を犯し、
おん目の前に、悪事をおこなった。
あなたが宣告される時、その宣告は正しく、
あなたが審かれる時、その審きはあやまりがない。

7   

* 私は、不義のなかにうまれ、
母は、罪のうちに私をみごもった。

8   

あなたは、心の誠実を喜ばれる、
知恵の深さを私に教えられよ。

9   

* ヒソプをもって私を清めれば、私は清くなろう。
私を洗えば、雪よりも白くなろう。

10   

私に喜悦と歓喜とを知らせよ、
そうすれば、あなたに砕かれた骨は喜び踊るだろう。

11   

み顔をおおって私の罪を見ず、
私のとがをすべて消されよ。

12   

* 神よ、私に清い心をつくり、
新しい確かな霊を与えよ。

13   

み前から私を退けず、
あなたの聖なる霊を、私から奪われるな。

14   

救いの喜びを私に返し、
寛仁な霊をもって私を支えよ。

15   

ああ、私は、悪人たちに、あなたの道を教えよう、
罪人があなたに立ち返るように。

16   

神よ、私のすくいの神よ、* 血のできごとから私を解放せよ、
そうすれば、私の舌は、あなたの正義を告げよう。

17   

主よ、私の唇をひらけ、
そうすれば、私の口は、あなたの誉を語る。

18   

あなたは、もういけにえを好まれない。
私が供物をしても、あなたはそれを喜ばれない。

19   

神へのいけにえとは、痛悔した魂。
ああ神よ、あなたは、悔い改め、へりくだった魂を軽んじられない。

20   

その慈愛にとむみ心によって、シオンにあわれみを下し、

21   

イェルザレムの城壁をたて直されよ、

22   

そのときあなたにささげらるべきいけにえ、
供物とささげものとは、受けいれられ、
そして、私は、あなたの祭壇に、小牛をささげよう。

あわれみを乞ううた

2   

悔恨のこのうたは、預言的にイザヤとエゼキエルの文学によく似通っているといわれる。

7   

人間はみな汚れをもって生まれ(ヨブ14・4、格言の書20・9)、それがために悪に傾く(創世 8・21)。原罪の教義については、ローマ5・12-21参照。

9   

らい病人にしていた浄めの式。

12   

罪人を義とすることは、創造と等しい神のみの業である(エゼキエル36・25、イェレミア31・33、32・39-40)。

16   

ウリア(サムエル後12・9、13)の殺害か、あるいは、罪の罰としての若死を意味するらしい。

「27. 諸教会に潜入し、啓示された宗教を『社会的』な宗教と入れ替えよ」 - 共産主義の目標

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」 - フリーメイソンの雑誌

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