昭和47年(1972年)7月25日発行『京都教区時報』第40号より

下線は管理人による付加

司教さまのことば

 長い間教区時報を休刊して教区の皆さんに、申しわけなく思っておりました。この度アカソ神父様が、時報の編集をおひき受け下さり、中島容太郎氏が協力してくれるそうで、感謝しています。カトリック新聞や雑誌など、小教区の機関紙など、信者のかたがたのための種々の機関紙がありますが、教区のすべてのかたがたのための機関紙「教区時報」をとうして、牧者の声をお知りになり、皆さんお互いに、もっと知りあわれることは、どうしても必要なことではないかと思います。どうか教区の皆さんのご協力で、実りあるものにしていただきたいと願っております。

 さて、この機会に、皆さんに、わたしの心を打ちあけてお話ししたい事があります。最近わたしの心を曇らせていることなのですが、それは、告解の回数が非常に減ってきたということなのです。なぜでしょうか。おそらく、その理由の一つは、第二バチカン公会議後の危機感と混乱の結果、告解についての正しくない噂が広まったことにあるのではないかと思われます。告解の本質は、今も、昔も、これからも、決して変ることはないでしょう。形式的な面はいくらか変化することもあるでしょうが、一人一人が個人的に、司祭に罪を言いあらわすということは、決してかわることはないでしょう。共同告解の話がありましたが、個人的告白の前後に皆一緒に祈りを唱えたりする可能性はあるかもしれませんが、告解はあくまでも、個人的なものなのです。共同告解について、勝手な実験が行なわれたことを、残念に思っております。

 告解は、イエズスさまご自身がお定めになられた、すばらしい秘蹟なのです。聖霊の御助けで、カトリック教会内にだけ受け継がれてきた、貴重な宝なのです。告解では、ただ単に罪が許されるだけでなく、恩恵、新たな力、秘蹟特有のお恵みも与えられるのです。自動車に例えてみれば、告解は、自動車のこわれた部分を修理するだけでなく、ガソリンを給油したり、充電したりなどして、新たなエネルギーを与える所ででもあるのです。だから、大罪のみを告白すればよいのではなく、小罪も度々告解し、お恵みを得る必要があるのです。

 告解の回数が減少してきたその他の理由は、一人一人の心のあり方にあるのではないかと思います。告解をするには、信仰、謙遜、勇気などを必要とします。これらの徳がなければ、だんだん告解から遠のいてくるでしょう。勇気をだして告解すれば、平和、謙遜、自己認知などの、すばらしい実りをいただくことができるのです。

 強いことを申しましたが、皆さんの真の幸福を思って、あえて申しあげました。イエズスさまが、私たちにこの秘蹟をよく理解させ、この貴重な宝を利用させて下さるようにお祈りしましょう。

 心をこめて皆さんに、司教としての祝福を送ります。

管理人: 古屋司教様は御自分の文章をしばしば「司教としての祝福を送ります」という言葉で終える。「司教としての」。しかし、彼の後継者である田中健一司教様の代からは、この言い方は鳴りを潜める。

教会の掟の遵守

日本司教協議会

 日本司教協議会の四十七年度・定例総会が、去る六月十二日〜十六日にわたり、東京四ッ谷のカトリック中央協議会館にて開催され、教会の諸問題について活発に討議、決定された。その内、われわれに特に関心をもたらすものを、二、三列挙する。

 カトリック要理について 〜 昨年、「カトリック入門」が公刊されたが、種々の点があいまいで、多くの不満がもたらされ、もっと具体的なものを、という要望が高まっているので、教理司教委員会で検討することになった。それで近々「カトリック要理」の改訂版を、中央協議会で発行する予定である。

 司祭評議会の骨子 〜 各教区によって名称が異っていたので、「司祭評議会」と統一し、その規約は、各教区で検討することになった。

 教会の掟の遵守 〜 最近、一部の者ではあるが、教会の掟が廃止されたかのように吹聴するものがいる。教理司教委員会で、その必要性が再確認された。どのような人間社会にも、法のない社会はない。教会の中でも、信者が信仰生活を守っていくため最低必要な規準というものが定められていて当然である。母なる教会の権威者は、福音の精神に従いながら、時間と場所に応じてそれらを具体化する。なお教会の掟は、ことしの「カトリック典礼暦」の中の「カトリック信者の心得」の項に記載されている。

京都教区時報(1962年〜1993年

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