神の御前におけるファチマの天使の姿勢・動作
恐れないでください。わたしは平和の天使です。わたしと一緒に祈ってください。
《わたしの神様、わたしはあなたを信じ、礼拝し、あなたに希望を託します。そしてあなたを愛します。あなたを信じない人たち、あなたに希望をもたない人たち、あなたを愛さない人たちのために許しをお願いします。》
[天使は跪きながら顔を地面まで下げて、この祈りを三回繰り返した]
ロメオ・マンジョーニ著『ファチマ・巡礼者のしおり』サンパウロ刊 より
このように祈りなさい。イエズスとマリアの御心はあなたたちの願いの声に耳を傾けてくださいます。
《御父と御子と聖霊の聖三位一体、あなたを心の底から礼拝いたします。神を侮辱した暴行、冒とく、無関心の償いのために世界のすべての聖櫃に現存されるイエズス・キリストの尊い御体と御血と魂、そして神性をあなたにささげます。その至聖なる御心とマリアの汚れない御心の無限の功徳によって哀れな罪人の回心をあなたにお願いいたします。》
[天使はこの祈りを、地にひれ伏し三回繰り返した]
私達は、この天使の祈りの姿勢、天主に向かう時の姿勢に注目すべきなのではないでしょうか? この天使の姿勢は、果して「大袈裟なもの」「過剰なもの」と言われるべきものなのでしょうか?──本当に?
天主の天の御稜威の玉座のまわりでは、どうなっているんでしょう?
天使は、私達より智慧においても霊魂の清さにおいても遥かに優れた存在です。私達より遥かに神に親しく近しい存在です。その彼らが、跪くことはもちろん、地にまで頭を下げ、ひれ伏してさえいます。
他方、彼らより数倍数十倍劣っている筈の罪人である私達は、今や大抵どんな時にも──聖変化の時にも、御聖体拝領の時にも──立ったままです。
確かにファチマの預言が降りた当時は、戦争中でした。特別な時代でした。
またこの天使自身にとっても、今や聖母から特別の使命を授かろうとしている三人の子供達に、起ころうとしていることの重大性に相応しい準備をさせるための特別な瞬間でした。つまり、天使としては「責任重大」な瞬間でした。
だからこそ、この天使はこれほどまでに天主様にひれ伏したのでしょうか?
つまり、「ふだん」はそうでもないわけ?(笑)
いいえ、おそらくその祈りの姿勢は始めから、そして常に、彼自身のものであったろうし、またこの時、明かに、三人の子供達に「祈りの模範」を示すためでもあったに違いありません。
「時代」のことを考えてみます。私達の時代は、ファチマの牧童達の時代と比べて、少しでも戦争の脅威から遠ざかった時代でしょうか?(昨今、その脅威はますます大きくなっているように見えますが。)共産主義の誤謬が小さくなった時代でしょうか? 少しでも罪が減った時代でしょうか?
答えは、疑いもなく「ノー」の筈です。「ノー。そんなことはありません。きっと遥かに彼らの時代以上です」
それなのに、やっぱり私達は、神の御前に跪きもせず立っているのでしょうか? 司祭は、「そんなもの、個々人で、心で跪けばいい話だ」と言うのでしょうか?
そうだとすれば、私は、その司祭は、時代や罪に対する認識の絶望的な甘さ(盲目さ・鈍感さ)と、カトリック信徒に対する指導性のなさにおいて、非難に値すると思います。(正確に言えば、私に彼らを非難する資格はありませんが。)
この天使によって御聖体を授けられたルチア、ヤシンタ、フランシスコにとって、この時立ったまま御聖体を拝領することは可能なことだったでしょうか?
天使は、場合によってはこの子供達に、次のように言った可能性もあるでしょうか?──「必ずしも跪かなくてもいいのです」
自分が顔を地面まで下げ、ひれ伏して天主を礼拝し祈りを捧げている時に──その直後に──子供達に対しては「あなた方は必ずしも跪かなくてもいいのです」などと、彼が言うか心の中で思うかする可能性は、少しでもあったでしょうか?
私は、「そんな可能性なんて全くない。考えられない」と思います。
そして次に私達が自らに問うべきは、この質問です。
「彼ら三人の子供達の立場と、御ミサ毎に御聖体を拝領する私達の立場は、違うものだろうか? それとも、基本的に同じものだろうか?」
私は、「明らかに同じものだ」と思います。
私達の御聖体拝領の時、もし天使達が私達に付き添っていれば、あるいは天使達が祭壇の回りに集まっていれば、彼らはどのような体の姿勢を取っているでしょうか? 私達と並んで、立っているのですか? 聖変化の時も、立っているのですか?
ファチマの天使の御様子からしても、そんなことは全く考えられないことだと思いませんか?
「天使には体などないのだ」などと言わないで下さい。そのように言う人は、話の筋とその意義・目的の分からない人です。生きた人間にとって或る種の表現法が持つ精神的な意義・価値というものが分からない人です。
そしてまた「天使の体」は単なる言葉の表現法にとどまりません。昔の公教要理は次のようにハッキリと言っています。
「天使はどんな姿・形をしていますか。」
「天使は人間の感覚でとらえることのできる姿・形を持っていません。天使は純粋な霊ですから、体に結ばれていなくても存在できるからです。」
「それでは、なぜ天使に姿・形を与えてあらわすのですか。」
「天使に姿・形を与えてあらわすのは、私たちの想像力を補うため、また、聖書にあるように、何度もこのような姿・形をして人間の前に姿を見せたからです。」
天使というものが人間に何事かを伝えるために、時に霊である自分に人間の目に映ずる形象を与えることは疑えないことです。天使はその程度の造形力は持っています。
ファチマの天使も、私達の想像力を補いつつ、形というものを通じて、私達に何か精神的・霊的に重要なことを教えていたのではないでしょうか?
2006/09/04
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