昭和38年(1963年)3月1日発行『京都教区時報』第10号より

下線は管理人による付加

司 教 教 書

一九六三年四旬節の心得

 灰の水曜日からいよいよ四旬節に入りました。全世界の教会ではへりくだりと痛悔の印として信者一人一人の頭に灰を被らせ、「人よ、汝は塵にして塵に帰るべきことを覚えよ。」と深刻な宣言を言い聞かせます。人生、それは僅か一夜のかけらのような生命、果し無い、忽ち消え失せる白露のような運命に過ぎません。短い地上の存在の後には嫌が応でも私共の五体は潰れて、一握りの土、一つまみの灰に帰しさってしまいます。この一抹の灰となるべき五体を可愛がり過ぎて、魂を殺してはなりません。総て来るべきキリスト様の御復活祭=光明と平安との限りなき来世、永遠不滅なる私共の魂の前表なるべき復活祭を眼前に控えて、私共は真剣になって此の果ない肉や感情と戦い、霊魂を清め神様との固い一致に戻るよう努力しなければなりません。

 此の四旬節を聖く意味深く送るためには、第一に痛悔の業をしなければなりません。聖書の中に、この痛悔、即ち悔い改めと云うこと程、度々繰返し、諌められていることはありません。旧約の予言者達の任務の根本的な趣意は、此の悔い改めであり、イエズス様の福音の根底もやはり悔い改めでありました。「イエズス初めて教えを宣べ、『改心せよ。けだし天国は近づけり』、と曰えり」(マテオ四ノ一七)と真先きに記されております。神様の救を得るため私共がしなければならない第一の準備、それは悔い改めです。無限な神の絶対な御掟を破った私共は、悔い改めの業をせずしては、神の御前に恩寵を回復する事は出来ません。ですからこの四旬節中は特にイエズス様の御受難を黙想しながら自分の過去の罪や過失を償なうよう励まなければなりません。カトリック教国では四旬節中は毎日のように、大斎や小斎が命ぜられますが、未だ布教国である日本では免除されております。しかしその精神には変りがありません。私共は自発的に毎日克己の業を励みましょう。

 聖クリブストムスは、「あなたがたは口に断食させると同時に、あなたがたの舌にも耳にも目にも鼻にも手にも足にも断食をさせなければいけません。」と云っております。つまらぬおしゃべりの時間を、控えるとか、腹立って荒々しい言葉を吐いたり、人をそしったり小言を云ったりするのを断然止める。無意味なものを見て無駄に時間を費やさないよう注意する。思う存分寝たいのを思い切って少し早く起きてお祈りの時間へ廻すとか、自分の職務は単調でうるさくても、償いと云う考えで立派に果して決してなまけないとか考えれば、毎日いくらでも犠牲を捧げる材料を集めることが出来ます。

 尚、四旬節中は普段より多く、長くお祈りをするよう心がけなければなりません。特に出来るならば、成るべく精神を込めてミサにあずかりましょう。ロザリオも信心深く、少しでも多く唱えましょう。金曜日には仕事中にも特に主の御受難を考え、一日の働きと労苦をお捧げし、又、「十字架の道行き」にも能う限り列席しましょう。要するに熱心な信者の尽すべき神様への努めを、普段は無精になって怠り勝ちであった信心の務めを償いのつもりで、勇ましくやってまいりましょう。自分の罪や不足の償い計りでなく、人々の為にも、特に自分の親や子供、妻、夫、兄弟、親戚の中に冷淡な人、神に背いている人のいる場合には、一層の熱心さを以って身代りに祈ってあげなければなりません。

 更に四旬節中は、種々な形式で他人に加えた物質的、精神的損害や迷惑を償う意味で愛徳の業、慈善業を行うよう努力しましょう。憐れな人達に物質的援助をするなどは、云うに及ばず、家庭の人々の間に意見の衝突があっても、それを快く赦す、隣り近所の人に親切を尽す、しなくてもいい、よい事を一度でも多くするように気を配る等、数え上げれば切りがありません。「慈善は罪を浄め、神の憐れみと永遠の生命とを見出さしめる」(トビア、一二・九)と聖書にも記されております。

 若しこのようにして四旬節を尊く過すならば、年の務めの御復活頃の聖体拝領は立派にすませますし、実行を以って信徳を現わし、実行を以って望徳に活き、実行を以って愛徳を示すのですから、自然私共の信仰も希望も愛も強まって来ます。一言で云うならば、霊的生活に於て、本当に大きい進歩が見られ、徳に進み、神様に近づき、神様との一致がより親密になって参ります。自分も神様の為に尽す所があったと云う確信を得、云うに云われぬ喜び、満足を味うことが出来、楽しい復活祭をお祝いすることが出来ます。どうか皆様、今年の四旬節を、もうこれが最後の四旬節のようなつもりで、熱心にお過ごしになって下さい。

 終りに当って皆様がますます熱心な模範的信者となられますよう、皆様の上に主の豊かな祝福が与えられんことを、心からお祈り致します。

 一九六三年四旬節に当って

京都地区長
ポーロ古屋義之司教

管理人: 昔の司牧者にとって「一致」と言えば、それは即ち「神様との一致」を意味した。比較的に。しかし圧倒的に。

 苦業の喜び

 数年前の四旬節のある日、一人の米婦人がローマン・カラーをしている私を見て話しかけて来た。
 「神父様、お腹がすきませんか」
 言われて始めて空腹感に気がついた私は故意に平然として、
 「私も何だかお腹が空ったと思ってましたが、今日は大斎日でしたね」と笑って見せた。
 婦人は少し悲しそうな顔をして見せたが、真面目そうに、
 「私はさっきからお腹が空いて目がまわりそうなんです。」
 「そうですか、お気の毒ですが犠牲としてイエズス様にお捧げ下さい」
 「勿論ですよ、四旬節ですもの。それに私達に出来る犠牲と云えば大斎を守る事位かも知れません。ですから、私は苦しいけれど、喜んで捧げているのですよ。」
 と言ってニコニコ笑顔を見せた。

京都教区時報(1962年〜1993年

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