1977年4月25日
(前半)
この項は秘跡に関する事を取り上げている為、
(日付は逆行するけれども)ここに挿入された。
E = エクソシスト
B = ベルゼブブ
告解をせずに初聖体を受ける事は有害である
E: ベルゼブブよ、我々は汝に命ずる。イエズスの聖名によりて真実を語れ、至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊の聖名によりて!
B: 彼女〔上を指差す〕は祝された秘跡、つまり初聖体について話すよう私に言われる。子供が初聖体の前に告解をしなければ、決定的に悲しむべき、そして想像以上に子供にとって有害な事となる。〔悲しげにため息をつく〕子供は告解すべきである。あれほど偉大で価値のある ... の前には。我々は話したくない!
E: イエズスの聖名によりて話せ! 真実を、真実のみを語れ! いと祝せられた祭壇の秘跡の聖名によりて、真実を語れ!
B: あれほど偉大な秘跡の前に、そして何よりもキリストが初めて心の中に入ってこられ、天と今から聖体拝領しようとしているこの人間を結び合わせられる前に、告解をする事は不可欠である。つまり有効で完全な、欠けたところのない全体的な告解である。〔深く苦しげに息をする〕それが行なわれないと秘跡に対する敬意が失われ、天に対しても同じ事だ...〔言葉が出にくくなる。窒息しているような感じである〕
E: 話せ、ベルゼブブ、イエズスの聖名によりて!
B: そして聖なるもの全てに対しても。信心深さ、尊敬は全てほとんど完全に消え失せる。しかしもっと嘆かわしい事は──彼女が私に言わせる──もっと嘆かわしい事は、この事が初聖体を受ける子供に、祭壇の秘跡に関して、そしてもっと一般的に言えば、聖体に関して誤った考えを植えつける事になると言う事だ。このような子供らはいくらでも過ちや罪を犯し、聖体拝領してもそれは許されるだろうと考えるようになる。
E: 続けて真実を語れ、イエズスの聖名によりて、真実のみを!
B: 聖体拝領前の告解が行なわれない場合には、計り知れない重要な要素が欠けている事になるのだ。それは大抵の場合、または少なくとも多くの場合に決して修復できない害である。〔苦しげな呼吸〕
E: 他に何を言わねばならないのか。祝された乙女の聖名によりて、至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊の聖名によりて。真実を語れ、言うべき事を、真実のみを言え!
B: 彼女は私に言わせる。子供が告解する前、また子供が罪とその許し、赦免についてさえ理解していない段階で、司祭がその子に初聖体を受けさせるほど無分別であれば、その初聖体は絶対に行なうべきではない。そういう子供に初聖体を受けさせる事は恩寵を失う事であり、下のあそこにいる〔下を指差す〕我々でさえそれを白状しなければならないほどである。
子供達はまだ過ちというものを犯していない、子供達は善良だ、彼らは自分がしている事をわかっていない、彼らはまだ罪がない、と言われている。しかし彼らは一般に考えられている以上に多くの過ちと罪を犯している。下のあそこ〔下を指差す〕に、我々の所にも子供がいる。お前達が考えている以上に多くの子供がいるのだ!〔うめき声〕
E: 真実を語れ、真実だけを、ベルゼブブよ、イエズスの聖名によりて子供達について言うべき事を言え! 話すのだ、ベルゼブブよ、至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊の聖名によりて話せ。十字架につけられたイエズスの聖名によりて、聖十字架の聖名によりて、尊き御血の聖名によりて、祝された乙女が汝に命じておられる事を全て話せ... 真実のみを、全て真実を言え! 話せ、イエズスの聖名によりて!
B: 彼女〔上を指差す〕は私に言わせる。司祭に十分に準備をさせてもらえなかった子供や、告解について何も教えてもらわなかった子供は皆、神への愛の為にしっかり教えてもらえる他のどこか... 例えば他の教区へ連れていくべきである。
それが無理ならば、両親が自分達で公教要理を理解して子供と一緒に学び、その子供が御聖体という偉大な賜物を受ける事ができるまで学ばせるべきである。さもなければその子供は決して良い道へ導かれる事がないであろう。後になって彼はこう言うだろう。「ふん、僕は告解もせずにとても良い状態で初聖体を受けたぞ」。こういう事から始まって実に多くの子供達が ... の段階へ進んでゆく。我々はこれ以上話したくない! もういやだ!
E: イエズスの聖名によりて、真実全てを話せ。祝された乙女が汝に命じられている事を話すのだ!
B: 実に多くの子供達、特に若者らはそういった事から始まって、大罪を持った状態で聖体拝領する事が、もはや何をも意味しない、という段階に向かって進んでゆくのだ。〔悲しげなため息〕
E: 祝された乙女が言われる事を話せ。祝された乙女が命令され、望まれる事のみを話せ。話すのだ!
B: だから彼女は全ての両親、カテキスタ、教師に要求しておられる。子供達に価値ある良い、完全な告解を済まさないで聖体拝領しようと御聖体に近づくのは絶対に、絶対に〔恐ろしい声で吠える〕してはならない、と言うべきである、と。〔苦しげな呼吸をする〕告解をしていないのなら、むしろ全く聖体拝領しない方がずっとましである。素晴らしくたくさんの恩寵があるはずのところに、ほんの僅かになってしまった。
また、信者は良い告解、つまり当然なされるべき価値ある正しい告解をするたびに、御聖体、つまり聖体拝領の時には、告解をせずにキリストの御体を拝領する場合に比べ、ずっと多くの恩寵が頂けるという事を教えられるべきである。
E: 真実を語れ、イエズスの聖名によりて!
B: それぞれの告解には、お前達が永遠においてのみ、言い換えれば上のあそこ〔ため息をつきながら上を指す〕のあの世に行って初めて理解できる、計り知れない恩寵が含まれている。
E: 真実を語れ、イエズスの聖名によりて、真実のみを、全ての真実を! ベルゼブブよ、続けよ、祝された乙女が汝に命じられる事を言え!
B: 彼女〔上を指差す〕は彼〔再び上を指す〕が不相応に拝領され、または彼があたかもパンの切れ端か何か他の食べ物のように取られ、むしゃむしゃと口を動かして「それ」が何であるかも考えずに食べられているのを見るたび、非常な苦しみと大きな悲しみを受けられるのだ。
しかし、何にもまして彼女は子供達、つまり初聖体を受ける子供達が告解どころかこの秘跡を受ける準備もろくにせずに、聖体拝領を許されているのを見られる時に苦しまれる。然り、然り...〔言葉がなかなか出てこない〕彼らは良い、完全な...
E: 続けよ、イエズスの聖名によりて!
B: 準備さえせずに聖体拝領しているのだ。告解は言うに及ばず、ふさわしい準備というものを全くしていない。初聖体の子供の多くは、信徳唱、望徳唱、愛徳唱を唱えるべきだという事さえ知らない。彼らは単に...
E: 話せ、イエズスの聖名によりて、至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊の聖名によりて!
B: 彼らは単にこう教えられるだけだ、「さあ、今から君らは聖体拝領するんだよ。キリストはみんなに良くして下さる。子供達みんなを愛しておられ、御自分の胸にみんなを抱き締めて下さる。君らはまだ罪を犯していない。キリストは君らのような子供達を愛しておられる。キリストのところへ行って心を開き、好きなだけ何度でもキリストと一致しなさい。そうすれば喜ばれる、とても喜ばれるのだよ... 」しかし彼らはキリストが必ずしも「全て」の子供について喜んでおられるはずがない、という事は言わない。彼らはその事がわかっていないし、黙って飛ばしてしまうのだ。〔ため息〕
E: 真実を語れ、ベルゼブブよ、真実のみを、聖名によりて!
B: キリストにとって既に非常に多くの罪、時に由々しき罪を背負った心に入ってゆく事は実際、嫌悪すべき事である、という事を彼らは言わないのだ [50] 。もうこれ以上話したくない! もういやだ!
E: イエズスの聖名によりて、至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊の聖名によりて、イエズスの聖名によりて真実を語れ、祝された乙女が汝に命じられる事を言え! 真実を語れ、ベルゼブブよ、続けるのだ!
B: 彼女〔上を指差す〕は、呼びかけを開始される。彼女が私に言わせる。何よりもまず聖体拝領の準備をもっと厳粛な方法で、今日行なわれている以上にもっと完璧で適切に行なわなければならない。
特に──もう既に言った事だが──告解は絶対に事前に行なわなければならない。両親は非常に注意深く子供に準備をさせなければならない。そして更に毎日、子供と一緒に祈らなければならない。両親は子供に質問し、子供が良い告解をできるように、できる事は何でもするべきである。子供にちゃんと準備させなかった事を叱責する為に司祭に会いに行ってけんかをする必要はない。
両親は絶対それ(司祭にその事を話す事)をする義務がある、というわけではない。自分たちでできるのだ。絶対的な義務ではない。(しかしながら)両親は心穏やかに子供を教え [51] 、初聖体の準備をさせることができる。
町にはいくつかの教会がある。もし田舎に住んでいて、自分の教会の司祭が両親の意向を妨げるようであれば、どこか他の教会へ子供を連れて行く事ができるし、またそうすべきである。
霊魂を清める事により、子供は多くのより偉大な恩寵を受ける。初聖体の日、清い心でキリストにふさわしい方法でキリストに近づく事を学ばなかった為に計り知れない恩寵、その子供の人生に決定的となる恩寵が失われるのだ。〔泣く〕また言わされてしまった! また言わされてしまった! このこともお前達の安物の腐った本に書いておく必要がある!
慎重な判断
E: …の聖名によりて!
B: 全く真面目ではあるが、この事が教皇から来たと信じ、教皇の替え玉の存在を知らない人々が居る。そのような人々は手による聖体拝領が罪である事も知らない。
彼らは大勢の中で目立ちたくないし、人目を引くような事もしたくない。彼らは、例えば「・・・からの警告」や本物の選ばれた霊魂を通して語られた事、つまり聖体拝領は手で行なってはならない、という事を知らない。そのような者はそれによって重大な罪を犯しているわけではない [52] 。司祭がそのように行なっている場合は、それは信者の過失ではない。
それからまた、こういうのもある。多くの教会で信者が膝を曲げ、口で聖体拝領する事を望むと、司祭の方から何かよそよそしい気分にさせられる。そういった場合も、罪はそれほど重大なものとはならない。上のあそこに居る彼〔上を指差す〕はそれぞれの場合に応じて判断する。その聖体拝領の仕方が上のあそこで望まれているものではない、という事を知らないならば、彼が手で拝領したから地獄へ行くだろう、などと断定的には言えない。
これらの人々は従順によって行動しているのであって、それが教皇から来たものだと信じている。彼らは偽教皇がいる事も、また教皇を裏切っている枢機卿が何人かいるという事も知らない。彼らは従順という名の旗の下に進んで行く。私が言いたいのは、もしこのキリスト信者たちが、真に祝された霊魂か司祭から、手による聖体拝領をする権利がなく、またすべきでない事を警告されたり、彼らが内なる光を受けていて──本当に受ける時は天から来ている光である──そして尚それでも「聖体拝領を口でしようが手でしようが同じだ、そんな事は全然重要ではない」と自分自身に言い聞かせつつ反対の事をしているならば、その時は事態は別である。その時にはそれは罪である。我々がお前達に言うべき事は以上である。常に個人個人の事情によって違うのだ。同じ事がミサ聖祭についても言える。聖ピオ五世のミサは上のあそこの〔上を指差す〕天によって好ましいものと考えられている。しかし多くの司祭は、「聖ピオ五世のミサが行なわれないならば、ミサに行くな。自分の家で自分でミサ [53] を唱えよ」などと言って信者を困らせる(または怒らせる)権利はない、という事を知らされるべきである。
こういった態度は良くない。何であれそういう司祭は良い牧者(羊飼い)ではない。我々は以前、既に言ったが、それでは恩寵をたくさん失う事になる。本当だ。良い信仰を持って司教への従順の下に捧げられるならば新しいミサでも尚多くの恩寵を頂けるのだ。聖ピオ五世のミサほど豊かな恩寵を頂けないにしても、いくばくかの恩寵は同じように頂けるのだ。信者が家にいてミサ典書を開くだけで、他の人達より良い事をしていて、優れていると信じる事は良くない。
また、現代主義者たちに対して優越感を抱いている「伝統主義者」がいる。上の方におられる方々はそういった者たちを一切望んでおられない。それは天の〔上を指差す〕精神ではない。天ではこのような事は偽善的な匂いがするもので、誰もそんな事をする権利はない、と考えられている。彼女が私に言わせる。また、自分たちだけで凝り固まっている「伝統主義者」たちがたくさんいる、と。... 我々はもうこれ以上話したくない!
伝統主義者
E: …の聖名によりて!
B: 平信者にも司祭にも同じくらい多くの「伝統主義者」がいて、独善的で一種の新しい偽善にどっぷりと浸っている。彼らが言っている事、また、時として説教する内容は、「我々は善き者であり、正しい者である。他の者たちはもはやあまり価値がない。我々が天国に行くことになろう」というものである。これでは異端に非常に近いと言える。異端も同じようなことを言っている。上の方の〔上を指差す〕方々は、こういった態度は全く好まれない。自分で自分を正しいとする者を天はあまり愛されない。この本の中でミサと教会について、とりわけ聖ピオ五世のミサについて話す必要があったとすれば、それは、ある「伝統主義者」たちが、あたかも自分たちだけが適切な方法で、かつ必要な全ての能力を持って健全な判断を下すことができる者であるかの如く、現代主義者たちに対して尊大ぶってもよい、ということを意味するものではない。この本はそのような事を言っているのではない。単に今日存在しているような教会内での乱用を全て白日のもとにさらす為に語られたのだ。
しかし話を最後まで終わらせる為に、次の事をまだ言わねばならない。司祭で「そんなミサに行くくらいなら、家にいた方が良い」と言う者は誤りを犯している。もしミサが、司祭自身、奉献の言葉を信じず、唱えるべき言葉も唱えないところまで堕ちているのならば、もし奉献しようという意志さえ持っていないのならば、その時にはホスチアは聖変化されない。これは本当だ... 。しかしそれでも信者たちはなお教会内で祈ることはできる。
また、こうも言わなければならない。信者たちはキリストの充満また恩寵の充満というものを奪い取られている。これは本当だ。しかし、ある恩寵は尚そのミサに付随している。特に深い信仰を持った善きキリスト信者が、信心を持ってキリストを拝領しようという意志を抱いてミサに与かり、聖体拝領するならば、天は単純に「司祭が適切に司式していないからここには恩寵は全く与えない!」などとは言わずに、十分公平に扱われる。そのような信者には事情にもかかわらず、ある恩寵が与えられる。[54]
E: そういった信者たちは神への義務を果しているのか?
B: もし聖ビオ五世のミサに与る機会があるならば、その場合は天はその方をずっと好まれる。しかしそういう可能性が全くなければ、それ以外のミサに行っても良い。ラテン語で捧げられる聖ピオ五世のミサの次に良いミサは [55] 、自国語によるトリエント・ミサ [56] であるが、これはあくまでそのトリエント・ミサの典礼文を全て唱えられる事が前提である。その次、三番目に来るのが新しいミサである。しかし信者がこのことを知らず、尚良い信仰を持ってミサに与るのであれば、それが彼らの意志である限り彼らは主への義務を果たす事になるのである。
他方、もし信者が一キロメートル先まで行けば聖ビオ五世のミサが捧けられる事をよく知っているのに、「ふん、遠すぎるさ。あんな所まで走って行くものか!」とつぶやいたり、そのミサの方が良いという事をよくわかっている場合には、話は違ってくる。その場合は、彼らは怠慢により非常に損をした事になるのだ。その一キロメートルを行くべきであったのだ。お前達にわかるか。〔涙声〕 もし我々がまだあれほど偉大な恩寵の分け前に与かることができるならば、どんなに遠くとも行くだろう。我々にまだチャンスがあれば、地の果てまで旅をするだろうに! だから我々は以上のように話すことで、他のミサも同様に良い、ということを言いたかったのではない。上のあそこの〔上を指差す〕方々が好まれるミサについては、既に十分話したとおりだ。
我々は多くの司祭が犯している誤りを暴露しなければならない。信者たちに新しいミサに行ってはいけない、あれは悪霊から出ているものだ等と教える事は根本的な誤りである。これもまた、赤ん坊を風呂桶の水ごと捨ててしまうのと同じで、反対方向へ極端に走っているのだ。そういった決めつけは隣人愛というマントの下のどこかに居場所を得られる事はまずない。このような状況では、現代主義者に隣人愛を持っている者がおり、時には他人を見下すそんな「伝統主義者」よりも彼らの方が正しい事がある。我々はこれを今まで述べてきたような事柄の一部として... そして我々が今まで言ってきた秘跡とその他すべての事柄の一部として話すことを強いられている。また、パリサイ的な「伝統主義者達」も数多くいる、ということも指摘されなければならない。このことが認識されなければ、現代主義者達は「 “伝統主義者” 達など十把一からげにしてしまえ。(全ての)“伝統主義者” 達は狂信者である、反逆的な狂信者である。だから我々は何としても彼らと戦って行こう」と考えるだろう。もうこれ以上話したくない。〔うなり声〕
E: 祝された乙女マリアの聖名によりて... !
B: 状況はざっとこんなものだ。上のあそこ〔上を指差す〕の方々は、全ての子らを愛しておられる。たとえ彼らが過ちに陥ってもだ。もはや何をなすべきかわからなくなり、従順に名を借りて司教や司祭の考えに従った場合には、彼らが貴められる事はまずない。彼らが純粋に良い信仰を持って行動するならば、あまり厳格に責められる事はない。但し、この状態は非常に忌まわしい、忌まわしい、忌まわしいものではあるが。
司祭と手による聖体拝領
E: 司祭に関する限り、手による聖体拝領についての話はどのようなものか? 聖三位一体の聖名によりて... !
B:「司祭に関する限り手による聖体拝領」とはどういう意味だ?
E: 信者がそう要求した場合には、司祭は聖体を手に授けるべきか?
B: いかなる条件下においても許されない! 絶対に許されない! お前は司祭が信者の操り人形だと思っているのか? 司祭は命令する権限を持っているのだぞ! 大まかにつけ加えて言うが、もし司祭が上のあそこ〔上を指差す〕の方々に望まれるとおりに、聖体を口に授けようとすれば、たぶん初めのうちは反対に会うだろう。これは我々(悪霊)が火に油を注ぐからであるが、しかし、長期的にはこの方[ほう]が、聖体拝領を別のやり方で行なう教会、そのような生温さが存在する教会よりも、もっと多くの信者を教会に集める事になるだろう。
E: で、もし司祭である私が、手に聖体を授けている他の司祭を手伝う事になった場合はどうしたら良いのか?
B: その時には、お前は・・・
E: 聖名によりて ... 真実を語れ、真実のみを!
B: その時には、お前は手伝おうとしている司祭に向かってこう言うべきである。「神父様、私は聖体は口に授けるのが正しいと信じております。聖体を手に授ける事については、私は一切責任を持つ事はできません。この事をおわかり頂きたいと思います」。お前にとっては、聖体を口に授ける事は基本的な義務である。それがより多くの祝福と崇敬を包含している事をお前は知っているからである。どこにも事態を困難にしようとする人間はいる。全く反対の結果にもなりうる。
しかし、根本的には彼らはお前に敬意を表する事になろう。そういう人間の態度はこうだ。ときに彼らはお前に異議を唱えお前を困らせても、心のそこでは、「ひょっとして、結局彼が正しいのかも知れない。彼は何をなすべきかをわかっていてあらゆる障害を乗り越えて前進しているのだ。自らの確信に基づいて行動しているのだ。彼のやり方はたぶん正しいのだろう」と思っている。上のあそこ〔上を指差す〕の方々の考えでは、司祭のうちまだ何とか口に聖体を授けることができる者は、天の愛の為にも口に聖体を授けなければならない。というのも、知りながらそれを行なわない者は罪を犯すからである。「見ずに信じる者は幸い」。そうすれば現在のような聖体への冒涜はもうなくなるであろう。
E: 聖三位一体の聖名によりて ... 司祭は粉々になった聖体をどう扱えば良いのか?
B: 一番良い方法は聖体拝領後、司祭は自分の手に水を注ぐ事である。または例えば司祭がある家庭で聖体を授けた時には、手を一杯の水の中に浸してその水を最後の一滴まで飲みほすのが良い。その方法で更に崇敬を表わす事になる。この方法はまだあちこちで行なわれている・・・だがもうこれ以上話したくない!
洗礼の秘跡と代父・代母の責任
E: 聖名によりて ... 真実を語れ! 祝せられた乙女がお望みになることだけを!
B: 洗礼、洗礼 ...
E: 洗礼?
B: 祝せられた乙女が命じられた。洗礼と・・・わかるかね? 突然、祝せられた乙女〔上を指差す〕はお命じになったのだ。洗礼と・・・それにしても、彼女はいつも命令をくだされる! あそこの彼女の七層の雲の中へと彼女を昇らせて欲しいものだ! 我々は下の方〔下を指差す〕で余儀なくうんざりさせられているのだ。
E: 聖名によりて・・・いと祝せられた乙女が我々に告げようと望んでおられることを話せ!
B: 多くの司祭は洗礼を適切に執り行なっていない。悪霊に対するその厳かな命令を伴った完全な儀式は、当然そうでなけれはならないようには、もはや用いられていない [57] 。しばしば、「私は・・・を退ける」という言葉さえ、もはや言われることはない。我々は自分の名前を言いたくない。
E:「・・・悪霊とそのすべての業とそのすべての栄華とを・・・」
B: それすらもはや言われていない。そしてそれは我々が同意していることだ。それは我々にとって大した幸運なのだ。そのことをもはや言わないということは洗礼を受ける者にとって、まず第一に悲しむべきことだ。今日多くの悪霊憑きが存在している [58] 。なぜなら、洗礼がもはや適切に執り行なわれていないからだ。... 我々は話すことを望まない。話したくない! ああ、これは我々をほとんど押し潰しそうだ!
E: 至聖三位の聖名によりて…!
B: 祝せられた乙女は我々をほとんと押し潰しそうだ・・・多くの事柄はその始まりをそのことを通じて持っている。これがそのことが悲しむべきことである理由だ。代父が洗礼を受ける幼児を抱き、そして彼を代表する時、こう言わなければならない。「私は・・・を退けます」と。代父・代母はそのことを子供の為に言うべきである。同様にまた、彼らはその全生涯を通じて、自分が代父・代母となった子供を、時には逸れて迷い出ることがあっても、正しい道へと助け導く重要なそして厳粛な、しかしまた素晴らしい義務をも持っている。
その代わりに、現在は代父・代母は幼児の可愛さを眺める。赤ん坊はどんな髪の毛だろうか? クッションはどんなだろうか? それは縁取りされているか否か。司祭は洗礼堂を充分に飾りつけただろうか? それともそこには洗礼盤以外には何もないか? 代母は新しいドレスを着ているか? それとも普段のままであるか? 代父は申し分のない新しい身仕度をしている唯一の人間か? 彼らは彼らが引き受けようとしている責任については、もはや考えない。彼らは赤ん坊を抱き、その額に水を掛けさせるが、しかし、今日それ以外のことを考える者は非常に少ない。
以前はそのようではなかった。もちろん、一般化はできない。しかし、今日、洗礼を本当に厳粛に考える人、事を適切に行なう人はほとんどいない。かつては、大部分の代父・代母は自分達がしていることを充分に意識していた。洗礼式の一日か二日前、あるいはそれよりもっと前に、用いることができる時間に応じて、彼らは跪き、そして自分達が代父・代母となる子供の為に祈ったものだ。彼らは代父・代母という役目の重大な責任を意識していた。彼らは自分達が代父・代母となった子供の為に祈り続けた。そしてしばしば子供の為にどんな苦労も惜しまなかった。彼らは死が彼らを連れ去るその時まで、この人間の生活に関わったのだ。それが彼らがその責務を果たしたやり方だった。
彼らは自分達が代父・代母となった子供のキリスト教的生活にそれ以上に関わった。彼らはその祈りを通じてどのように子供を利することができるか、子供が正しい道からさまよい出たならば、どうすれば最善の仕方で彼を助けることができるか、彼の助けになる最善の方法は何か、を自らに問うた。現在はこれとはまったく異なっている。今では彼らにとってそれはどちらでもよいことなのだ。正しい道から迷い出たのは、しばしば彼ら自身である。今は彼らはこう自問する。「私が代父になった子供はどんな相手を選んだか。彼はその妻と幸せだろうか?」と。・・・もうこれ以上話したくない!
E: …の聖名によりて!
ベルゼブルB:「彼女はかなりの持参金を持って来ただろうか? 彼らは見栄えのいい夫婦になっているだろうか? 赤ん坊は可愛いだろうか? 彼はよい印象を与えるようなちゃんとした身なりをしているだろうか? 彼は立派な職を、社会において彼によい地位を与える職業を持っているだろうか? 煎じつめるところ私が望んでいるのは、私が代父になった子供が、人前に出せる人間だということだ。ぼろを着てうろつき回っている人間でないということだ。……」ああ! 我々はこれ以上もう話したくない!こんなことを言わせられることは我々を押し潰してしまう!
原註
[50] 七つの由々しき罪とは、傲慢、貪欲、情欲、大食、立腹、羨望、怠惰。
[53] ここではミサの祈りを意味している。
[57] 或る人が洗礼の新しい儀式から祓魔式がなくなったのを見て、パウロ六世聖下のおられるところで驚きを表明した時、教皇様はこうお答えになった。「ああ、そうなのです。それは私に関係なしに為されたのです」と。(私的な打ち明け話)
ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ
inserted by FC2 system