34 ミサ聖祭(真実唯一の礼拝の形式)
神父 
さて、今晩の講義はミサ聖祭に関してです。
青年 
それは有難いです。暫くの間御ミサにあずかったことがありますので、その儀式が全部わかりますと、うれしいです。
神父 
全能の天主は無限に偉大なる御方でありますから、天主を完全に礼拝することは、とてもできるものでないということは、あなたにもおわかりでしょう。
青年 
もちろんです。
神父 
そして、天主は絶対的に優れたお方でありますので、天主に相当する敬意は、天主以外のものに私達が払う敬意とは性質の違ったものでなければならないように考えられます。
青年 
それももちろんのことです。全能の天主に向けられる礼拝は、質においても量においても、最高のものでなければなりません。
神父 
あなたが直ぐそうおわかりになって、うれしいです。私達は他人に対し身分に応じた尊敬のしるしを与えるのが普通です。一般の人には、ただ時候の拶挨をするだけですが、友達にはその手を取って、家でもてなします。国の元首が私達の町に来るようなことがありますと、私達は町を飾って、歓呼してこれを歓迎します。しかし、これは人間を尊敬しているに過ぎません。王や大統領よりも遥かにすぐれた天の天使に対し、私達は更にどんな大きい尊敬を与えることでしょう? しかし、最高の天使や天使全部の集りも、天使を作り給うた天主に比較しますと、その影が薄れてしまいます。天主の御霊威には限りがありません。ですから、天主は限りない価値を持った礼拝によって、初めてそれ相当に崇められ給うことができるわけです。これは人間の考え出し得るものではありません。人間最上の献げ物も礼拝も、有限の域を出ることは決してできません。ですから、私達は必ず、天主の御子キリストがこの世を御立ち去りになられる前に、聖三位をふさわしく礼拝する一つの形式を、主の完全無欠な宗教のために御制定遊ばされることを期待します。
青年 
しかし、キリストは十字架の上で御自分の命をお捧げになった時、聖三位をそういうふうに完全に崇められたのでしょう?
神父 
そうです。しかし、主は主のお作りになった宗教の中で、聖三位がふさわしく、世の終りまで毎日礼拝されることを望まれました。地においても天におけるが如く、いつまでも天主の崇められ給うことを主は望んでおられます。この完全な礼拝は、実は十字架上で始められたのではありません。主の御死去の前晩の「最後の晩餐」の時を以って始まります。これは、キリストがこの世で御手ずから捧げられました一番最初のミサ聖祭で、主が、主の代理人である使徒と、司祭(即ちこの聖祭を執行することを目的に使徒から叙品された人々)を通じて毎日奉献されている多くの御ミサの始りです。
主は最後の晩餐の時に、「是、わが体なり」と、パンと葡萄酒を主の御体と御血に変える御言葉を宣べられましたすぐ後で、更に、使徒達に「是を行え」といわれました。パンの形の下にキリストの御存在をもたらす天主の道具に使徒達はなったのです。こうして、主は最後の晩餐の時に御父に献げられましたと同じ献げ物を、御自らくりかえされ、そして、私達に代って無限の価値がある礼拝をなされるのです。天主にして人なるキリストが、天にまします御父に御自らを献げ給うというこの完全な犠牲ほど意義深い犠牲は、他にありません。
創世記に「いと高き神の司祭」メルキセデク(創世記十四ノ一八)は、パンと葡萄酒の犠牲を捧げていたということがのっています。ダビド王はキリストのことを「メルキセデクの状(さま)にひとしく永遠に司祭」(詩篇百九ノ四)になり給うと予言しました。又、聖パウロはキリストのことを、メルキセデクの犠牲に前兆された司祭の職を行い給う者であるといっています(ヘブレオ七)。この司祭職はキリストによって最後の晩餐の時に始められ、再び主の来り給うまで(即ち世の終りまで)続くことになっています。ダビドはキリストはこの「永遠」の司祭になり給う、と予言しました。又、別の予言者は、この犠牲はいずこにても献げられん、と予言しました(マラキア一ノ一一)。聖パウロは人々の注意をここに向けさせて、キリストのこの司祭は「不朽」であると言っています(ヘブレオ七ノ二四)。
青年 
この礼拝の式を「ミサ聖祭」というわけですね?
神父 
そうです。世の始めから犠牲を献げて礼拝が行われたのは、神を崇め奉る様式でした。犠牲の祭は司式者によって神だけに献げられます。そして、神が万物の創造者で、その主であることを認めるために、司式者が供え物を殺したり壊したりするのです。
御存じのように、犠牲は他の礼拝の形式とは異り、創造主に対する被造物の関係を暗示しています。私達が一切のものを神に負い、罪のために当然亡ぶべきものであるということを表わすために、犠牲の祭で、目に見える物を捧げてこれを壊すのです。旧約の祭は天主御自らがお定めになりました。これは新約の偉大な犠牲の象徴、前触れなのです。キリストが「神の小羊」と呼ばれたわけは、旧約時代に人々が、天主が人の罪を負えるものと羊を見給うて、人の生命の代りに羊の生命を受け給わんことをお祈りして後、毎日小羊を天主に献げたからです。天主の御眼から見れば、その小羊は人類の罪の重荷を負うて本当の罪人の代りに献げられ給う御愛子キリストの象徴だったのです。ですから、旧約の祭りは嘉納されたのです。
青年 
成るほど、この血を流す犠牲はカルワリオ山のむごいキリストの御死去を指したように思いますが、ミサ聖祭とどういう関係があるのか、まだ私にはわかりません。
神父 
そうでしまう。私は天主を礼拝する真の形式は犠牲によるということしかまだお話しませんでした。旧約時代の犠牲には、血を流すものと流さないものがありました。
青年 
一寸説明していただいただけで、よくわかりました。先ほどまで私は、カルワリオ山のキリストの御死去の結果、人類は天主と和解し、全能の天主の正義に相当する無限の礼拝を天主に捧げ得るようになった、とばかり思っていました。
神父 
罪の贖いをするというこの犠牲の効果に関する限りは、あなたのお考えで正しかったのです。しかし、キリストは何よりも第一に、御父の御栄えのためにキリスト教を御定めになったのですから、天主が世の終りまで、ふさわしい尊敬を毎日お受けになられるように、犠牲の聖式をも制定されたのです。キリストはミサ聖祭においても、カルワリオ山におけると同じように、天主を崇め、御恵みを感謝し、すべての人の上に御賜物を与え給わんことと、天主に背いて行われた罪に対し天主が御自らの正義を満足されんことを願いつつ、この犠牲を奉献なさるのです。そしてこの壮大な目的はミサ聖祭によって可能になりました。カルワリオ山の犠牲の御功徳は、このミサ聖祭を通じて、永遠に個々の霊魂に及ぼされています。
青年 
神父さん、こういうことを実に多くの人が全然知らずにいるということを考えますと、実に残念ですね。実際御ミサの度毎に、天主は十字架上の犠牲と同じ価値のある礼拝を以って崇められています。天主の御愛子そのものが礼拝しておられるのですから、献げ物が血を流しているか、いないかということは、第二の問題です。こういうふうに、御ミサの犠牲と十字架上の犠牲におきまして、主役の司祭と犠牲はイエズス・キリストで同一です。礼拝の場合先ず考えるべきことは、「誰が礼拝するか?」ということですが、それはどちらの場合でもキリストです。
神父 
その通りです。どの御ミサの場合におきましても、主役の司祭は、叙品された司祭職を通じて、十字架上で犠牲にされました御体と御血を、天にまします御父に献げ給うイエズス・キリストです。
青年 
十字架上の犠牲と御ミサの時の犠牲との間には、なにか違いがあるのですか?
神父 
犠牲を献げる方法が違っています。十字架上の場合は、キリストは肉体の血を流し給い、そして殺されました。しかし、御ミサの時は、肉体上の血を流し給うことも、死に給うこともありません。それはキリストは最早今日では死に給うことはないからです。十字架の上でキリストは私達のために御功績をおたてになり、罪の贖いをせられました。しかし、御ミサの時は、十字架上のその御死去の御功徳と罪の贖いを、私達へ及ぼして下さるのです。
このカトリックの礼拝の中心的な行いに対する理解と認識が深くなって行きますと、御ミサにあずかる際に、尊敬や注意信心も同じように深くなって行きます。御ミサにあずかる一番いい方法は、キリストと主の代理者である司祭と一つになって犠牲をお献げし、そして、聖体の中にましますキリストを拝領することです。これは別の講義でもっとくわしくお話します。
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