私の考え
指針 あがないの秘跡
第91項 聖体を配るにあたっては「聖務者は、適切に秘跡を求めるものに対し、そのものがふさわしく準備しており、かつ教会法上秘跡の拝領を禁じられているものでないならば、それを拒んではならない」ということを記憶しておくべきです(177)。ですから、洗礼を受けていて、教会法上問題のない信徒はみな、聖体拝領を許されなければなりません。したがって、例えば、ひざまずいて聖体を受けたがっていたり、立って受けたがっていたりするという理由だけで信徒が拝領を拒否されるのは違法なことです。
これは明確な表現です。そして私は、これは本来は議論など要しない「常識」の部類のことでさえあると思っています。ごく普通に考えられるべきもの、私達の信仰にとって当り前な、健全さと平和と安心をもたらすもの、ごく当たり前の共通認識の一つにするべきもの、そんなふうに感じています。
インカルチュレーションとは、本来何のためのものだったのでしょうか?
それはもちろん、良い意向のもとに考えられたものの筈でした。教会ではそう言われています。
でも、ここに来て、“ある司祭” においては、それはかなり「全体主義的」な様相を強めて来たように、私には思えてなりません。
それは健全さと、バランスと、本来の目的を見失った状態のように見えます。
私には、インカルチュレーションの上で取り決められたことは、その国での「標準」を意味しているもので、決して「跪く信者に御聖体を与えない」ことを正当化するものではないように思われます。聖座は言います、「ひざまずいて聖体を受けたがっていたり、立って受けたがっていたりするという理由だけで信徒が拝領を拒否されるのは違法なことです」。「違法(not licit)」は決して弱い言葉ではありません。例外を認めるような表現とはとても思えません。
今迄、聖座からこれほど単純にして明確な指示が出たことはなかったと思います。それはおそらく、他の国の教会でも同様のことがあり、つまり跪くことで聖体拝領を司祭から拒否される信者達がいて、彼らが聖座に嘆願書を出しているからだと思います。
聖座は「インカルチュレーションの上での取り決めは、ただ標準的なものとするにとどめなさい。跪いた信者から、聖体拝領の権利を事実上取り上げるようなことは明らかに行き過ぎです」と言っているように思われます。
ところが “ある司祭” は、この聖座の明らかな勧告を目の前に置いてすら、私に、「あなたは教会の一致のしるしである共通の動作に従わないというのだから、御聖体を受けることが不可能になっても仕方がない」と言い続けています。しかし「一致のしるし」とは本来、その名のごとくひとつの「しるし(sign)」であって、「標準的なもの」というほどのものではなかったのでしょうか? 確かにある程度は大事なことです。しかし、主に対して謙遜に跪きたいと願う信者から、事実上聖体拝領の権利(権利で悪ければ機会)を奪うほどの力を、それに持たせるべきでしょうか? もし「しるし」にそれほどの力を持たせたとすれば、それは場合によっては「しるし以上のもの」を傷付ける可能性があるのではないでしょうか?「しるし以上のもの」とは何でしょう。主に対する信者の思いです。主に対する謙遜の心、愛の心です。主に対して謙遜を尽くし、心でも体でもそれを表現したいという、真面目な、心からなる願いです。
そして一方、跪きは「教会の一致のしるし」に多少変質を加える可能性はあるとしても、どう見ても「教会の一致そのもの」を壊すほど破壊的なものではないように思われます。ある者が立って受け、ある者が跪いて受けることが、教会の分裂を生むでしょうか?
“ある司祭” は、私の「主に対して謙遜を尽くし、心でも体でもそれを表現したいという、真面目な、心からなる願い」(自分で言うのも何ですが)を、「個人的なわがまま」として、「動作を通して表現され宣言されるべき教会の一致のしるし」のために、あるいは「直属の長上に何としても従うべき」という掟のようなもののために、私達の信仰にとって最も中心的な場所であるミサ聖祭から追い出そうとしています。
司祭は「一致のしるしを乱すことは結果として聖体拝領の機会を失わせるほどに許されざることだ」と言いますが、彼は「一致のしるし」のために、この信仰における信者の最も根本的な権利である「主イエズスとの一致そのもの」を迫害しているのではないでしょうか? 迫害という言葉が強過ぎるなら、あるいは失礼なら、お詫びした上で「本質よりもしるしを優先している」と言い換えます。跪きはそれほど悪いことですか? むしろ神への姿勢としては最上のものではないですか? それ故、“ある司祭” の感覚というのは、かなり本末転倒の気味があるのではないでしょうか? 彼の感覚は司牧者として本当に「健全である」と言えるのでしょうか?
この問題について典礼秘跡省がアメリカの司牧者や信者に書き送った書簡があります。“ある司祭” は「それはあくまでアメリカに宛てられたものであって日本に対してではない」と言うようですが、果してそのような読み方が正しいものであるかどうか、皆さんも読んで感じてみて下さい。
2006/04/28
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