論点 1
私と或る司祭の考え
先日、私が希望する御聖体拝領の際の跪きのことについて、ある司祭と、彼に『指針 あがないの秘跡』の第91項をお見せした上で、話をさせて頂きました。そこでの両者の発言の要旨をまとめると、おおよそ次のようになると思います。
[ある司祭]
  • 典礼上のそのような事柄については、日本の司教団にその決定権がある。過去において聖座は、各国の司教団にその権限を与えた。
  • その権限とは、教会法に基づきながらも、各国固有の民族性(文化、慣習など)にふさわしいように、典礼上の諸事項を現実に適応することである。
  • 聖体拝領の際の信者の姿勢については、日本司教団は、過去において、「日本では、ひざまずく代わりに、合掌して深く礼をする」と定めた。
  • この定められたことに対して教会の信徒が等しく従うことが、教会の一致のしるしとなる。
  • であるから、この指導に従わない者は、カトリック信者として御聖体を受ける権利そのものを失うことはないが、現実として、その不従順によりそれを受ける機会を失う。
  • 結論として、日本においては、司祭は、古来からの敬虔さの表示としての跪きという姿勢自体を咎めるものではないが、司牧上の権限として、事実上、結果として、跪いたままの信者に聖体拝領を拒否する権利を持つ。
[私]
  • 日本の司教団が聖体拝領の際の信者の姿勢について、そのように定めていることを、私も知っている。
  • 確かに司祭の言うように、これは日本司教団が聖座から正式に認められた、いわゆるインカルチュレーションに関係した司牧上の権限に立って定められたものであろう。
  • しかし、その国の民族性に適応させた形で定められた典礼上の信者の動作についての規定は、どれほど「絶対的」なものなのであろうか? むしろそれは「標準的」なものではなかろうか。「日本の教会においては、聖体拝領の際、信者はひざまずく代わりに合掌して深く礼をすること。これを標準的なものとする」ということではないだろうか。
  • しかし私から見ると、司祭は「これを絶対的なものとする」と言っているようである。何故なら、彼は「私はあなたが立たなければ御聖体を決して与えない」と言うからだ。
  • これほど絶対的かつ固定的にインカルチュレーション上の取り決めを現実に適用するのは、私から見ると明らかに行き過ぎのように思われる。
2006/04/28
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