跪きは「単なる形」でしょうか?
信者さんの中にも、この聖体拝領の際の跪きの問題を「どちらかというと《形》の問題であり、信仰の本質そのものではない。信仰は何よりも《心》の姿勢の問題であるから」と受け止める方がおられるようです。そして、「そのような《非本質的》なことで司牧者と諍いのようなことになるなら、それは残念なことであり、本来避けるべきことである」と。
しかし、跪きは本当に私達信仰者にとって《非本質的》なことなのでしょうか?
私は二つのことを考えます。
「御聖体とは私達にとっていったい何なのか」ということと、
「司祭にとって聖座とは何なのか」ということです。
私達にとって 御聖体 とはいったい何なのか
私はこんなふうに感じています。あくまで私個人の感じ方であり、誰に押し付けるわけにもいかないことはわかっていますが、書いてみます。
  1. 私達は御聖体について「聖変化によりその全実体が主イエズス様の御からだと御血そのものに変わる」と教えられています。そうであれば、スリッパを触ったままの手では触れられないなどということは、あまりに当然のことのように思われます。
  2. この秘蹟、この恵みは、主イエズス様が、あのような苦しい御受難と御死去を通して人類の救われの為に獲得して下さったものです。本来、「血によってもたらされたものは血によって受けなければならない、あるいは返さなければならない」かも知れません。それを考えると、突っ立って受けるのはいかにも相応しくないことだと思うしかありません。本来、この恵みは、それほどに重いものなのではないでしょうか? 主イエズス様の御血の重さがかかっているものではないでしょうか? 私には、何としてもそうとしか思えないのです。
  3. 聖人達の礼拝の姿勢。彼らの御聖体に対する気持ち。それをあなたは見たでしょうか? 彼らはもちろん、彼らの時代の習慣の中で、御ミサの中で跪いて御聖体を受けました。けれど、それでは、彼らは人に勧められれば何の疑問もなく、立って御聖体を受けたでしょうか? 彼らはそれを喜ぶでしょうか? 彼らの心を見る時、私にはどうしてもそう思えません。
    そして、私達は、きっと大抵、霊魂の質(出発点)において彼らより数段落ちる者です。彼らの心に見倣うこともせず、従って御聖体を突っ立って受けることに何の抵抗も覚えないような心性を持っているのであれば、彼らに近づくことなどほとんど不可能なことかも知れません。彼らは公教会の実りであり宝であり、私達の指標であり私達の先生ではありませんか? それに倣おうとしないなんて、考えられないことだと思います。少なくとも素直なことではありません。
  4. これは蛇足ですが、私は若い頃、ある異教の信仰の世界にいました。「神」という観念とお付き合いするのはカトリックが初めてではありません。もちろん、その宗教は今ではまったく信じていませんが、しかし異教からまったく学ぶことはなかったかと言えば、そうではないような気がするのです。異教であれ、誤認して何かを「神」と思ったのであれ、とにかくその世界にあっては、彼らはとても礼儀正しく、神経を使って、その信仰の的に向かっていました。それ故、「神様に対してご無礼」という感覚は、いつしか私にとっても親しいものになりました。そのため、カトリック教会に足を踏み入れた時、その聖なるものに対する弛緩した態度には驚かされました。異教の信仰を営んでいる時から、私は聖母のお恵みによって(だと思います)「カトリックの御聖体やロザリオというものは《特別中の特別》のものだ」と思っていたからです。
司祭にとって 聖座 とは何なのか
この問題、御聖体拝領の際の跪きの問題、もっとはっきり言うなら「跪いた信者への司祭による聖体拝領の拒絶の問題」は、《単なる形》の問題とされるべきではありません。何故なら、聖座の次のような言葉があるからです。
  1. ひざまずいて聖体を受けたがっていたり、立って受けたがっていたりするという理由だけで信徒が拝領を拒否されるのは違法なこと(not licit)です。(典礼秘跡省『指針 あがないの秘跡』第91項)
  2. 当省は貴方の国の司教協議会が求めた「人々が聖体拝領の際に立つこと」という規則に対して認可を与えはしましたが、その規則は聖体拝領の際に跪くことを選ぶ信者達が聖体拝領を拒否されないという条件のもとで認可されたものです。まったくもって、信者は、聖体拝領の為に跪いたからといって、不従順であるとか不法な行動を取ったとかいう非難を負わせられるべきではありません。(典礼秘跡省からアメリカへ
そして更に教会法が次のように言っています。
  1. ローマの教会の司教は、司教団のかしらであり、キリストの代理者、かつこの地上における普遍教会の牧者である。このローマの教会の司教は、主が第一の使徒であるペトロに特別に委任し、かつその後継者が継承すべきものとして存続する任務を有している。したがって教皇は、その任務からして教会の最高、十全、直接かつ普遍の通常権を有し、常にこれを自由に行使することができる。(331条)
ですから、司祭が跪いた信者に御聖体を与えることを拒否したり、あるいは「あなたが跪けば私はあなたに御聖体を与えません」と公言する時、それは「その司祭は教皇また教皇庁の首位性を公的に否定している」ということにならないでしょうか。そしてこの「聖ペテロの首位性」をお定めになったのは主イエズスではないでしょうか。
  1. 私はあなたにいう。あなたはペテロである。私はこの岩の上に、私の教会をたてよう。地獄の門もこれに勝てないだろう。私は天の国の鍵をあなたに与えよう。あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ、あなたが地上でとくものはみな、天でもとかれるだろう。(マテオ16:18-19)
司祭はこれを何と理解しますか?
くどいですがまとめると・・
司祭が、聖座の言葉に拘わらず、教会法の言葉に拘わらず、また主の御言葉に拘わらず、「それでも私は、あなたが跪いた時、あなたに御聖体を与えません。聖座が何を言おうと、私は気にしません」と言うのなら、それはただ聖体拝領の問題ではなくて、司祭による使徒座の首位性の否定のことであり、教会の聖なる秩序の否定のことであり、教会を支え保つべき司祭職という彼の立場を考えれば、それは「否定」を超えて積極的な「破壊」ですらあるのではないか、ということなのです。
以上のような意味合いにおいて、私は「御聖体拝領の際の跪きの問題、司祭によるそれの拒絶の問題は、単に形の問題ではない」と申し上げます。
2006/06/18
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