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http://www.tldm.org/News4/WarningsFromBeyond.3of3.htm#_Toc533070431

1978年4月5日

司祭たちへのメッセージ
  福音の生活に戻ることの奨励 [17]

(前半)

祓魔師: 

エルネスト・フィッシャー神父(引退した宣教師、
聖ゴール修道院 - スイス、ゴッサウ)

悪 魔: 

ヴェルディ・ガランデュー。人間の悪霊。

17世紀においてTarbes教区の司祭であったが今や人間の悪霊であるヴェルディ・ガランデュー修道院長は、聖三位と聖なる乙女の命令により、憑かれた女性を介して、聖職における彼の兄弟たちに [管1] 、彼らが福音の狭い道に戻るようにと懇願するために、またそうすることによって恩寵に対する不忠実のために自分のものとなった恐ろしい境遇、永遠の地獄を、今度は彼らが彼らの番として被ることを避けるようにと懇願するために、この悲壮なメッセージを届ける。

今回はフィシャー神父によって唱えられたレオ十三世の祓魔文の後に他の多くの祈りが唱えられたが、その中には14〜15世紀のスペインの偉大な宣教師、聖ヴィンセント・フェラー [18] への祈りが含まれていた。彼はスペイン、イタリア、スイス、イタリアなど至る所を旅し、1419年ヴァンヌ(フランス)で帰天した。彼はその愛と償いの生活により、また活発な説教活動によって悪魔から多くの霊魂をもぎ取る [19] 、悪魔にとっての恐るべき存在であった。

つまり、聖ヴィンセント・フェラーは模倣すべき手本であり、神父ヴェルディ・ガランデューは従ってはならない例である。

悪霊は約二時間半ぶっ続けに話そうとするところである。我々はここに、天の命令に従って為された、我々の時代の司祭たち [20] への彼の懇願のテキストを再現する。

ヴェルディ・ガランデューは自分もまた「悪霊たちの中の悪霊」になったことを告白した後、突然叫び始め、こう言った──「私が恩寵と導きに応えなかったとは、何と愚かなことだったろう!」

〔彼は哀れな泣き声を出しながら憑かれた女性を跳ね起きさせ、大声を上げる〕

何故私は自分をその道に進ませてしまったのか? 何故? 何故、私は司祭職という、この非常に重い責任のある職務に入れられることに同意したのか? 自分をこの偉大な理想の極みに持ち上げることの労を取る用意ができていなかったのならば、私にはこの職務は無理だったろうに。何故、私は今日のおびただしい数の司祭たちがしているように、自分の司祭職に従わないことをもって悪い模範を与えてしまったのか? 何故、私は私がそうすべきだったようにはカテキズムを教えなかったのか?

私は神の掟を守りながらというよりはむしろ女性の服を眺めながら時を過ごした。私は実際のところ、熱くも冷たくもなく、生ぬるかった。それで聖主はその口から私を吐き出した [21] 。それでも私も若い頃はまだ良かったのだ。まだ聖寵と一致していたのだ。

〔彼が話している間、我々は憑かれた女性を通して彼の叫びを聞いた〕

後に私は生ぬるくなった。その時、私は広くて簡単な快楽の道に入った。そして私はもはや恩寵に応えずに、聖徳の狭い道を放棄した。そして次に、私はますます堕落して行った。

初めの頃は、私もまだ自分の罪を告白していたものだった。私は回心したかったが、しかし、もはや祈る術を十分に知らなかったために成功しなかった。私は生ぬるかったために恩寵に応えることをせず、更に冷たくなるまで心境を下げて行った。生ぬるさと冷たさの間には、ただ玉ネギの薄皮ほどの距離しかない。もし私が熱心であったなら、この哀れな運命を味わうことはなかっただろう。

もし、今日の司祭たちが立ち直らないなら... ああ、その通り! 彼らは私と同じ運命を辿るだろう。現在、世界には、私と同じような司祭たちが何千何万と居る。彼らは悪い模範を作り、生ぬるく、そしてもはや神の恩寵に応えていない。それらの全ての者たちは、もし回心しないなら、私、ヴェルディ・ガランデューよりも良い運命を持つことはないだろう。

ああ! 私にとって地獄とは何という運命だろう! 私が生まれることさえなかったら![22] 地上に再び戻ることができるなら! ああ! 私はどんなにより善く生き直すために地上に戻りたがっていることか! ああ! 私はどんなに夜も昼も脆き、いと高き御方への祈りのうちに過ごしたがっていることか! その時、私は天使と聖人たちに、私が破滅への道から離れていることができるように、私を助けて下さるようにと祈るだろう。しかし、私はもう引き返すことはできないのだ。私は有罪なのだ。〔哀れな声を出す〕

ああ、司祭たちは地獄の刑を宣告されることがどんなことか、また地獄がどんなものであるかを知らない。現在、地上に居るほとんど全ての者が、最も抵抗の少ない道を選んでいる。彼らはこの世の快楽を味わうことを望んでいる。彼らは、彼らの言うところのヒューマニズム(人間中心主義)を実践することが、この時代のメンタリティーであり、それと同時に今や普遍的なものとして確立されたのだと堅く信じている。

司教、枢機卿、そして修道院長たちは、彼らの部下たちが示す程度の模範しか示していない。彼らは、キリストがその食事と食事に準ずる席で実践したような質素さに倣いつつ生活しているだろうか? 福音が言っているように、イエズス・キリストは確かに様々な人からの招きに応えて晩餐に出席した。しかし、これらの食事の席で、彼はあまり食べなかったのである。そして、もし彼がこれらの晩餐の席で少しばかり食べたことがあったとしても、尚、彼は飢えで苦しむことをより好んでいたということが何度も強調されなければならない。

聖家族と使徒たちも大いに断食したのである。さもなければ、彼らは彼らが恩恵に浴したところの全ての聖籠を受けなかったであろう。しかしイエズスは、彼自身が聖寵の創造者であったが故に、聖寵を受ける必要がなかった。しかしそれでも彼は、彼の使徒たちに確実に模範を与えることを望み、また全ての時代の全ての枢機卿たち、司教たち、そして司祭たちに、模範を与えることを望んだのである。しかしながら、今日の枢機卿たち、司教たち、そして司祭たちが、贅沢な環境の中で彼らのテーブルにつき、おいしいごちそうを食べているのであれば、そんなことをして何になったのだろうか。

彼らはこの生活様式に従いながら、彼らの健康を損なうほどまで進むのである。しかし彼らは、これが自分の司教のとしての、また枢機卿としての、あるいは管区長としての地位に相応しいと思っている。哀れな料理人たちは、自分たちは司教あるいはお偉方に仕えているのだから、テーブルの上には何か手の込んだものを出さなければならないと思っている! 彼ら、この哀れな霊魂たちは、もしこれら全ての皿をテーブルの上に並べることができなければ、自分たちにとって不名誉なことになると思っている。彼らは、このようなことが、司教たちが司祭たち以上にキリストに倣うことができるために、何ら助けになっていない、ということに気づいていない。もしこれらの料理人たちが、これらのお偉方に、キリストもかつて地上に生きたが、しかし彼はもっと遥かに質素な生活をした、ということを言うことができれば、より良いことであろう。

天の方々は〔上を指差す〕、人々がイエズス・キリストを模倣する精神をもって為すことは何であれ、高く評価する。しかし、この時代に行なわれていることは、イエズス・キリストへの模倣とは全く正反対のことである。人々の多くは、優雅、贅沢、裕福の中で生き、それは過剰な程度にまで至り、更には罪である程度にまで至っている。罪はしばしば食卓の上から始まる。罪は、そこで確かな禁欲が実践されなければならないにもかかわらず、それが拒絶される時、食卓から始まる。

犠牲の精神を拒否すること、それは罪ではないが、しかし罪が入って来ることのできる広く開けられた扉である。禁欲の欠如は、人をゆっくりと罪に導く。この二つの間には、ただ玉ネギの薄皮ほどの距離しかない。もし司祭が教会の教えに従わないなら、彼を我々の道に導くために彼のローブ [23] の裾を引っ張りに来るのは、我々である。その時、我々が我々の全習慣を遂行する望みのもとに彼のローブの裾を掴むのは、そのほんの端だけで足りるのであり、しかもほんの僅かの時間だけで足りるのである。

長い間、私は善き司祭になる意図を確かに持っていた。しかし、司祭というものが我々(悪霊たち)によって平信徒たちより遥かに激しく攻撃されるということが強調されなければならない。確かに平信徒たちも危険にさらされている。特に、正しい人々の列に加わるために自分のできる限りのことをしている者たち、また、重要な責任を持っている者たちがそうである。しかし、司祭というものが人々に祝福を与える偉大な力を持っているが故に、我々は、全てにおいて司祭たちを真先に攻撃するのである。

私に関する限り、私は自分が司祭であることを弁えていたし、また初期の頃は、私も自分の司祭職を真面目に果していたものだった。しかし時が経つに従い、私はそれが単調であると思うようになり、また独身制の意味についても顧慮しなくなった。私は祈ることをやめてしまった。何より、私はあまりに多忙だったのだ。そして私は、時々しか祈らなくなり、そして最後には、祈ることを全くやめてしまった。私は、聖務日課の長い祈りを、退屈で無益なものと思うようになり、そしてとうとう、祈る意欲を失ったのである。[24]

私は、聖務日課をしなくなった時、淫猥の罪に陥った。そしてその時から、私はもはやミサを唱える意欲を持たなかった。これは連鎖反応的に起こった。私が淫猥の罪に陥った時、これは連鎖反応的に起こった。つまり、私はもはや聖寵の状態になかったために、もはやミサを信心深く捧げなくなったのだ。このような状態にあって、特に聖書と福音書を読むこと、また天主の掟を思い出すことは、私にとって咎めの時となったのである。

それは私にとっては警告であるところのものであった。しかし、私はその警告を無視し、自分はもう自分の当然の務めとしてそうすべきようには子供たちに教えまい、と決心したのである。私自身が善を実践していない時に、どうして彼らにそれを教えられるわけがあろうか? しかし、今日の、自らをヒューマニスト、あるいはモダニストと呼ぶ司祭たちは、これら全てを、私が知っていると全く同様によく知っているのである。

彼らは、自分が信じてもいず行なってもいないことを、どうして平信徒たちや子供たちに教えることができるだろうか? 自分の教えることが自分の生活の実情と合っていないことを知っており、それ故自分の語ることが一つの巨大な嘘であることを知っている時に、どうして教えるべきように人々に教えることに耐えることができるだろうか? 多くの司祭たちにとって、そのようなことをしなければならない時は、心臓が死の深い穴になってしまうような時である。このような状態にある司祭は、人々が考えているよりも遥かに多く居るのである。彼らは腐ったリンゴである。腐ったリンゴがどうして良い香りを放つことができるだろうか? 聖徳を達成することに努め、霊魂たちに触れ、それらが必要とするものを与えることのできるのは、ただ司祭だけであるだが。

もし司祭たちが、聖徳の模範を信者たちに、特に若者たちに与えるならば、我々は我々が知っているものとは全く違った世界を持つことだろう。その時お前たちは、お前たちが現在持っているものより千倍も良い、またそれ以上に良い世界を持つことだろう。しかし、もしお前たちが自分の中に神を持っていないなら、お前たちはどうやってそれを広めたいと願うことができるのか? もし、私が私自身、聖霊に聞かないことを喜びとしているなら、私はどうやって聖霊について語ることができるのか? もし、ある者が自分自身、模範とすべき道から外れているなら、その者はどうやって、人に模範とすべき道を指し示すことができるのだろうか? このようなことは、お前たちが想像することのできる以上に、非常に深刻な悲劇であるのだ。司祭が聖徳の道から逸れ、そしてその同じ道に他の霊魂たちをも引き込んでもよいという気になった正にその瞬間、悲劇が始まるのだ。

このようなことは、ミサの聖なる御いけにえと共に始まる。その時、聖なるミサは、初めから終わりまで、意欲なしに、生ぬるく唱えられる。その結果、そのミサからはどんな個人的な利益も得られない [管2] 。とにもかくにも、私にとって事情はこの通りだったのであり、そして私は、ミサとその聖なる言葉に対する嫌悪を募らせていったのである。そしてこのようなことは、悪しく行動する者にとっては、永遠の咎めとなるのである。

私の場合、他の多くの司祭たちの場合と同様、信者たちがミサに心から安心して与ることを可能にする全実体変化というものが、少なくとも存在していた。しかし、信者たちがそのように安心できたのも、彼らが司祭たちの心の奥底にあるものを知らなかったからである。悲しいかな、司祭たちは、ミサが有効であることを確実にするための、彼らが唱えるべき言葉を唱えておらず [管3] 、また、もはやそれと共に生きてはいないのである。

悲しいかな、司祭の誰もが、信者たちを間違った道に導いている。これらの司祭たちは、説教壇の上から、公に次のように叫んだ方が良いだろう。「私は罪を犯しました。私はもはや聖徳を実行できません。私が回心できるように、また私が再び聖徳の道について教えることができるように、どうか私のために祈って下さい」。そのように言うことの方が、遥かに良いことだろう。そして、我々悪霊たちは、そのような司祭たちには力を及ぼすことができない。何故なら、彼らが謙遜の行為を為したからである。

たとえ幾らかの人々が、このように話す司祭に軽蔑を抱くようになったとしても、しかし司祭の言うことを聞いた大部分の者たちは、その謙遜に感化されるのであり、そして皆で力を合わせて、司祭が自分を取り戻すことを助けることができるであろう。信者の大部分は、そのように自分を表現した司祭に、尊敬の念を抱くであろう。このようなことは、嘘と偽善の道を続けるよりは、遥かに善いことである。

人々に対面してミサを執行し、人々に次のように言うことは、何の役に立つのだろうか。「近寄りなさい! 主はあなた方の罪を全てお許しになっています。彼は、あなた方のことを理解して下さっているのです。光の御父のもとに来なさい。そして、もしあなたが暗闇の中にいるなら、彼はあなたを再び恩寵の中に戻して下さるでしょう」。このように言う者たちは全て、御父がお前たちを自らの御腕のうちに再び取り戻し、その聖寵のうちにお前たちを再び戻すために、何かあらかじめ為されねばならないことがある、ということを忘れている。

御父が彼の子供たちを再び御自分の御腕の中に取り戻すというのは本当である。しかし、このことが起こる前に、人々が悔い改め、自らの生き方を改めると約束することが必要である。滅びへの道を避けることが必要である。

司祭は当然こう考えるべきである。「まず私自身から始めなければならない。それが、信者各人に模範を示すため、また聖霊とイエズス・キリストの教えを全会衆に説教することができるための、唯一の方法だろう。そのようにすることが、いと高き御方が、私が人々の中で説教し且つ実践すべきとお考えになっているところの、私の使命であるだろう」

隣人愛があまりにも多く語られ過ぎている。他方、この隣人愛というものが神に対する愛から生ずるものであることが忘れられている。もし、第一の掟、主要な掟を忘れているなら、人はどのように隣人愛について、互いに近寄ることについて、語れるものだろうか?「あなたは思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして神を愛さなければならない」[25] 。隣人愛の命令は、ただ二番目に出てくるに過ぎない。

もし、司祭が天の方々〔上を指差す〕と和解することを全てにおいて最優先するならば、その時隣人愛は直ちに流れ始めるのである。次のように言うことは、フリーメーソンの見せかけである。「互いに愛し合わなければならない。互いに助け合わなければならない。互いに支え合わなければならない」。しかし、この全てがどこに通じているのか? たとえ人が慈善について語ろうが、許しについて語ろうが、あるいは相互扶助について語ろうが、その結果がどのようであるかは、今日の自殺者数を見ればわかることである。

「汝の隣人を己が如く愛せよ」という掟があるのは事実である。しかし、それは「全てに先んじて神を敬い礼拝せよ」という掟の後に来るものである。隣人愛の掟の正に源であるところのものから始められなければならない。即ち、まず初めに神を愛さなければならない。それは実際、隣人愛を含むものである。それは、全ての掟がその中に見出されるべき、最重要の掟である。人は、もし神を真に愛することができたならば、その時、隣人を愛すること、隣人を支えること、隣人を助けることなどについて、絶え間なく語ることはないであろう [26]

しかし実際には、このようなことは何一つ行なわれていない。彼らは教会の部屋で、司教会議で、またローマにおいてさえ、隣人愛について始終喋りまくる。彼らは喋りまくり、議論し、何事かを決定し、それについて忘れ [管4] 、天の方々〔上を指差す〕が同意なさらないやり方に従って、あらゆることを受け入れることを望む。

天の方々〔上を指差す〕は、ただ単に憐れみであるだけではなく、正義でもある。そして、私、ヴェルディ・ガランデューは、これについてよく知っている! もし、徳行に励み、祈り、償いを捧げていたなら、私は今知っているこの過酷な道を知らなかったであろう。私は、私の羊たちが自分自身を浄めることを助けるために、また私自身を浄めるために、十字架を求めざるを得なかったであろう。しかし、私はそれを求めることを忘れたのである。

今の時代においては、司祭たちの大部分は、十字架の道が実践されなければならないこと、自己犠牲が行なわれなければならないこと、他者のために祈らなければならないこと、そして自分自身のことは忘れなければならないこと等について、忘れている。この時代においては、説教壇の上から信者たちに向けて、今や全ての者たちが巻き込まれているところの堕落した状態を償い、またそこから立ち上がるために犠牲をしなければならない、ということが宣言されなければならない。そのようにすることこそ、真の意味での慈善 [管5] の実践である。

それら全てのこと [27] は、確かにその重要性を持ってはいる。しかし、ことさら特に、天主ご自身が我々が生きるために必要とするものはお与えになると約束しておられるのだから、また特に、今の時代においては物質的なものは著しく組織化された方法によって分配されているのだから、今や慈善的なものはそれほどは重点の置かれるべきものではないのである。それが、隣人愛的なものが我々の愛の主要な目的になってはならず、それはただ我々が別のもの、即ち神への愛と結び付くことができるための手段であるということの理由である。

もちろん、困っている人を助けることは必要なことである。しかし、このことが神へ向かう義務を脇に押しやるほど過大評価されたのでは行き過ぎである。それよりも、説教壇の上から人々を導くことに意を用いた方がずっと好ましいことである。それは即ち、人々に、誰か霊的な大きな困難の内にあり、またそれ故に危険の内にある人のために祈るよう勧めたり、祝別されたロウソクを灯すこと、十字架を使うこと、死者の十字架 [28] と聖水を使うこと、そしてその困難にある人の助けとなる恵みを天から引き寄せるためにいつもロザリオを祈ることを忘れないこと、等々を勧めることである。

これら全ては、たとえそれを行なう者が平信徒であっとしても、恵みをもたらすものである。その恵みは、慎みと沈黙の内に豊かに溢れるものである。そして我々(悪霊たち)は、そのようなやり方で対抗された時、その場から撤退せざるを得ないのである。

人々は、説教壇の高みから、信仰というものを真剣に考えなければならないということ、各々心の中で忍耐を保つために互いのために自分を犠牲にしなければならないということ、そして、そのようにして人々を聖徳の道の上に留まらせなければならないということ、等々を思い出させられなければならない。

平信徒たちはまた、こうも言われるべきである。彼らは聖職者たちのために祈らなければならない。全ての聖職者たちの使命がよく果されるようにと祈らなければならない。聖職者たちが神への奉仕職の中によく保たれ、悪霊の罠に落ちることのないようにと祈らなければならない。司祭たちが信者たちをよく導くことができるようにと祈らなければならない。ところで、私、この私もまた、一人の司祭であった。そして、私が司祭であったからこそ、私は今、私に印された奉献の印によって、地獄でこのように酷く苦しんでいるのである。

司祭たちはまた、説教壇の高みから、信徒たちは自分自身のためにも祈らなければならない、と言わなければならない。何故なら、平信徒といえども悪霊たちによって攻撃されているものであり、しかも彼ら自身が考えているより遥かに激しく攻撃されているものだからである。信徒たちは司祭たちのために、司祭たちがその臨終の瞬間に至るまでその使命と正しい姿勢を貫くことができるように、と祈らなければならない。また、平信徒たちが互いに祈り合うことも必要である。自分たちが聖徳とあらゆる善きことの道を歩き続けることができるようにと、しかもただ時々ではなく常にそうあり続けることができるようにと、互いに祈り合わなければならない。

おびただしい数の聖職者たちと平信徒たちが柔らかい草のようになったのは、彼ら自身にとって悲劇である。彼らは、この誘惑の時に、警告されることもなしに、悪霊たちによって踏みつけにされている。それは、福音書の中でイエズス・キリストが指摘している通りである。それは、彼らが太陽か水を欠いているからである。あるいは、太陽が彼らを焦がしているからである。このことは、この時代の平信徒たちが司祭たちによって正しい道から締め出される時に、ますます酷くなる。その時司祭たちは、彼らに、かつてあったことは今日では退けられている、と言うのである。彼ら全て(司祭たちと平信徒たち)の中に、かつては大きな善徳を為す者が幾らか居たものだったが、 しかしその者たちも善き土壌に充分に深く根付いてはいなかったが故に、今になって急に萎れてしまった。

お前たちにこれを言うのは、私、ヴェルディ・ガランデューである。司祭と平信徒たちが堅忍のもとに彼らの道を続けることができるように、絶え間なく祈らなければならない。特に司祭たちは、彼らが彼らの説教壇の上から、今日においては祈ることはますます欠くべからざるものである、ということを告げなければならないと知らなければならない。また、十字架の道に沿って為される堅忍こそ幸福の法である、ということが思い出されなければならない。何故なら、如何にして(試練を)耐え忍ぶか、ということを知っている者が、天国へと至る道の上にあるからである。

特に、貧しい人々は、彼らは後には天国で心底から幸福になるのであるから、今はその逆境を耐えることだけで良しとしなければならない、と教えられなければならない。たとえその貧しい人々が(その貧窮を)耐えねばならないとしても、それでも尚全体として見れば、例えばアルスの主任司祭、あるいは他の偉大な聖人たちがその生涯の正に最後まで受け入れた断食と犠牲からは、まだ相当な隔たりがあるのである。貧しい人々は、天主が彼らにお与えになった多くの事に感謝すべきことを教えられなければならない。何故なら、貧窮を受け入れることは、彼らがイエズス・キリストを模倣することを大いに助け得るからである。

善き天主に感謝せよ [29] 。何故なら、そのような貧窮によっていつも働かなければならないが故に、お前たちは誘惑に屈伏し得る機会を持つことが一層少なくなっているからである。多くの子供を授けられ、それを教育し養うための多くの為すべき事を抱えている人々は、天主に日に三度感謝しなければならない。何故なら、彼らはそのような環境にあって、この世の快楽から逃れるためのあらゆる機会を持っているからであり、また、彼らの居場所を確保している天の王国のために自分自身をより良く準備するためのあらゆる機会を手にしているからである。

ある家族に四番目の子供が生まれる時、周囲の人々にとっても、またその家族自身にとっても、一つの騒ぎが持ち上がるものである。その時、何が為されるべきであろうか? 二番目の子供、あるいは三番目の子供において真実である事は、四番目の子供においても真実である。しかし不幸なことに、司祭たちはこれらの嘆きを前にして寛容の精神に入って行き、そして信者たちが子供を避けるためにピルを使うことに同意する。信者たちは、そのようにすることによって自分たちに及ぼすことになる危険について分かっていない。何故なら、ピルを使用すること(それは既に重大な過ちである)と堕胎をすること(更に重大な過ちである)との間には、僅かな差しかないからである。

堕胎は殺人である。それ故、重大な罪である。しかし我々の時代においては、人々は、過去何世紀にもわたって [30] 信じられてきたことを、真理として受け入れたがらないのである。それ故、たとえ神が今直ぐにはオナニズムを罰せられないとしても、かつて彼がオナンの罪 [31] を罰し給うたように、我らの神は産児制限の様々な手段を、どんなものであれ等しく重大なものとしてお考えなのである。神が堕胎のことをどうお考えなのか、少しは想像してみよ! 何故なら、これらの悪行は、神が御心に描いておられる救いの計画とは正反対だからである。

それ故、私、ヴェルディ・ガランデューは、自らを、司教たち、枢機卿たち、司祭たち、全ての人々に向けて、次のように語らねばならない義務の内に見出す。彼らは説教壇の上から語らねばならない。どのようにか? こうである──「主の道に従え。何故ならば、そこには自己放棄と犠牲とがあり、それ故にこそ恩寵を受けることも可能だからである」

犠牲も自己放棄もないところには、恩寵を受ける可能性もない。 そして、自己放棄も犠牲もないところでは、たとえどんなに小さな裂け目であっても、我々の狡猾さにかかれば、我々が直ぐにでも支配を握るための通り道となるのである。この小さな裂け目は、我々が家全体をひっくり返すためには充分なものである。これが、この時代のお前たちの全ての教会に起こっていることである [管6]

人々に再び使命を与えることが必要である。そして、今まで我々が語ってきたことを、聖歌隊席からではなく説教壇から [管7] 、再び彼らに説教することが必要である。人々が「祭壇に上がる」のではなく「祭壇に下がる」ことを余儀なくさせられる幾つかの教会さえある。そこでは直ぐに人々の気が散らされる。何故なら、そこでは人々は上の方を見ているのではなく、下の方に充満している人の気を散らさせる物事、時には遥か下の方、正に我々がいる所に充満しているそれらを見ているからである。今まで述べてきたような伝統的な使命が再び実践され始めなければならない。何故なら、聖徳への道がそのように実践される時、そのようにした人々には恩寵のシャワーが与えられるからである。

天主の掟に従って生きる司祭の持つ影響力は甚大である。それはアルスの主任司祭の生涯に見ることができる。彼が霊魂たちを救ったのは、旅行に逃げることによってでもなく、美味しい食事を取ることによってでもなく、あらゆる種類の会議に出席することによってでもなく、ただ彼の部屋に留まること、至聖なる秘跡の御前に留まることによって、そうしたのである。そしてまた、そのようにすることは、私、ヴェルディ・ガランデュー自身にとっても必要なことであったのだ。しかし私は、そのようにする代わりに、自分の教区に対して為すべきであった自分の司祭としての務めを怠ったのである。そして、そのようにして、それをこの道の上に導いたのである。この我々の時代は、何千何万というアルスの主任司祭を必要としている。しかし、もしそのような者がもはや存在していないのであれば、その時は、この人物、アルスの主任司祭が、倣うべき模範として考えられなければならない。

後半へ

原註

[17] 同時に警告でもある奨励。

[18] この日はたまたまこの聖人の記念日(4月5日)であった。

[19] 「これらの霊魂たちをさらって行ったのはいにしえの者(ルシファー)であって、私ではない」(エクソシズム中における悪霊ガランデューの言葉)

[20] 実際には聖職者全体に対してである。何故なら悪霊自身が言っているように、彼は司教たち、枢機卿たち、そして修道院長たち(などの高位聖職者たち)に対しても言っているからである。

[21] 「あなたは熱くもなく冷たくもなく、生ぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」(ヨハネの黙示録 3:16)

[22] 「その人はむしろ生まれなかったほうがよかったであろうに」(マタイ 26:24)(私たちが今彼は地獄にいると知っているユダについて、我らの主がおっしゃったお言葉)

[23] 彼のスータンを、あるいは含蓄的に彼の「肉の服」を、か。(参照: アウグスチヌス『告白』)

[24] 第五階級の聖なる天使である権天使が、私たちに祈りへの意欲と愛を与え、また祈るための忍耐力を与えて下さいますようにと祈ろう。何故なら、それが彼らの使命だからである。

[管理人: 訳が間違っているかも知れません。何故なら一般には第五階級は力天使で、権天使は第七階級であるとされているようだからです。英文はこうです。Let us invoke the Holy Angels of the Fifth Choir: the Principalities, to give us the taste for and a love of prayer, and perseverance in prayer, for such is their vocation.
私はコロンの解釈を間違っているのでしょうか。よく分からない... ]

[25] 「第一のおきてはこれである。『イスラエルよ、聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』第二のおきては、『隣人をあなた自身のように愛せよ』これである」(マルコ 12:30-31)

[26] しかし実際はそうされている。

[27] 隣人を助けるための全ての方法。

[28] 死にゆく者を助けることを目的に免償を付された十字架。

[29] 「どんなことにも感謝しなさい。これこそ、神が、キリスト・イエズスによってあなたがたに望まれることなのです」(1テサロニケ 5:18)

[30] 即ち、ずっと以前から。

[31] 「するとユダは、ナオンにむかって、『その兄よめのところにはいって、かの女に義弟としてのつとめを果して、兄のために子孫をのこしなさい』といったが、ナオンは、生まれる子が自分の子とならないのを知って、兄よめのところにはいるたびごとに、兄のために子孫をのこさないように、地にながすのであった。かれのこのやりかたは、主の眼前にきらわれることだったので、主はかれを死なされた」(創世記 38:8-10)

原註

[管1] 「聖職における彼の兄弟たち」: これは単に編者による一つの言い回しであるというだけではなく、この霊魂(悪霊)自身にとってもある程度真実のようである。つまり、ヴェルディ・ガランデューという霊魂においては、今だにある種の聖職者意識のようなものが残存しているようである。それで、彼は時々、彼の立場からすれば「お前たち」とういべきところを「我々」と言ったりする。

[管2] 「どんな個人的な利益も得られない」: これは、平信徒である私たちにとっては見過ごしにできない由々しき発言です。でも、これは「司祭自身にとって」という意味なのかも知れません。

[管3] 「唱えるべき言葉を唱えておらず」: そんなことがあり得ただろうか。確かに、司祭がその内心においては全実体変化を信じていないということは、昔においてもあり得ただろう。しかし、典礼書にある言葉そのものを「唱えない」ということはあり得ただろうか。確かに昔の(正しい)ミサでは、司祭は会衆に背を向け、且つごく小声で祈りを唱えるのであるが...

[管4] 「忘れ」: これも言い過ぎのような気が... 。彼らも、司教総会で決められたことを、あるいはナイスの全国会議で決められたことを、まあ、そんなに簡単には「忘れ」ないのではないか。

[管5] charity: 慈善。施し。隣人愛。同胞愛。思いやり。キリスト教的愛。

[管6] 悪霊は「どんなに小さな裂け目であっても」と言っている。これは、教会のことでもあるし、信者(私たち一人一人)のことでもあるだろう。
「裂け目」を作らないよう努力するために、ここで私たちが思い出すべきは次の聖句かも知れない。
「だから、天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ 5:48) ・・・水漏れ注意。

[管7] not from the choir but from the pulpit:「聖歌隊席からではなく説教壇から」としましたが、「choir」という語には他に「内陣」「天使の階級」という意味もあるらしいので、私は最初「天使たちからではなく説教壇から」としましたが、やはりそれは違うのでしょうね...
司祭が説教壇を降りて床に立って説教することについては、以前「説教司祭とその聴衆」というところで出て来ました。

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