1976年3月30日(後半)
E = エクソシスト
B = ベルゼブブ。熾天使の階級から落ちた堕天使
キリストの御受難
B: 我々はあまり多くは見なかった。全然見たいと思わなかった。我々は怒りと憤怒で矢のように飛びまわってはお互いを傷つけ合った。〔叫ぶ〕 もちろん何が起こっているかはわかっていた。今ではもっとよくわかっている。しかし、あのエンメリックという女には、ありのままに示されたのだ。例えば、イエズス・キリストがオリーブの園で、皆が想像だけで思い込んでいるのとは桁違いに、酷く苦しんだことを彼女は見た。
キリストは、彼のそれまでの人生においてもたびたび苦悶のうちに血の汗を流した。そしてオリーブの園でも、我々悪霊は彼を酷く痛めつけた。彼は、我々が束になって襲いかかって来るのを見た。我々の外見は、人間が将来犯す罪を表わしていた。それは、天主の御子にこの恐ろしい光景を見せて、彼からこの受難を耐え忍ぶ勇気を奪い取るためだった。彼は、とてもロでは言えぬ身の毛もよだつほどの恐ろしい光景を見、その汗腺からは血の汗がにじみ出た。この途方もない魂の暗闇と恐怖に直面して、キリストは、この受難もこれほどまでに巨大な罪を拭い贖うためには十分ではないだろうと考えた [92] 。それは、この受難は決して単に一人の人間のためのものではなかったし、また知っての通り彼は天主でもあったのだが、しかし正にこの時点においては、彼は自分を単なる人間であると感じたからである。
この苦しみの激しさに身震いして、彼は撤退することを望んだ。その時、彼に力を与えるためのカリスを持った天使が現われた。しかし実際には、このカリスは彼の苦しみの受諾を意味するだけのものだった。カリスを飲むことによってキリストは受難を受諾し〔ため息をつく〕、最後の一滴までカリスを飲み干す決意を固めたのだ。〔泣き叫ぶ〕 そのおかげで、お前達、被造物は、クズのくせに、いつの日か我々には閉ざされている天国を見ることができるのだ。〔激怒〕
その後、キリストは酷く鞭打たれた。この鞭打ちで彼の肉は裂け、骨は露出するほどだった。十字架につけられた時には、彼の髪は元の半分も残っていなかった。ほとんど全部が引き抜かれてしまったが、しかし彼はこれをも受け入れた。
彼はとても美しい容姿をしていて、また健脚であった。よく歩いたので足の皮膚は堅く、たこができていた。彼の手は骨がとても華奢で、あの恐ろしい十字架を荷なうにはあまりに華奢だった。〔叫ぶ〕
もし我々が、彼のしたたり落ちる血を味わったとしたら、もし我々が、その血の千分の一でも経験できたとしたら、その時には彼を永遠に崇敬しただろう。〔泣く〕 しかし彼はもう我々にそんなことは許さない。我々には遅過ぎるのだ。〔ため息をつく〕
それから、十字架上では、つまり彼が十字架につけられた時、それはお前達のためだったのだ。それが人間達のためにされたので、地獄の怒りは爆発した。彼が十字架につけられた時、既にアカボルが言ったように、彼は虫けらのようだった。もうお前達にとっては人間とは言えない程にまで痛めつけられていた。何故、彼はお前達のためにそこまでのことをしたのか? 我々のためには同じことはしなかっただろう。〔胸を引き裂くような叫び声をあげる〕 そこには、もはや人間とは言えない虫けらのようなキリストが、全ての物事に押し潰されていた。〔泣く〕
それはあたかも、彼が人間の罪を全部引き受けたかのようだった。罪人の中でも最悪の者であるかのように思われた。彼は父なる天主に見捨てられ、拒絶されたと思った。死刑執行人達はそれまでに彼に数えきれない程の殴打を加えていた。彼らは彼の肉体を裂けるまで打ちすえ、その血の海の中に倒れた彼を放置した。〔うなり声〕 彼はお前達のためにそこまでしたのだ! 我々はどうしてそれを阻止できなかったのだ?〔泣く〕
天主自身がお前達のためにそれほどのことをしたのなら、お前達はこれ以上の多くの人間が地獄行きにならないように、お互いのためにどれほど多くの償いをしなければならぬことか! 天主であり、一つの罪もなかった者が、これほどの計り知れぬこと、人間なら誰一人として成し遂げられぬことをし、あの残忍極まる拷問を受けたのだから、お前達は生涯、殉教の斧の下にいるような気持ちで過ごすべきである。これは実行できない要求ではない。お前達が受ける報いでしかない。しかし人間達はそれを理解していない。自分達の主人があれほどの恐ろしい地獄の拷問を耐え忍び、十字架と善き模範を荷ないつつ自分達の前を通り過ぎても、自分達は楽しい人生を手にする筈だと思っている
彼が耐え忍んたのは地獄の拷問であったが、長く続いたわけではない。我々自身、彼には感嘆している。あれをお前達のために成し遂げたことには激怒しているものの、彼には感心している。まさか、彼がこんなクズ(のような人間ども)のために、あれほどの試練を受け入れるとは思いも寄らなかった。充分予知はしていたが、あんな偉大な方法を取るとは想像もつかなかった。
これら全てに加えて言わねばならないのは、信者達は特に四旬節の間、キリストである主イエズスと共に罪の償いをするべきであることを、説教壇から声を大にして言う必要がある、ということである。イエズスは、他の誰もができなかったほどの四十日間の断食をした... 彼も空腹で非常な苦しみを味わった...
E: 至聖三位の聖名によりて、且つ至聖なる汚れなき天主の御母聖マリアの命令によって、続けて真実を語れ。福いなる童貞が我々に話そうと望んでおられることを話せ。大天使聖ミカエル、聖ラファエル、聖ガブリエル、そして全ての階級の天使達と、天の全ての聖人達の聖名によりて!
十字架とミサのいけにえは天国の扉を開く
B: ... 彼はその四十日間によって、公生活のため、また彼の偉大な犠牲のために自分を準備したのだ。彼は、その犠牲が全世界と同じほど大きなもので、その効果は世界中に及ぶものであることを知っていた。それは、天主である彼が罪に起因する罪悪を贖い、お前達が天主を永遠に見ることができるように、全能の父に捧げなければならない犠牲だった。
もし彼の受難がなかったなら、お前達は、今でもそれを見ることができたと仮定して、全くもってせいぜい楽園(エデンの園)を見ることだできただけだろう。また、ミサの聖なる犠牲によって与えられる恩寵に与ることもないから、もっと多くの人間達が地獄に堕ちたことだろう。ミサの無流血の十字架の犠牲からは計り知れぬ恩寵が流れ出して来るが、その恩寵はキリストの血がそこで再び新たに流されることによって来るのである。
下のあそこ〔下を指差す〕にいる我々は、多くの教会で毎日捧げられるこのいけにえを憎んでいる。天主の家の多くでは、もはやミサが正しく執り行なわれていないというのは本当である。以前、古いやり方でミサの犠牲が捧げられていた頃は、我々にとっては正に気も狂わんばかりだった。それは、この十字架上のキリストの犠牲の更新が、それがなければ何千という単位で失われ我々に加わる筈であった霊魂達の救済のために、実際にその罪を一掃し、素晴らしい恵みを与えるからである。
私は再びこれを言わなければならない。お前達は私に語ることを強いている。〔ため息〕 私は何も話すつもりはない。私はもうこれ以上話したくない。
E: 至聖なる三位一体、最も福いなる童貞、天主の御母、汚れなき御孕りの聖マリアの聖名によりて、大天使聖ミカエル、及び全ての聖なる大天使達の聖名によりて、教会の守護者聖ヨゼフの聖名によりて、そしてカタリナ・エンメリックの聖名によりて、福いなる童貞がお前に命令されることを語るのだ!
B: 私はそれを言いたくない。私にはもうこれ以上話す権利はない。もし私が話さなければならないとしたら、お前達はもう一度、短い悪霊祓いの祈りを唱えなければならない。ルシファーはこのことで激怒している。ルシファーは私を絞め殺そうと考えている。話すべきではない。これ以上話そうものなら、地獄へ戻った時にルシファーに首を絞められてしまう。
E:〔悪霊祓いの祈りが唱えられた後〕福いなる童貞の命令によって、ルシファーはお前にそんなことをする権利はない。何故なら、お前は教会に代わって話したからだ。ルシファーには再びお前に危害を加える権利はない!
B: 私は偉大な天使だった。威厳においては二番目だった。それでルシファーはあんなに怒ってこう言っているのだ。「お前はそれほど偉大なのだから、あんな愚かなことを話すべきでないことを知らねばならない。もっと自己統制をせよ」。彼が言おうとしているのはそれだ。〔歯が激しくガチガチと鳴る〕 私は昔、天使が堕ちた時にその場に居合わせたので、彼女〔上を指差す〕は私に話をするように命じたのだ。私は二番目に重要な天使だった。それで、彼女がこの「不快極まりない仕事」について話すように命じるのは、この私になのだ。彼女は、下の方にいる我々に指図する力を常に持っている。〔猛烈なうなり声〕
E: ベルゼブブ、彼女の命令によって、お前は今、話さなければならない、真実のみを!
堕天使の名前について
B: まだ言わねばならないことがある。この告白記録を書くにあたっては、お前達は私の名前を出さなければならない。私の名前を明記するのだ。他の悪霊についても同様だ。誰が語ったのかをはっきりさせなければならない。我々が話す時に、まず名乗っているのは、理由がないわけではないのだ。何故だと思うか?
E: ベルゼブブ、福いなる童貞に代わりて、語れ!
B: 彼女は我々が名乗ることを許した ... 誰が話すかを。そしてお前達に、誰が語ったかを知って欲しいと思っている。特に重要な話題に関しては、彼女は、どの悪霊を選び、どの悪霊が話すことになるかを知らせたい...
E: ベルゼブブ。さあ、話せ、聖名によりて ... !
B: ... 私が有名だという理由だけで、私の名前を出すことが必須となるのだ。
E: 福いなる童貞、天主の母聖マリア、大天使聖ミカエル、全ての階級の聖なる天使達、教会の守護者聖ヨゼフ、天の全ての聖人達、そしてカタリナ・エンメリックの聖名によりて、お前は今、話さなければならない、真実のみを!
人間の愚かさ
B: ヴェローバは以前、一九七六年一月十二日に大警告と大災害について語った。その時、このことを小さな本 [94] にして出版すべきである、とも言った。また、何故大警告が未だに来ないのか、何故祈ることが逆説的であるかも語った。お前達人間には何の値打ちもない。〔邪悪な喜びで笑う〕 お前達は今も取るに足らぬ者達であり、また将来においても同じである。同じことを何度も何度も言われなければならないロバと同じだ。お前達が持っているのはハエの脳みそか? あるいは “ざる頭” なのか?
もし上のあそこの彼〔上を指差す〕が存在していなかったとしたら、お前達の骨格は全部バラバラになるだろう。お前達の肉体を毎秒支えているのは彼だけであり、彼がいなければお前達はただのボロキレかガラクタに過ぎない。だから何故、教師や博士など、どれくらい大勢いるのか知らないが、彼らがあれほど気狂いじみた仮説を出してくるのか、虫けらに食い尽くされるクズでしかないくせに、一体どういう訳であんな大した仮説を立てられるのか、下の方にいる我々にさえ理解できない!
E: ベルゼブブよ、続けよ。至聖なる三位一体、福いなる童貞、天主の御母聖マリアの汚れなき御孕り、大天使聖ミカエル、全ての天使と大天使、祝せられし天使の九階級、そして天の全ての聖人達の聖名と命令によって!
B: この仮説に関してだが、彼女はもう一つ次のことをつけ加えるように望んでいる。この仮説は人間が自らを高く上げようとするもので、全く不適切であると彼女は考えている。仮説を立てる者達は、天主の御眼には忌み嫌われるものである。完全なる謙遜の心で生きた彼女は、それを全く不適切と考えている。
彼女は自身の冠を高くかかげ、王笏を見せびらかすこともできた筈だ。そうする理由も充分過ぎる程あった。しかし実際にそんなことをしたか? とにかく絶対にそうはしなかった。その結果、聖書の言葉通り、彼女は高く上げられたのだ。イエズスが言った通りだ。「誰でも自ら高ぶる者は下げられ、自ら謙る者は上げられる」 [ルカ 14:11] この言葉の意味するところは、誰でも自ら高ぶる者は結局、尋常でなく下げられる、つまり少し下げられるのではなく、測り知れぬほど下に下げられる、ということだ
我々の言っていることがわかるか? 自ら高ぶる者は、高ぶった分だけ下げられるのではなくて、その何百万倍、否、もっと下まで下げられるということだ。しかし、たとえ地位が如何に高くとも、自ら謙る者は、宴会のたとえ話のところでイエズスが言ったように──我々はよく知っている、知っているのだ!〔強調して指を波形に動かす〕──「末席につくと、宴会の主人が来て『上席について下きい』と言うだろう」 [ルカ 14:7-11] ... つまり、自ら謙る者はこのように、謙った分だけ高く上げられるのではなく、その何百万倍も高く上げられ... それは永遠にわたってそのように扱われるのだ。
言っておくが、地上において自ら高ぶることは逆説であり、且つ愚の骨頂である。何故こんなことを言わねばならないかといえば、それが天主の忌み嫌うことだからだ。もし人間達が自分のやっていることを知ったら、自分自身に対してぞっとすることだろう。〔邪悪な喜びで笑う〕
E: ベルゼブブよ、御父の聖名によりて ... 汚れなきお方、最も福いなる童貞にして天主の御母である聖マリア、大天使聖ミカエル、祝せられし九階級の天使達、天の全ての聖人達、聖なる祓魔師達、そしてカタリナ・エンメリックの聖名によりて、お前は今話さなければならない。福いなる童貞の命令によって!
基礎的な徳としての謙遜
B: もし聖母がご自身を最後尾、たとえば彼女の荘厳さを十二分に悟っていた聖ヨゼフの下に置いていなかったならば、また、もし彼女があれほど謙遜でなかったならば、今日、決して、絶対に、彼女は教会および世界の上にこれほどの権能を持つことはなかっただろう。もし彼女が初めにそのような模範を示すことのない者だったならば、お前達は今、このような母親、お前達のために何でもし、彼女が今汲むことのできることになっているところからお前達のために言葉に尽くせぬほどの恩寵を汲んで来るそのような母親を、彼女の中に見出すことはなかっただろう。
彼女は、あらゆる徳のあらゆる局面において、正に英雄的な最終的な水準に至るまで、謙遜を実残した。もし彼女がこれらの徳、わけてもこの忌々しい謙遜の徳を実践しなかったとしたら、我々はたとえ嫌々ながらではあっても、とにかく彼女のそばにまとわりつくことができただろう。そうすれば我々は、他に何があろうと、再び成功を収めることができただろう。悪霊が勝っただろう!〔にがにがしく思って叫ぶ〕
E: ベルゼブブよ、至聖三位の聖名によりて続けよ!
B: 人間にとっても同様である。それは火を見るより明らかである。人間が謙遜に振る舞わない時、あらゆる邪悪さがそれに付随するものだ。人間が自分の知恵を誇る時、我々は直ぐにその人間を支配できる。人間は長い間、あまり賢明ではなかった。長い間、その脳ミソは小バエの脳ミソぐらいだった。自分が賢いと思い込み、また少しだけ得意になったとしても、上の方におられるあの女性〔上を指差す〕の心の中では、彼は即、堕ちるのだ。しかし、私はそのことは言いたくない。よくわかっているのだ。何故なら、それは我々に起こったことだからである。如何にして我々が堕ちたか、何千回も何千回も... ああ、忌々しい... そして、それからまた更に堕ちたのだ!〔打ちひしがれたように吠える〕
E: 続けよ、ベルゼブブ、聖名によりて ... !
B: これが、お前達司祭が説教壇から原罪について、自尊心について話さなければならない理由である。お前達は、謙遜の徳を教え広めるために最大限の努力をしなければならない。この神聖なる完徳を極致にまで実践した聖人達、例えばカタリナ・エンメリック、その他何千もの聖人達、幼きイエズスの聖テレジアについて語らねばならない。
聖ジャン・マリー・ヴィアンネーについて説教しなければならない。彼は一時、十五日間、ジャガイモだけで生きた。その間、酸っぱくてカビ臭いジャガイモを食べていたのだ。〔ため息〕 彼のために置いてあったベッドに入ろうともしなかった。快適過ぎるとわかったからである。
我々はこの種の人間には何もできない。つまり、自分自身のことにはあまりに無頓着で、快適なベッドで眠ることさえ望まず、且つそのことを「見よ、私は快適なベッドを使わない。私は信心深い。私は寝心地のよくないベッドを使っている」と言って他人に知らせようともしない人間達だ。彼らは人に知られないようにそれを実行する。ジャン・マリー・ヴィアンネーは、自分が普通の食生活をしていないということを常に隠していた。彼は真の謙遜を身につけていたのだ。
カタリナ・エンメリックも同様だ。彼女は自分がどれほど重病であったかを表に出したがらなかったし、また自分の身体に受けたものを見せたがらなかった [97] 。唯一、人が来て、「しかし彼女はあれでは可哀想だ。何とかしなければ」と言った場合には、彼女は体を動かしてもらっていたが、その時は、それが絶対に必要となっていたのである。そして、そんなふうになってもなお、極貧の状態にとどまることを望んでいた。彼女はよくぼろベッドに半分死んだように横たわっていた。彼女は常に、隠遁生活を送りたい、と思っていた。そういう訳で、小鳥はいつも彼女の肩に止まりに来ていた。
聖人達はたくさんの愛を受ける。普通の聖人でもそうであるから、謙遜な聖人はなおさらである。彼らは上の方のあそこでは非常に深く愛されている。彼らは天国へ向けてすごい速度で上ってゆくが、他の者らはそこへ通じる道を一歩一歩、非常に骨折ってよじ登ってゆくのである。
他の何にも増して、まず謙遜の徳について、もう一度説教壇から教えなければならない。他のことは後回しで充分である。それから次に、純潔の徳について。今の時代にうってつけだ。〔苦しそうな息づかいをする〕 そして真実 [98] 、それから、その他諸々についてだ。それらの徳によってどこへ導かれるかを話し、例を挙げなければならない
E: ルシファー、お前は立ち去れ。ベルゼブブ、お前は、福いなる童貞に代わりて、至聖なる三位一体... いと福いなるる童貞、天主の御母聖マリア、及び大天使聖ミカエルの聖名によりて話さなければならない!
B: 何よりもまず第一に、高慢が悪であることを公然と訴えなければならない。謙遜の徳は特大文字で書かれるべきだ、と言わなければならない。それから勿論、次には怒り、盗み、その他のことが来る。お前達は常に、聖人達の生活の中の生き生きした、確実な、そして真実と認められた実例や比較や模範を引用しながら話さなければならない。〔恐ろしい叫び声をあげる〕 もう、私を放っておいてくれ!
E: 続けよ、ベルゼブブ、御父の ... 汚れなき、福いなる童貞、天主の御母聖マリアの聖名によりて続けるのだ... (ここでベルゼブブが遮る)
B: お前達が行なっていることは正しい。正しいのだが、もっと執拗に行なうべきである。もっとしつこく、罪がもたらす破壊的な効果を指摘しなければならない。特に四旬節の間、罪の重大性を強調しなければならない。それはどれほど想像力を逞しくしても及ばないものである。罪の結果は何であるかをはっきりと知らせよ。それはお前達が描写できる恐ろしさを遥かに超えるものである。お前達は罪を描写しなければならない。そしてその結果が何であるかを明確に説明するべく努力すべきである。お前はもう全て理解しただろうが、他の司祭らも同様に理解しなければならない。というのも、他の司祭らも同様に理解する義務があるにも拘わらず、彼らが理解しないならば、大損害を与えることになるからであり、自分自身および彼らに従っている者からも、多くの恩寵を奪うことになるからだ。結果として、彼らに従っている信者全員が苦しむことになり、当然受けるべき恩寵が受けられなくなる。
E: ベルゼブブ、福いなる童貞に代わりて、聖名によりて話せ... 真実のみを話すのだ!
B: これらの徳に関しては、私はもう一度、この不快極まりない古い本、つまりトマス・ア・ケンピス著 [99] の『キリストにならいて』について話さなければならない。下の方にいる我々はこの本を非常に恐れている。この極悪非道の古い本は〔犬のようにくんくんと泣く〕普及させ、読まれるべきものである。どのカトリック信者の家庭にも欠かすべきではない。読まれるべき本である。
最善の方法は、毎晩各章を読み、自分の生活をそれに沿うよう努力することである。できる限り、旧版で、要約版でない『キリストにならいて』を読むべきである。最近の版の中には、すでに何箇所か変えてあるものが見受けられる。まあ、彼らは常に物事を変えてはいるが [100] 。だからお前達は旧版を探し出さなければならない。もし充分な数量がなければ、再版すべきである。
とにかく、お前達は『キリストにならいて』について説教をし、それを使ってテーマを選び出し、信者の心の奥深くに説き聞かせなければならない。『キリストにならいて』は純粋な麦であって、もみ殻ではない。それは天からのものである。天が望み、お前達に推奨しているものである。それは、この本がお前達に具体的な形でキリストの十字架をはっきりと示し、キリストの十字架にどのように倣うかを教えているからではないだろうか。そのように具体的に教えられることで、人間はキリストがどのように苦しんだかを知り、またキリストに従いつつ一歩でも一インチでも前進しようと思うならば、自分はどのようにして彼を模倣すべきか、ということを学ぶのである。そしてまた、たとえそのようにしてもなお、彼らは聖人になる迄にはまだまだ程遠く、自分のとても小さな考えから抜け出し難いものである。このことをお前達は必ず言わねばならないのだ。
何千もの、あるいは何百万もの信者が、自分はあれもした、これもした、だから善き信者だ、と信じている。しかし、そういうのは全くもって程遠い話である。彼らが善き信者となれるのは、自分はまだまだ未熟で、すべきことをほとんど何もしておらず、もっとたくさん行なうことができる筈だ、と考える時だけである。自分は取るに足らぬ者であると考え、キリストのためにできることなら何でも行なってこそ、初めて善き信者となれるのである。
聖母に見る女性の義務
B: 福いなる童貞は言っている。「私自身いつも謙遜の心で、天主のご栄光のため、またひとえにキリストに仕えるために家事の務めを果していたのですから、誰でも自分の仕事や義務を果しているからといって高慢になってはいけません。」
彼女はいつもキリストのそばに付き従いたいと思っていたが、キリストが公生活を始めた時にはその場に居合わせることさえ控えたのである。彼女は御子を非常に愛していたので、キリストが彼女のもとを離れることは最も辛く悲しいことだった。それはあたかも、キリストが彼女御自身の一部であるかのごとく御子に密着していたとも言える。彼女は、兄が妹に、父が母に結ばれている以上に、堅く御子に結ばれていた。御子と一緒に居られる時だけ満足だった。しかし彼女は自分を表に出さずに、家に留まっていたのである。それから後は、たまにしか御子に会わなくなった。
この振る舞いによって披女は、人々もそこから謙遜になることを学び取るように、模範を示したのである。いったい彼女は祭壇で、ミサで主要な役職に就いただろうか? 最も高く挙げられた全宇宙的な被造物であるにも拘わらず、彼女は常に背景に身を置いていた。彼女は全ての司祭、修道者達をひとまとめにしたより、なお高い所にいる! 彼女は教会を導き、印となり、偉大な印となり、救い主の母となるために天主に選ばれた最も偉大な者である。天使達の元后でもある。しかし、人間達は全員知るべきである。以上のことにも拘わらず、彼女は家に引きこもって生活していたのである。
公的な職場、たとえば政府の顧問であるとか、科学博士として働くことは、女性には相応しくない。悪霊としては、彼女らを何と呼ぶべきか。そのように人目につくことは良くないし、その上、主婦としての務めを軽視することも良くない。
女性の博士については、彼女の輝かしく、且つ素晴らしい講演がマイクを通して伝えられ、全ての新聞記者がそれを書き留め、全ての新聞に載ったところで、やはり天主に仕える主婦と、彼女の心に満たされた家族のいる最も低く最も謙遜な仕事場の方が、遥かに重要性を持っている。日々の十字架を忍び、子供を正しく育て、子供が自分のもとに来る時には「来なさい」と言える母親に比べれば、表立ったそういった女性は、上のあそこでは何の価値もない。
あらゆることに忍耐強く、謙遜に自分の仕事をこなし、子供を愛し、守り、養育し、服を着せる女性は、天の国の三人組野郎 [101] の目には、出世を望む女性に比べれば、ずっと高い所に置くべきものなのだ。ここでも、この言葉が当てはまる。「謙遜な女性は高く上げられ、自分を高くする女性はだれでも矢のように飛ばされるであろう」。女性が家事の務めを疎んじて、名誉を追い求めている間は、まず謙遜にはなれないであろう。高く上げられたい、と望む女性は皆、天では下位に置かれ、謙遜に生きる者は皆、正しい道を歩んでいる。彼女達は、自ら光り輝こうとする女性に比べれば、ずっと多くの恩寵を自分の家族のため、他の人達のために受けるのである。
しかし、同時に高慢の産物である堕胎が行なわれている。女性は、子供を育てる役目、つまり雌鶏のようになりたくないと思っている。「大した者」になりたいし、そう見られたいと望んでいるのだ。多くの子供達が堕胎で死んでゆく原因の一つは、これである。いつの世にも、大きな困難に突き当たり、言葉や行動によって助けを必要としている母親達がいる。たとえ困難な事情があろうとも、出産して子供を正しく養育しなければならない。そうすれば、その報いとして祝福を受けるだろう。
E: 至聖なる三位一体、聖父と …の聖名によりて!
B: もし、女性が夫においしい料理を作るために台所にいたならば、今のように多くの離婚はなかっただろう。女性がもっと家事をこなし、夫にとってより快適な家庭を作れば、不和や別居はもっと少なかっただろう。
男女が結婚もせずに同棲を続ける、そんなことがなければ、犠牲の精紳を授かる伴侶はもっと大勢いる筈だし、また家庭の崩壊もずっと少くなるだろう。男女の自由な結びつき(同棲)の中では、彼らは犠牲とは何であるかを忘れてしまっており、自己否定とは如何にして実践するものであるかを知らない。これでどうして家庭の基盤を作れると思うのか? 彼らの目には結婚とは、あまりに多くの犠牲と不自由を要求されるものと映る。しかし結婚とはそういうものであり、そうして前進してゆくものであり、将来においても常にそうである。
長い間同棲生活をし、誰かれと一緒に住む家を決めている者で、その後正式に結婚する者は僅かしかいないだろう。それは誰でも、こういうふうに長い間暮らしてしまうと、男も女も自分をまっとうな道に戻すことが困難になるからである。たとえこの種の人間が生き方を変えようとしても、あちらからこちらへとふらふらしたりせずまっとうに生きてきた人間に比べると、よい道を選び出して満足のいく結果を得るのは酷く難しい。
E: 聖名によりて ... 真実を語れ! 福いなる童貞がお前に命令されることだけを、真実のみを語れ!
善き読書と聖画
B: 私はまだこれを繰り返すことを強いられる。『主イエズスの苦しみの受難 』 [邦題:キリストのご受難を幻に見て] を含め、天においては尊ぶべき「聖人」であるカタリナ・エンメリックの本、及びアグレダのマリアの本、そしてトマス・ア・ケンピスの小さな本『キリストに倣いて』等は、この上もなく貴重である。〔うめき声を出す〕 私はそれを言いたくない。
E: 聖名によりて ... 真実を語れ!
B: それらの本は広く読まれるべきである。そして説教のテーマはそれらの本の中から選び出されるべきである。その中には今日の混乱した世界にとって、また現代の信者にとって、非常に重要な考え方が書いてあるのだ。
E: 真実を語れ、ベルゼブブよ。聖父と聖子と聖霊、汚れなき御孕り、大天使聖ミカエルの聖名によりて、白状するのだ! ルシファーには、お前の告白を妨げる権利はない!
B: もう一つ、祈祷文の付いたあの腐った絵が如何に価値あるものであるかを話さねばならない。私はかつて、これを無理やり言わされたことがある。お前達はこのことを、説教壇の高い所から宣言しなければならない。またこの「小さな本」の中にも書き留めておくべきことである。約束の付いた聖画には特に偉大な価値がある。お前達は、敬虔な人々のために作られたこれらの約束を皆に知らせなければならない。このことを知らない信者は多いし、彼らは今までこのことについて一度も読んだことがないのだ。
オリーブの園に跪いているキリストがカリスと共に描かれているキリストの苦悩の聖画には、重要な約束が付けられている祈りがある。憐れみ深いキリストの聖画とロザリオ [管1] のことも語られるべきである。これらにも重要な約束が付されている。
これらの聖画はありとあらゆる場所に、大量に在庫しておくべきであり、配布し、そして ... 皆の背中に「投げつけろ」とは言わないが、まあお前達はそんなことはできないだろうが、せめて貼り付けるくらいはすべきである。なお、お前達は足と同じくらいに馬鹿である。あれほどの聖画を、あれほどの約束を、あれほどの特別な恩恵をお前達は利用もせずに、とにかく大多数の人間達は利用していない。
同じように、他にももっとたくさんの聖画がある。例えばスウェーデンの聖ブリジェットの聖画、聖心の聖画などだ。今では聖心の信心の祈りはあまり重要視されていない。これにも重大な約束が付けられているのだ参照1, 参照2。同じことが聖マリアの汚れなき御心への信心についても言える。聖グリニョン・ルイ・ド・モンフォールによって示された完璧な信心も、すっかり忘れ去られてしまった。今私が言った聖画、特に聖顔、キリストの苦悩、慈悲深きキリスト、そしてロザリオの聖画については、お前達がもしそれらの真の価値を悟ったなら、金の額縁に入れたくなるだろう。〔恐ろしいうなり声を出す〕
E: 聖名によりて ... ベルゼブブよ、もっと話すべきことがあるだろう? まだ何があるのか?
B: 重要な約束が付されている聖心への信心と聖母の汚れなき御心への信心、そして憐れみのロザリオ [管2] 、キリストの苦悩を黙想すること、聖顔の信心、この五つは何にもまして重要である。できるだけ、どこへでもこれらの聖画を配布することだ。彼女が〔上を指差す〕そう望んでいる。お前達はこのことを説教の中で語らなければならない。これらの信心は偉大な徳を含んでいる。もしこのことを知り、常に祈っていたら、多くの者が回心したであろうし、あそこまで低いところへ堕ちることは決してなかっただろう。...〔ため息〕
E: ベルゼブブよ、続けて、まだ話すべきことがあれば話せ。福いなる童貞の命令によって真実のみを!
教皇と教会
B: 世界の情勢は今や深刻である。教皇はそのことで非常に苦しんでいる。しかし、彼はもはやそれを、言ってみれば「見る」ことができない。彼は殉教者である。彼は聖ステファノ殉教者よりも苦しんでいる [102] 。彼はこれ以上ほとんど何も言えないので、お前達は少くともアグレダのイエズスのマリアの本、カタリナ・エンメリックの本、『キリストに倣いて』の本を広く配布する仕事を再開すべきである。それは、上のあそこにいる彼らが望んでいることである。
E: ベルゼブブよ、まだ何か話すべきことがあるか? 話せ、至聖三位の聖名によりて!
B: もちろん、大きな戦い、大きな戦いが起きるだろう [103] 。上のあそこにいる彼女が〔上を指差す〕そのことをよく知っている。
E: 真実を語れ、至聖なる三位一体、いと福いなるる童貞マリア、大天使聖ミカエル、全ての天使と大天使の聖名によりて!
B: 教皇は新しいミサのことで酷く苦しんでいる。彼は、ミサに関しての通達が彼の期待に沿った形で理解されていないことを知っている。そして新しいミサが...〔恐ろしい叫び声を発する〕
E: 至聖三位の聖名によりて、真実を語れ!
B: ああ! 我々は教皇のことは話したくない! 我々には今すべきことが他にあるのだ。我々は人間達のことでかかりきりになっていなければならない。これ以上教皇一人に固執していられないのだ。(困惑してぶつぶつつぶやく)
E: しかし、ベルゼブブよ、お前は真実を話さなければならない。至聖なる三位一体、最も福いなるる童貞、天主の御母聖マリアの聖名によりて! 他にお前が言うべきことを語れ!
B: 前にも言ったが、パウロ六世教皇は古いミサを擁護する文書を準備し、公布しようとしていた。真相はこうだ。教皇は聖ピオ五世のミサを再び取り入れようと望んでいた。この目的のために彼は、合法で適切な形で文書を作成していた。そしてそれを「ローマと世界へ向けて(Urbi et Orbi)」公布することを望んでいた [104]
側近の者の内の幾人かが、古いミサの復活を如何にして喰い止められるかを話し合った。彼らは別の文書を作り上げたが、それは最初のものと比べて、形式、書式共に完璧に似ていて、ちょっと見ただけでは偽文書とはわからないものだった。教皇、つまりあの正しい教皇は、文書の趣旨を真実のものとし、我々は、その文書の「写し」が偽造されたものであることを彼が悟ることのないように、教皇をすっかり盲目にしてしまった。教皇の署名があるので、人々はこの文書を信じた ... そして彼らは、これは確かに教皇から出たものだ、と言っている [105] 。 そして、結果は見ての通りだ。〔悪意に満ちた笑い〕
E: 何故、聖霊はそんなことを教会内でお許しになるのか? ベルゼブブよ、真実を語れ、至聖なる三位一体 ... 福いなる童貞聖マリア、天主の御母の聖名によりて!
B: 天主は聖書に書かれていることが成就するように、それをお許しになったのだ。大混乱の時代が到来して皆が「キリストはここにいる! キリストはあそこにいる!」 [106] と言うようになるということは、ずっと昔に書かれていたことだ。そして今日では誰もがこう言っている、「こっちの方がより良い。あっちの方がよい。これこれのことの方がもっとよい... 」。ところが自分が何を欲してるのかを知る者は誰もいない。皆が皆、自分は正しい、自分はもっと優れている、一歩前進している、と考えている。あげくに、大勢のキリストに従う者までおり... 唯一人のキリストに従う者もいる。ところが、その唯一の者が偽キリストというのが常だ〔悪意に満ちた笑い声〕
E: それでも、カトリック教会は聖霊によって導かれている。聖名によりて... !
B: 確かに聖霊は教会を導いてはいる。しもし、あらゆることが酷く混乱しているこの時代に、もし或る枢機卿や司教達がそういった民衆よりも正しい人間でなかった場合、彼らが自分から我々の罠の網に引っ掛かろうが、それは我々の知ったことではない。
E: ベルゼブブよ、他に言うべきことがあれば話せ。福いなる童貞の命令によりて、真実のみを語れ!
B: 本来なら、教会にこの危機を経験しなければならない所以などないようなものだが、しかしキリストの預言に従えば、世界が混沌の中をくぐり抜けるようにして物事が置かれることが必要なのだ。もうじき、右と左しかなく、その左右の間にはもう何も残っていないという時が到来するだろう。この社会がこれほどのひどい混乱に陥らなかったなら、おそらく起こらなかっただろうことである。世界は過酷な試練を受ける必要がある。しかし残されたキリスト教徒達は、過去五世紀と比べて良くなった教会を見るだろう。
E: 至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊の聖名によりて、ベルゼブブよ、我々はお前に命令する。福いなる童貞に代わりて、まだ言わねばならないことを話せ!
B: 私、ベルゼブブはもう一度言わなければならない。聖書の中にある聖ヨハネの黙示録は、それが神秘的な言葉づかいで記されているために、大部分の人間はほとんど理解していない。もっとよく理解するためには、アグレダのイエズスのマリアの本を調べるべきである。その中でこの黙示録に関する多くのことが明確に説明してある [107] 。今は終末の時代である。だからこそ信者は皆この本を持ち、そこに書かれていることに従わなければならない。そうすれば、あらゆることがもっとよくわかるようになるだろう。
E: ベルゼブブよ、至聖三位の聖名によりて真実を語れ ... いと福いなるる童貞、天主の母聖マリアの聖名によりて、他に言うべきことがあれば話せ!
聖なる人々の本物と偽物
B: 現代は大いなる混乱と戦争の時代だ。もう一つ、上のあそこ〔上を指差す〕の彼らが残念がっていることは、今日無数の「聖なる人々」が現われているが、実は彼らが全く聖ではないということである。今日のこの非常に多くの聖なる人々は本物ではない。私は自分の意志に反して付け加えなければならないが、大多数の信者達がこれらの自称聖なる人々に熱狂的に従おうとする傾向がある。とにかく彼らに従ってゆく方が十字架に従うよりもずっと楽なのである。
聖なる人々と共にいると信者は特別に十字架を見出すが、同時に、不信、 [108] 反対、拒絶をも見出す。これは、我々悪霊達が背後についていて、我々が善なるものを嫌っているから起こることである。しかし信者の大多数、いずれにしても多くの信者達が、本物の聖なる人々に従わず、沢山の誤魔化しを行ない、あらゆることが非常な熱狂を伴って行なわれる、そんな人物に従う傾向がある。
E: 至聖三位の聖名によりて... !
B: 現代ほど、偽の聖なる人々がこのように多く出た時代はかつてなかった。だから多くの信者達が、敬虔な信者達までもが誤りに陥ってしまうのだが、あまり賢くない人間においては更にそうである。我々は大いなる力を持っており、正しい人間を誘惑することに真っ先にその力を使う。我々は今、懸命に働いている [109]
幾つかの宗派で、偽の聖なる人々によって行なわれている奇跡の多くは、下のあそこ〔下を指差す〕から来ている。聖霊の名によって行なわれているとは言うが、実際には我々の名〔再び下を指す〕、地獄の名において行なわれている。我々は「光の天使」を装うことができるからだ。
我々の名において病人を癒すことは可能であるが、それはその癒しが結果的に我々の利益となる場合のみである。堕落した人間が地獄を通じて、地獄の名において特別なことを行なうのは、真の聖なる人が特別なことや真の奇跡を天から頂くのに比べてずっと簡単なことである [110] 。後者の場合は多くの祈りと豊かな聖寵が必要とされる。だから、真の聖なる人の場合、目に見える奇跡が与えられるのはごく僅かであることがよくある。更に言えば、時として真の聖なる人でも正しい道を踏み外すことがある [111] 。お前達は気をつけて、いつも次の警告を心に留めておかなければならない。「あらゆることを吟味して、善いものだけを保ちなさい」 [テサロニケ人への第一の手紙 5:21]
終末の時代
B: キリストはこう言った。「人々が『キリストはここにいる』とか『彼はあそこだ』と言う時が来るであろう。もし誰かがあなたに『キリストは荒れ野にいる』と言うなら、信じてはいけない [113] 。そしてそこへ行ってもいけない。そこには、できるならば選ばれた人々をも騙そうと、偽キリストや偽預言者がいるのである」 [114] 。これらの言葉は、偽の聖なる人々にもぴったり当てはまるだろう。多くの人々が、偽キリストであるこれらの者のまわりに群がる。実に、反キリストは偽キリストとして現われるであろうが、これらの言葉は私が今話したことにも当てはまるのだ。
E: 真実を語れ。至聖なる三位一体、いと福いなる童貞、天主の母聖マリアの聖名によりてまだ言わねばならぬことを話せ!
B: お前達は今、試練を与えられている最中だが、教会は新しい栄光を帯びて再び復活するだろう。
E: …の聖名によりて!
B: いちじくの木のたとえ話に耳を傾けよ。「枝に芽が出てくると、お前達は夏が近いことを知る。だから、これらのこと全てが起こるのを見たら、神の国が近づいたということを悟れ」 [ルカ 21:29-31] 。時は非常に近くまで来ているからである [116]
彼女〔上を指差す〕は私にこう言わせる。「勇気を出しなさい! まだ時間が残されている間に罪の償いをし、回心しなさい! 」... 何故なら、主の日 [117] は近づきつつあり〔獅子のように咆哮する〕、天主の正義の怒りの日がもうすぐ来るからである!
原註
[104] 1975年10月のことである。
原註
[管1] 憐れみ深いキリストの聖画とロザリオ(The picture and Rosary of Merciful Christ): これは聖ファウスティナに啓示されたとされる「御憐れみのイエズスの聖画」とロザリオの珠を使ってする「御憐れみのチャプレット」を意味するのだろうか? [参照1] [参照2]
そうすると、私が以前紹介した情報「シスター・ファウスティナの神のいつくしみへの礼拝は避くべきものである」は何だったのか?
ここで私が思い出すのは、上の記事を掲示した頃に或る信者さんから頂いた情報です。それによると、「聖ファウスティナの日記の閲覧および出版の禁が解かれるまでに一定の時間がかかったのだが、その理由は、当時彼女の日記の “真贋” が問われていたからである」ということでした。そのようにオッサルバトーレ・ロマーノ紙で報じられたことがあるそうなのです。
「真贋の鑑定」とは、列聖や列福の対象とされている人物を調査する際には必ずされる必要な(型通りの)手順の一つなのかも知れませんが、どうなのでしょう。それとも、聖ファウスティナの日記の場合が “特に” 検討されなければならなかった、ということだったのでしょうか。・・分かりません。
しかし「他界からの警告」をどうも疑えない私としては、ここで言われている「憐れみ深いキリストの聖画とロザリオ(The picture and Rosary of Merciful Christ)」が聖ファウスティナのものを指しているのだとした場合、整合性を保つために、「聖ファウスティナの日記のそれらの箇所は、“手による聖体拝領” を宣伝し推進したい者達が故意に挿入したものである」と考えたくなります。
謎解きはこんへんでやめたいと思います。私達は信仰者であって探偵ではありません。ただ、確かにそのような “可能性” はあると思います。それを思う時、私は、自分が聖ファウスティナに対して、間違った、申し訳ないことをしたかも知れない、と思います。そして「イエズスのいつくしみへの信心」を実践している信者さん達に対しても。
お詫びします。しかし彼女の日記のそれらの箇所が「真」であっても「贋」であっても、そのようなテキストが存在すること自体は事実なので──そして私はあくまでも「手による聖体拝領は神の御心に適ったものではない」と信ずるので──その記事(「避けるべきもの」)は残します。(2008/05/01)
[管2] 憐れみのロザリオ(the Rosary of Mercy): 同上
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