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http://www.tldm.org/News4/WarningsFromBeyond.3of3.htm#_Toc533070431 の後半

1978年4月5日

司祭たちへのメッセージ
福音の生活に戻ることの奨励

(後半)

祓魔師: 

エルネスト・フィッシャー神父(引退した宣教師、
聖ゴール修道院 - スイス、ゴッサウ)

悪 魔: 

ヴェルディ・ガランデュー。人間の悪霊。

これは、私、ヴェルディ・ガランデューが、言うことを余儀なくされるところのものである。司祭は女性との習慣的な接触を避けなければならない。そして、全ての聖務日課を唱えなければならない。もし、彼らが聖務日課を唱えないならば、彼らは誘惑に屈する大きな危険の中にある、というのは事実である。他方、もし彼らがそれを唱えるならば、至高なる天主ご自身が、彼らがそれを克服するのを助けるであろう。私がこれを言うのは、司祭というものは、事実、これ [32] に関係した大きな誘惑を受けるものだからである。しかしながら、たとえ司祭が罪に堕ちている時であっても、それにもかかわらず彼が聖務日課を唱えるならば、至高なる天主は彼に、彼の聖職を続けるためのチャンスと、彼が信者たちに利益を運ぶ道具であり続けるためのチャンスをお与えになる、ということは注目すべきことである。

大きな困難の中にある全ての人々に、天主への望みのうちに堅忍しなければならないと告げなければならない。何故なら、天主は、ご自分の愛する者たちを試練の中に置くことをお好みになるからである。それは、人々が苦しみと試練に対するために金銭の力を当てにする時代においては尚更そうである [33] 。次のことが説教壇の上からたびたび繰り返されなければならない。即ち、人々は彼らの試練と闘うことができるため、またそれを耐え抜くことができるために、何よりも先ず第一に、彼らの信頼を天主にこそ置かなければならない、と。

もし司祭が人々に、罪についての理解を与えないことによって、あるいは、神は慈悲深く、人々に悔い改めと償いをすることを求めもせずに、あらゆるものを非常に簡単にお許しになるのである、といったような明るい見通しを彼らの前に置くことによって、安易な道を促進するならば、聖霊はどのように霊魂たちの中に入ることができるであろうか。全ての屋根の上から、十字架の道こそが天から要求されているものである、ということが叫ばれなければならない。人が隣人の救われのためにできる最良の援助は、自らがイエズス・キリストの十字架の後を追うことによってもたらされるのである。何故なら、善き天主はそれらの犠牲を利用なさるからである。善き天主は、その隣人の救われにおいて助けと成すべく、その犠牲を利用なさるのである。何故なら、もし人が天主の掟の第一のものを実行すれば、それはまた天主の掟の第二のもの、即ち隣人愛の掟をも実行することになるからである。

人々に対面して捧げられるミサ、あたかも天主に向かってではなく人々に向かって呼びかけているかのようなミサは、本当に天主に関した愛の実践なのであろうか? 司祭たちは、ミサというものが比類のない形で行なわれる天主への礼拝行為であり、主の御いけにえを通して天主に栄光を帰する行為であるということを、人々が悟るような形でもって、彼らのミサを捧げなければならない。他の全てのことは、ただ補完的、あるいは捕足的なだけである。日々の生活にまつわるあれこれや隣人愛についてあまりにも多く説教する司祭たちは、概して、そしてとりわけ、神への愛こそが真の隣人愛に繋がるものであり、そして真の慈善に繋がるものである、ということを忘れている。この自己放棄と償いの実践を通しての行動とふるまいの様式は、もし人々がそれに取りかかるならば、何千何万という霊魂たちに救われをもたらすであろう。特権的な霊魂たちが幾度となくお前たちに想起させてきたように、極めて多くの霊魂たちが、降る雪のように地獄に堕ちているのである。

もし司教たちや司祭たちがこのような壊滅的な状況を維持することに固執するならば、その時、何千何万という教会が、もはや教会であることをやめるだろう。このようなことは、今、既に始まっているのである。今日行なわれている説教は、何千何万という信者たちに、天主への奉仕をただ上辺だけのものにしておくための言い訳を与えるものとなっている。その結果、それらの説教は死の道具となっているのである。それらの説教が天国に直結しておらず、そして人々に天国について考えさせることをしないからである。

これら全ては、司祭たちが彼ら自身、いい加減な生き方をして、もはや天主のための愛の第一の掟を生きていないからである。そのような者は、内側に虫を抱えたリンゴのようなものである。彼らはもはや、彼らがそうあるべきような道案内ではない。司教たち、司祭たち、そして修道院長たちが、もし天主のお定めになった法に従って生きていたなら、お前たちは、お前たちが今日ローマの中に見ているところの、この大破局を持つことはなかったであろう。もし物事がそのようであったなら、天主は、教皇パウロ六世以外の誰かが、彼の名を使って統治をするふりをすることができるなどということを、お許しにはならなかったであろう

この事態は、バチカンから外の世界に広がって行ったものだが、フリーメイソンの仕事である。しかし、もし世界の至る所で百万人の信者たちが、祈り且つ犠牲を捧げる宗教的実践の中に一致して働いていたならば、そして同時に、この状況の中から我々(悪霊たち)を追い払って下さるようにと天主に懇願していたならば、天主はそれを防ぎ、この破局が起こることをお許しにはならなかったであろう。もし祈りの十字軍があったならば、ローマは今でもローマであったことだろう。

私はこのことをも言わなければならない。私は、今日の何千何万という司祭たちに向けて、女性は彼らにとって転落の機会となり得るということを、そして、もし彼らが自分自身を祈りでもって武装させることができるならばそうはならないであろうということを、言わねばならない。もし、司祭たちが彼らの聖務日課を再開することができ、そして彼ら自身を教会博士たち──彼らは祈ることの結果として人間についての偉大な知識を得たのであるが──の教えによって養うことができるならば、彼らにとって物事は違ったふうに進展するだろう。しかし、彼らがそうしなければ、彼らは、今日の何千何万という大罪の中に生きている司祭たちの中の一員であるだろう。

何千もの司祭たちが聖寵の状態の外に生きている。そして彼らはもはや聖務日課を祈っていない。ちょうど、かつての私自身がそうであったようにである。もし私が、せめて少なくとも自分の守護天使 [34] に、私を助けて下さるようにと祈り求めていたならば... しかし、私はそうしなかった。私は自分自身のために利用できるあらゆる手段を拒絶した。そして、そのような生き方に従いつつ、私は若者たちを教えることを全くもって怠った。しかしそれでも、今日の司祭たちや若者たちに起こっていることと比べれば、私はほとんど悪くはなかったのである。この警告は、滅びへの途上にある司祭たちのための光とならなければならない。

以前はまだ、目覚めていた多くの司祭たちがいたものである。それは、彼らが自己を浄めていたからである。しかし今日では、司祭たちは広い道を受け入れており、それと同時に滅びへとつながる道を選んでしまっている。もし彼らのために捧げられる祈りがないならば、もし悔い改めた霊魂たちが彼らを護るために、また彼らのために恩寵を獲ち取るために立ち上がることがないならば、彼らは滅ぶのである。これはにわかには信じられないような悲劇ではある。しかし私は、事実そうあるものをその通りに言う他はないのである。

我々の神が「パパ」[管8] と似た神ではないが故に、事は一層悲劇的である。彼は掟を作った。それらの掟は永遠である。人々はそれに従わなければならない。そして信者たちは変化を提唱する聖職者に従ってはならない。何故なら、それは天主の掟に一致した聖職者ではないからであり、しかし天主と天主の掟は永遠に有効であるからである。天主は理由なくして、福音書の中で、片目で天国に入る方が両目を持ったまま地獄に堕ちるよりはましである、と注意を呼び起こしておられるわけではない [35]

我々の時代の司祭たちがますます迷うようになっているのは、全くもって彼らの目のせいである。昨今では、司祭たちは彼らの視線を充分には抑制していない。彼らは、彼らの内的生活にとっては邪魔物となるようなイメージを、あまりに多く己が心の内に受け入れている。それはまずテレビから始まる。そして次に、今日では非常に多くの婦人たちを抱えた教区での教会活動において、それは継続する。以前は、教会の中に入った女性たちは自分の頭を覆っていたものである。しかしこの時代においては、もはやそんなことはされていない。そんな時に何故祭壇を人々の方に向けるのか? 私、ヴェルディ・ガランデューは、かつて人々に背を向けてミサを立てていたものである。しかしそれでも私は女性たちに誘惑された。今日の司祭たちはミサを立てる時人々の方に向かうから、以前より一層大きな誘惑を受けるのである。

天主は理由なくして、福音書の中で、(天国に)片目で入る方が、あるいは片手で入る方が、あるいは片足で入る方が、両目、両手、両足を持ったままで地獄の恐ろしい苦しみの中に入るよりはましである、と言ったわけではない。司祭たちは、福音書は今日ではその価値を失った、そして自分たちはそれを自分たちの好みに合わせて変えることができる、などと信じることができるものであろうか? 彼らは、主イエズスは当時のその場にいた人々にだけ彼のメッセージを与えたのだ、などと信じることができるものだろうか? 確かに主の時代においては、人々は長いローブを着ていたものだったが [36]

現代の司祭たちの心には、あるいは主は我々の時代の人々に向けてこそ一層お語りになっておられたのかも知れない、ということが浮かばない。今日の時代では、技術的な手段により破滅はますます広がりつつあるにもかかわらず、そして誰も起こっていることを止めることができないでいるにもかかわらずである。それは努力の雨によってはもはや消すことのできない燃える破滅の炉である。それは、あちらこちらで奮闘している幾らかの司祭たちも屈伏を感じさせられるほどのものである。

天主は常に御自分自身を人間各人の自由意志にお委ねになっておられる。その一方で、聖書がそこにある。特に福音書がそこにある。そしてまた、天主のお定めになった御命令を絶えず呼び起こさせるあらゆるメッセージが、そこにある。それ故に、もし人々がそれに聞くことを拒否するならば、できることは何もない。特に人々が福音を自分好みに加工して楽しんでいるならば、尚更そうである。

これら全ての慈悲が風の中に捨てられるなら、天はそれについて何ができるだろうか? もし、聖なる書物がもはや読まれることがないなら、あるいは聖人たちについての書物がもはや読まれることがないなら、──たとえば、カタリナ・エンメリックの生涯、アルスの聖なる主任司祭の生涯、そして我々の時代に偉大な模範を与えたパードレ・ピオの生涯さえ読まれないなら──、天主の恩寵に何ができるというのか。これらの聖人たちは、個別の愛を通してでありながら、しかし同じ自己放棄の中で、同じ犠牲に対する、同じ愛を心に持っていたのである。これらの聖人たちの償いは、いと高き御方が受け入れるに値するものであった。

彼らの場合と全く同様に、天主は、霊魂たちの回心のために捧げられる更に多くの償い及び犠牲を受け入れる準備があるであろう。善き天主は、ご自分に向かって次のように言うことのできる霊魂をしばしば愛される──「私は、あなたが私に送られる苦しみを受け入れます。この人の回心のため、あるいはあの人の回心のために、私に、それらの苦しみを耐えることのできる恵みを与えて下さい」。天主が苦しみを送られた時、そのように言わねばならないのであるが、しかし概してクリスチャンたちは、それらの苦しみを恐怖から力一杯に拒絶する。人はあまりにしばしば苦しみを避けるためにベストを尽すものである。しかし、物事に対する以上述べて来たような見方に従って生きること、そしてそのことを信者たちに説教することは、司祭たちの責任でなければならない。

苦しみを拒絶してそれを取り除くことだけを考える者たちは全て、天主の第一の掟に従って生きていない。天主の御意志に従う最上の方法は、次のように言うことである──「私の望みではなく、あなたの望みが行なわれますように」[37] 。自分自身をキリストの苦悩と結び付けることは、神の愛に栄光を帰するための最良の方法である。もし苦しみが神の意志を受け入れることと結び付くならば、それは非常に大きな価値を持つであろう [38]

たとえある苦しみが耐え難いものであったとしても、それをキリストの苦しみと結び付けるならば、それは清めのためと他者の罪の償いのため、その両方の手段となるのである。私は結婚生活にしばしば特有なものであるところの苦しみについて考えている。それらの苦しみは、夫婦である彼らが心に抱く「自分はおそらくある日、彼(彼女)と別れることができるだろう」という望みのもとに、如何に拒絶されていることであろうか。しかしその苦しみが生まれた限りは、それは大いなる償いを達成する機会となり得るのである。何千何万という人々が、他の人々のことを考えることによって苦しむことができる。そして与えられたこれらの苦しみは、無駄とはならないのである。

これら全てのことは、今日のカトリック教会において完全に忘れ去られている。このようなことが説教壇から語られることは非常に稀であり、これはあらゆるところで同様である。イエズス・キリストを模倣すること、そして隣人の救われに配慮することは、重要な事柄である。他の事柄は第二義的であって、「己れの如く隣人を愛せよ」[39] の一文に要約されるものである。

もし今キリストがお前たちの只中に帰って来たならば、彼のことを再び革命論者であるかのように、あるいは狂人であるかのように見なす、何千何万という人々がいるであろう。今日、キリストに従う運命にある者たちは全て、他の人々から愚か者として見られている。人々は自分自身を高めるどころか谷底に降りようとしている。そしてあまりにも多くの司祭たちが、もはやこれらの真理を説教しようとしない。何故なら、それらの真理は彼らにとって鮮明な咎めとなるからである。何故なら、彼らはもうこれらの真理に従って生きてはいないからである。もし彼らが彼ら自身、善徳を実践することができるならば、彼らは人々からももっと善徳を求めることができるであろう。人は自分でも欲しくないものを、他の人は欲しがるだろうと、どうして考えることができるだろうか。

これが、今日のお前たちがカトリック教会の中に持っている、まことに悲劇的な状況である。このことは、司祭たちから正にローマの枢機卿たちに至るまで、同様なことである。しかし、もし司祭たちがキリストや使徒たちのように生きることができるならば、彼らは霊魂たちを極めてよく照らされた道、そして極めて安全な道に導くことができるであろう。洗者聖ヨハネやイエズスが彼らの時代に説教したように、現代の司祭たちは回心し、また償いをしなければならない。

今日の極めて多くの司祭たちは、彼ら自身が悪の方向に進んでしまっているために、努力と善に対して戦いを挑んでいるのである。彼らは既に深い穴に通じる幅の広いハイウェイの上にいる。これが、司祭たちが面と向かって言われなければならないことである。しかし、それは心理学的な手法を尊重したやり方で言われねばならない。また、これはただ彼らの利益のために言われるのである、との印象を与えるようなやり方で言われねばならない。主眼とすべきは、彼らが悪いと指摘することではなく、彼らが(本来いなければならない地点まで)戻ろうと望むようになるまで心理学 [40] を応用する、ということである。

彼らが祈ることをやめているか、あるいはそうでないかを、極めて慎重に神経を使いつつでなくてはならないが、彼らに問わなければならない。そして、神に関する事柄というのは、救霊への配慮と全く同様に、祈りによってしか明確にならないという理解を、彼らに運ぶべきである。司祭がもっと批評を受け入れることのできるタイプの人だった場合、人は彼らにもう少し忌憚なく話すことができ、そしておそらく神の御助けにより、彼らを再び正しい場所に戻すことができるだろう。しかし、人の性質というものは人それぞれに違っている。必要なのは、パードレ・ピオがかつて用いていたと同じ手法で、目の前に置いた人に応じた対応の仕方をすることである。

司祭たちの何人かは、おそらくは無知の犠牲者である。しかし大半は、自分たちがどのような不足の状態に陥ったのかを非常によく知っている。彼らに彼らの職務を思い起こさせることが、おそらく、彼らを天主への一直線の道の上に立ち返らせるための方法であるだろう。そして、もし彼らが自己放棄の道に入ることができたならば [41] 、その時彼らの全てが、例外なく全てが、彼らが世話しなければならない霊魂たちをもっとより良く導くことができるだろう。私がこれらの事柄について沈黙を守っていたいというのは、全く、全くもってその通りである。しかし、いと高き御方〔上を指差す〕が私に物事を明かし回想するようにとお命じになっている場合は、私が地獄の住人であるという事実にもかかわらず、例外である。私は、自分が地獄に堕ちることになろうとは、全く考えていなかった。

もし、私が地上に再び戻ることができたなら、その時私は、私の群れを護るためにどれほどの苦しみを耐え忍ぶことだろうか! 私は私の群れのために殉教さえ受け入れ、しかもそれを一度と言わず受け入れるだろう。もしそれが天の方々〔上を指差す〕のご意志であるならば、私はそれを自発的に且つ最大の敬虔をもって受け入れるだろう。私にとっての主要なゴールはまず何よりも、第一の掟を実行することであるだろう。そして、それを守る方法を探すこと、自分をその掟に相応しいものとすることであるだろう。私は善き天主に、どうか私に関する御旨をお示し下さい、と懇願するであろう。

選択に迷った時には最も大変なものを選べ、という原則がある [42] 。司祭たちと信徒たちはこの原則について何か考えているだろうか? 確かにそれは一つの諺に過ぎない。天主がそれを言ったわけではない。しかし、それはこの状況に全く相応しいものである。何千もの司祭たちが、彼らが安易な道を選んでいるがために、破滅への途上にある。そう、彼らは最も抵抗の少ない道を選んでいる。そのような行動の仕方は、天主の目には喜ばしいものではない。

使徒聖パウロを念頭に置きつつ、幾つかの考え得る解決策のそれぞれを検討し、その中から最良のものを選ぶ術を知ることが必要である。私以前に、ベルゼブブ、ユダ、そして他の悪霊たちが既に言ったように、まずもって聖霊に祈ることが重要である。あらゆる者が、自分に与えられた真の使命を悟るよう努めなければならない。何故なら、天主は各人について明確なご計画を持っておられるからである。司祭は、その司祭としての地位によって既に天主の御前に高い者とされているが故に、人々の前に自分自身をも、偉大な権威と共に示さなければならない。彼は、人々を自分のもとに引き寄せなければならない。そして、彼が語っている道に彼自身が真に従っているという理由により、人々の中で彼自身を尊敬に値する者としなければならない。それが彼の職務に相応しいことである。

信者たちは、彼ら司祭たちを見る前に、自分たちに模範を与える誰かを見ることが必要である。そして、自分たちを破滅に導く者たちや、あるいは何であれ、司祭であるにもかかわらず破滅への道を生きている者たちを見てはならない。司祭と平信徒との間には、大きな距離がなければならないものである。いと高き御方は、常にそうあるようにと望んでおられる。何故ならば、司祭は恩寵の宝庫だからである。司祭は人々に、そこにおける大祭司はイエズス・キリストご自身であるということに気づかせなければならない。そしてこの理由によって、人々の尊敬を自分に引き寄せなければならないのである。彼は、自分の全生涯を通して、創造主がどれほど偉大な尊厳をお示しになっているかを、捲まず撓まず思い起こさなければならない。そして彼は、我々にはそれを崇拝する義務があり、その命ずるところを生きる義務があることを、信じなければならない。

これらのことは、人の人生の最も初期の頃から教えられるべきことである。子供たちは、たとえ非常に幼い者でも、次のような仕方で教会の中に導かれるべきである。即ち、御聖櫃の前を横切る時には、最も深い信心をもって片膝をつく習慣を持つべきである。彼らは、その至聖なる秘跡を崇敬するために、次のような祈りを唱えることによって助けられなければならない。「祭壇の至聖なる秘跡は、称えられ、崇められますように」。その時、子供たちは、自分が天の御稜威といと高き所におられる至聖なる三位一体の偉大さを賛美することを助けて頂けるようにと、聖なる天使たちに祈ることをも勧められなければならない。

もし教会というものが、至聖なる三位一体に目を上げることがもはやできないならば、何のためにそこに建っているのか? もし教会というものが、天主というものはあらゆる意味で人間を超えたものであると打ち出すこと、あるいは至聖なる三位一体の崇高さを指差すこと、あるいは天の全能の神をお喜ばせすることが絶対に重要なことであるということを思い出させることなどを、もはやしないならば、何のためにそこに建っているのか? もし司祭たちがそのようなことをもはやしないとしたら、その時子供の両親たちは、少なくとも自分たちの子供たちに関しては、そのようにしなければならない。人は、天主とは崇拝されなければならない存在である、ということを知らしめることを、決してやめてはならない。たとえ自分の周り全ての人たちの霊魂が、非常に悪く、非常に悲惨な状態であったとしてもである。

次のことが知らされなければならない。即ち、苦しみが来た時、天主がその困難から私たちを救い上げるための方法をご存知であるというその勝利に対して、感謝することが必要である。我々は、彼が我々を善くするため、また我々を善徳の道に導くためにお送りになった苦しみに対して、膝を折って天主に感謝しなければならない。困難と苦しみから逃げる人たちは、必然的に善徳を失う。過去の時代においては、司祭という職務の極致を極めた者たちが常にいたものである。しかし我々の時代においても、同じような生き方をしている司祭たちが何人かはいるのである。彼らは非常に謙遜に生きている。彼らは、心の中に主の平和を持っているが故に、地上のあらゆるものを凌駕している。「人はたとえ全世界を手に入れても、自分の霊魂を失うことになるならば、何の益があるだろうか?」[43] 。私、ヴェルディ・ガランデューは、我々の時代はこの主題に関して非常に悪い理解しか持っていない、と言わずにはいられない。

その上、贅沢とこの世の快楽のうちに生活している人々は、彼らの霊魂を失う大きな危険のうちにある。フリーメーソン風の思いやりは腐った臭いがするものである。それは真の隣人愛でなく見せかけから来ているものであるが故に、非常に多くの人々にとって霊魂の滅びとなる。もし彼ら(司祭たち)が、自分たちが信者たちをどのような破滅の中に沈ませているかを知ったならば、そのような語り方からは急いで離れ去り、全く違った仕方で話すようになるであろう。

人は他者を物質的にも助けなければならないということは明らかな真理である。特に、その人々が非常に惨めな状態に苦しんでいれば尚更である。しかしながらそれでも、それは主要なことではない。主要なことは、護らなければならない教義に対する信仰をそのままに保持するということである。そして、自分の霊魂を売らないということである。隣人愛を実践するということは、本来、隣人を天主へ向かう真っ直ぐの道に案内するということである。ああ! 如何に多くの司祭たちが、彼らの司教たちや枢機卿たちの指示によって、隣人愛を実践する間違った方法 [44] を教会に押し付けてしまったことだろう! 彼らはそのようにすることによって、この善徳のいわば形状を変えてしまったのである。しかしそれは、天主がそうであるようにとお定めになったものとは全く違うものである。何故なら、真の隣人愛は、隣人の霊魂への配慮なしには決して生じないからである。また、この真理を伝えることによってたとえ人が苦しんでも、この真理を人に示すことは、やはり隣人愛の実践になるからである。後にはその人も、それは全く正しい処方であったと理解する [45] ようになるであろう。

司祭は、説教壇の高みから、彼自身の言葉によって、指揮杖と極めて断固たる言葉を使わなければならない。何故なら、正義は永遠に存在するからである。そして何故なら、彼らがもはやそれを信じず、それ故それについて語ることが決してなかったとしても、地獄はなお存在するからである。彼らは、天国についてさえ、それが最高の現実であるとはもはや信じていない。もし、彼らがそれを信じるならば、彼らが天国に導かなければならない人々、何千という人々を、誤りの中には導かないことだろう。

今日、我々は、どのような司祭たちに直面しているだろうか? 私自身は、自分が地上にあった時、今日の彼らほど低劣な話し方はしなかったのである。彼らは滅びに向かって走っている。そして地獄では、彼らの場所が既に準備されているのだ。〔悪霊はこの最後の言葉を大声で言う〕

しかし、私が今言っていることは、枢機卿たち、司教たち、司祭たち、そして平信徒たちに、全く等しく向けられているものである。もし、それら全ての人々が、彼らが巻き込まれている混沌とした状況を認識したなら、彼らは千回も、いや、千の千倍回も、「mea culpa(我が過ちなり)」を繰り返すことだろう。その時彼らは、自分の首筋を掴んでは、自分の霊魂を喰い散らかしているそれらの虫たちを引き剥がすことであろう。彼らは、その虫たちが至る所に広がらないように、それらを引き剥がすのをやめないであろう。彼らは、霊魂たちの中でそのように酷い破壊行為をしているそれら寄生虫たちを駆除するために、赤熱したペンチを使うべきである。そして即座に、彼らは愛の第一の掟を実践すべきである。そしてその後に、然るべき隣人愛を実践すべきである。

真の愛はただ才能によってのみ証拠づけられるものではない。何故なら、同じこれらの才能によって、人々はなお隣人を地獄への道の上に置いておくこともできるからである。これが、私が言うことを余儀なくされたことであり、また、私がこのように長い間、自分の名を明かすことを拒否して来た理由を説明するところのものである。天の方々〔上を指差す〕は、私にこれを語ることを強いた。それは、私が私自身、その運命を生きて来たからである。即ち、私は私自身、私がそうすべきであったようには、私の司祭職を遂行しなかったからである。

天主の十戒における第六戒 [46] について、私は、これが贅沢の罪 [47] と並んで多くの司祭たちにとって滅びの道となった、ということを言わねばならない。もし司祭たちが、この巨大な悲劇を認識することができたなら、その時、自分の血の最後の一滴に至るまで、自分自身を生け贄として捧げるであろう。その時彼らは、今まで起きていたあらゆることに対して巨大な悲しみを感じ、自分の道を全くゼロからやり直すことであろう。そして、自分が真の道を再び見出すことができるよう助けてくれるようにと、聖人たちと天使たちに祈るであろう。何故なら、永遠の地獄において、その火は絶えることなく、うじ虫どもはお前たちの霊魂を永遠に喰い散らかすからである。地獄におけるこの巨大な苦しみ、この恐ろしい悲劇は、永遠に続くのである。私、ヴェルディ・ガランデューは、これらのことを言うようにと強いられている。

原註

[32] 「女性との習慣的な接触」から生じることについて、悪霊は言ったばかりである。

[33] ジャン・マーティはここで使われているフランス語の「se parer」という言葉を「何であれ何らかの危険に対して予防措置を取ること」(ラルース辞典)と説明している。

[34] この天使からの助力は、それを利用するかどうかは私たちの自由裁量に任された形で神によって永久的に置かれたものだが、もし私たちの闘いというものが、原罪で損なわれた哀れな人性が持つ罪の傾向に対抗する日々の闘い、また、私たちの情欲によって絶えず混乱状態にある日々の闘いの範囲を越えたところで、「血肉を持った存在に対するもの」ではなく、「支配の霊や権威の霊に対するもの、いわば、この闇の世界の権力者たちに対するものであり、天の者たちの間にいる、邪悪な霊的存在に対してのもの」(エフェソ 6:12)であるならば、(天使の助力を得ることは)極めて重要なことである。

[35] また、もし目があなたに罪を犯させるならば、それを抜き取りなさい。片目で神の国に入るほうが、両眼がそろったままで地獄の中に投げ入れられるよりはましである。地獄にはうじがつきず、火も消えることがない。(マルコ 9:47-48)

[36] (追加的注釈) 即ち、時代遅れの、古い、現代人と異なる!

[37] 「苦しみは神からの偉大な贈り物であり、偉大な恵みです... それは、天使たちがあなたを羨む唯一のものなのです。もし彼らが何かを羨むことができるならの話ですが」(Mechtilde Thaller に対して、彼女の守護天使が言った言葉。 -『The Angels(Les Anges)』より)

[38] 「私はその時、自分に勇気というものが如何に欠けていたか、そして、苦しみが終わることを望んだことが如何に間違ったことであったかを理解した」-「私は、イエズスがどれほど口では言い表わせないほどの熱情をもって苦しむことをお望みになったかを理解した。そして、一つの霊魂が神の御旨に従って忍耐強く苦しむ時、どれほど神の愛と恵みの中に住み始めるようになるかを理解した」(M. Thaller - 上と同じ書物から)

[39] 「あなたに近いものを、自分と同じく愛せよ」。この掟はまず旧約聖書の中で、神御自身がモーゼを通してお命じになったものである(レビ記 19-18)。そして新約聖書の中で再び我らの主によって命ぜられた。そして後に、福音史家や使徒たちその他によって再び引用され、伝えられ、語られたものである。

[40] 自然的なあらゆるものは超自然的なものの僕である。明らかに、ここにおいて問題とされているのは心理学である。あの精神分析と言われる、霊魂への紛れもない違反、告解の秘跡の冒涜的で悪霊的な真似事のことではない。

[護教の盾管理人]分かる気がする。精神分析家たちあるいは精神療法家たちは、大方は「罪」そのものよりも「罪悪感」に焦点を当てているのであり、彼らの思想にとって「罪」は相対的なもの、流動物のようなものであり、その存在感は希薄である。そして彼らはいつも霊魂たちに罪に関して本当ではない思想を吹き込み、且つ様々なメソッドを使って、正しくない形で解放と平安を与えている... とも言えるのではないか。

[41] 「わたしの後に従いたい者は、おのれを捨て、自分の十字架をになって、わたしに従いなさい」(マルコ 8-34)

[42] 自己放棄と犠牲の道は容易なものではない。

[43] 「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったならば、なんの益になろうか。また、人は自分の命を買いもどすために、何を支払えばいいのか」(マタイ 16:26)

[44] 悪霊ヴェルディ・ガランデューが初めの方で述べた間違った方法のこと。

[45] もしその人が光を受け入れれば、ではあるが。

[46] 天主の第六戒:「汝、姦淫するなかれ」

[47] 贅沢を好む精神は、怠惰な精神、慎みの欠如、自由と放縦の精神でもある。

管理人註

[管8] 「パパ」としておきましたが、英文では「sugar daddy」です。sugar daddy:〔俗語〕若い愛人の女性に気前よく金品を貢ぐ金持ちの中年男、「パパ」、「おじさま」。

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