論点 2
私達にとって聖座とは?
私が聖座の文書を司祭に差し出したので、彼の聖座に対する考え方が浮き彫りになる結果となりました。
[ある司祭]
  • 聖座がそのような文書を出したということだが、それは本当だろうか。私は確認していない。
  • 次に、確かにそのような文書が公布されていたとしても、その対象に日本は含まれているのか。そうではないに違いない。そうだとどうして言えるのか。
    何故なら、教皇庁は日本の典礼の適応に関しては日本の司教団にそれを規定する全権を与えているからだ。おそらくそれは日本以外の国に対して向けられたものだろう。
  • もし仮に典礼秘跡省の高官がその文書の対象に日本をも含ませつつ書いたおつもりなのだとしても、それはあくまでその人の「おつもり」であって、その人のお考えである。人が何を考え何を言うかなんてわかるものではない。あなたにはわかるか。
  • そもそも日本の司教団にとって教皇庁の人達は「兄弟」であって、会社の上司のようなものではない。そんな「封建的」な時代は終わったのだ。確かに彼らが各国の司教団に対して命令的な、あるいは指示的な言葉を発しているように「見える」ことがある。しかしそれとて彼らは兄弟として私達に命令しているのだ。あなたは何をそんなに驚くのか。あなたは人が誰かに対して「兄弟として命令」することがないとでも思っているのか? あなたは何故そんなに言葉にこだわるのか。
  • 聖ペテロは使徒の中の特別の存在であったわけではない。彼は兄弟の一人なのだ。同様に教皇様も兄弟の一人である。各国の司教様達と兄弟の関係にあるのだ。何故なら彼自身言っているではないか、「私はローマの司教である」と。違うか? それにそもそもイエズス様からして「これからはあなたがたを友と呼ぶ」「私は仕えられるためでなく仕えるために来た」と言っているのだ。それ故私達は互いに協力し合う兄弟であって、私は奉仕者であり、教皇も奉仕者なのだ。
(この司祭の発言の詳細 司祭と面談2 司祭と面談3 司祭と面談4
[私]
  • 私の理解では、教皇庁は日本の典礼の適応に関して日本の司教団にそれを規定する「全権」を与えていない。典礼の問題に限らず、教皇庁は常に各国司教団の上に立つ存在だ。典礼上の作法の適応に関してであれ、ミサ典文の母国語への翻訳に関してであれ、各国司教団は教皇庁に「承認」を求めて「承認」を得なければならない立場にある。
  • 主イエズス様が使徒の中から聖ペテロを特別にお選びになり、「あなたはペトロである。私はこの岩の上に、私の教会をたてよう。地獄の門もこれに勝てないだろう。私は天の国の鍵をあなたに与えよう。あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ、あなたが地上でとくものはみな、天でもとかれるだろう」とおおせになったことを、私達は知っている。これが教皇位とその権威・権能の制定を意味していることは、私達にとってあまりに明白なことではないか?
  • 教会法は何と言っているか? 第331条にはこうある。
    「ローマの教会の司教は、司教団のかしらであり、キリストの代理者、かつこの地上における普遍教会の牧者である。このローマの教会の司教は、主が第一の使徒であるペトロに特別に委任し、かつその後継者が継承すべきものとして存続する任務を有している。したがって教皇は、その任務からして教会の最高、十全、直接かつ普遍の通常権を有し、常にこれを自由に行使することができる。」
    これを何と考えるか? 教会法も古びて使い物にならなくなり、無視してよいものになったのか? それとも別の何かウルトラQな読み方があるのだろうか?
  • ここにきて、私にとって跪きの問題は単に跪きの問題でなくなった。
    司祭が、これほどはっきりとした聖座の意向を、信者である私の目の前でこれほどはっきりと否定するとは、これは明らかに教皇様の首位性の否定であり、聖なる教会秩序の否定ではないだろうか? その公言ではないか?
そして・・
  • 私達は会社組織が様々な地位や命令系統を含んでいるからといって「封建的」とは言わない。また、それが社長を頭に持っているからといって、ことさらに「中央集権的」とは言わない。
  • 「ある人が誰かに対して『兄弟として命令』することがあり得る」という司祭の考え方に、やはり私は驚かざるを得ない。そしてそのように驚くことが私が「言葉にこだわり過ぎている」からだとは、私は言う言葉をなくす。
  • 主が「あなたがたを友と呼ぶ」とおおせになられたことを、そのように平板に受け取るのは大変失礼なことである。主イエズス様は初めから単純に私達の「友」であられたわけではない。あくまで人類に対する御憐れみによって、御自分を低くされたのだ。御本質はあくまで天主であり、「王たるキリスト」という祝日がある通りに、王である。
    本来天主であられ王であられるお方が人類に対する愛のために身を低くされた。私達を──あるいは司教達を──「友」と呼ぶほどに、そして御自分をいけにえとして捧げるほどに、身を低くされた。これは普通のことではない。司祭はこの「普通でなさ」に着目して(着目させて)、「それだからこそ」と教えるべきである。「それだからこそ、イエズス様には無限の御功徳があるのであり、私達は深く感謝しなければならない」と。
    そのような文脈でこそ教えるべきである。ただ「神は愛である」と教えるだけでは足りない。
    これは常識ではないか?
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