昭和47年(1972年)12月17日発行『京都教区時報』第41号より

下線は管理人による付加

ご聖体とクリスマス

司教 古屋義之

 教区の皆さん、
 クリスマスおめでとうございます。本年もいろいろと頑張って下さって有難とうございました。待ちに待った河原町会館もやっと完成しました。これからも神の国の発展のために一緒に頑張っていきたいと思っています。そしてその為に今少しご聖体について皆さんにお話ししたいのです。

 クリスマスと言えば、馬ぶねに眠っておられるイエズス様をすぐに思い浮かべます。その幼いイエズス様を信じ、もっと愛したいなら、ご聖体に現存なさっておられるイエズス様を信じ愛さなければなりません。

 最近、教皇様はご聖体について次の五つの点を強調しながらお話しになられました。

(1)

パンとぶどう酒の形色のもとにキリストは実際に現存しておられます。

(2)

ご聖体は単に食物としてだけでなく、犠牲の意味も含んでいます。

(3)

この秘蹟を実現するのは司祭です。

(4)

ご聖体を拝領するには罪から潔められていなければなりません。

(5)

ご聖体は愛徳と一致という特別な効果をもたらします。

 ところで、教皇様がお与えになる、このような明らかな教義に対して、典礼刷新を旗印とし、巧妙に反対する偽神学者が少数ではありますが存在し、神の民を混乱させ、さらに勝手に典礼的実験を試みるなどしています管理人注1。このような雰囲気は、一部においてだけなのですが、ヨーロッパだけではなく、この国にも拡がってきています。これらの状況をご覧になって、教皇様のご心痛はいかばかりかと思います。

 教皇様がお教えになる一つ一つの点について説明したいのですが、紙面を取りすぎてはいけませんので省略します。ひとりひとり、この意味をよく考えて下さい。ご聖体にはイエズスさまが、実際にいらっしゃいます。このことをよく銘記して、ご聖体を大切にし、ご聖体拝領をよく準備し、感謝し、機会を作ってご聖ひつのイエズスさまを訪問したり、聖体降福式にあずかったりして、イエズスさまともっと一致するよう心がけましょう。

 幼児イエズスさまが豊かなお恵みをお与えになりますようにお祈りします。皆さんに司教としての祝福をおくります。

 どうぞよい新年をお迎え下さい。

[管理人注1] 1972年に古屋司教様はこのようにおっしゃった。そして1976年、司教様は京都教区長を退任なさった。Catholic-Hierarchy
そして1987年、古屋司教様がお嘆きになった「勝手な典礼的実験」が、正に京都で、その司教座聖堂で行なわれたのである。参照

おそるべき

対話崇拝

ヒーナン枢機卿語る

=英国バーミンガム発NC=

ヒーナン枢機卿

John Carmel Cardinal Heenan

 近代主義─あらゆる異端の統合─が「明日の教会に対する主なる脅威」として再発し再現していると、ウェストミンスターのジョーン・ヒーナン枢機卿は、英国の教会指導者会議で警告した。

 近代主義とは、二十世紀初頭に起こったもので、宗教的真理として伝承されてきている信条─神の存在をも含めて─の多くの証明は不可能であるとか、聖書は霊感によって書かれたものでない、キリストは神でない、キリストは教会を建てなかったし、秘蹟も制定しなかったなどと主張するものである。

 「今までカトリック教会によって伝承されてきた」教義で「明日の教会から攻撃をうけている」ものをヒーナン枢機卿は列挙する。つまり、復活、三位一体、霊魂の不滅、秘蹟、御ミサ、結婚の不解消性、胎児・老齢者・不治の病人の生命権。「近代主義は、人気者となった神学者の現在流布している著作の中にすでに姿をみせており、その神学者の中のある者は、キリストは、真の神であるということを、もうほとんど信じていない。」とヒーナン枢機卿は述べた。

 同枢機卿は、聖公会から45人、カトリック司教14人を含む、イギリスとアイルランドの主な宗派の教会指導者四百人から成る会議において「今日と明日のローマ・カトリック教会」という主題で講演した。

 彼はその講演で、次のように述べた。第二バチカン公会議がもたらした祝福の一つは、エキュメニズムである。しかしエキュメニズムを主唱するカトリック者は、他のキリスト者をローマに戻そうと、もはや考えなくなったし、まして口に出さなくなった。「キリスト教を分裂させた意見の違いは一体どこにあるのか、意義のちがいはどうなのかはっきり確認することこそ真のエキュメニズムの本質である。」

 エキュメニズムの次に、討論─対話崇拝─が今日の教会に大きな影響を及ぼしていると枢機卿は指摘した。対話は「それが生産的な時のみ良いもの」であって、それがもし麻痺に導いたり、ただ話すだけでは悪であって、「今日の教会の大きな弱点の一つ」でありうる。彼は「会合とか会議の根本的削減」を求めている。対話の現在もたらしている重荷は、単に肉体的エネルギーを消耗させるだけでなく「自己陶酔とか個人的祈りを怠るなどの精神的倦怠をもたらす」ことである。「司祭生活や修道生活を離れた多くの人は、もし彼らがつきることのない対話に熱中していなかったら、まだ私たちと一緒にいただろう。」

 一九六八年に公にされた、パウロ六世による回勅「フマネ・ビテ」は人工中絶を禁じる教会の伝統的な教えを再確認したものであるが、それ以後、教会の教導権に対する信頼が弱くなった。「教会が傷をうけたのは、回勅が受けいれられたか否かではなく、多くの司祭や信徒が教皇を拒んだことである。このような行動は、よく教導されてきた教会の中で、二十世紀間前代未聞のことである。教会は、まだショックから回復していない。」(「 」はヒーナン枢機卿のことば)

京都教区時報(1962年〜1993年

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