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両形態の聖体拝領について
1. セルフ・インティンクションは禁じられている
「両形態の聖体拝領は」というのを主語に「いい」とか「悪い」とか言えるものではありません。一口に「両形態の聖体拝領」と云っても何種類かあるからです。言うなら、「両形態拝領の方法のうち、この方法は認められている、あの方法は認められていない」ということになる筈です。
「何種類かある」としても、大別すれば二種類でしょう。『ローマ・ミサ典礼書の総則』(PDF)の中、両形態拝領を扱った箇所に次のようにあります。
286 御血の拝領をカリスから飲んで行う場合、拝領者はキリストのからだを受けた後、カリスの奉仕者の前に行って立つ。奉仕者は「キリストの血」と唱え、拝領者は「アーメン」と答える。奉仕者はカリスを拝領者に差し出し、拝領者は自分の手でカリスを口にもっていく。拝領者はカリスから少量を拝領し、カリスを奉仕者に返してから戻る。その後、奉仕者はカリスの縁をプリフィカトリウムでぬぐう。
287 カリスからの拝領が御血にパンを浸して行なわれる場合、拝領者はパンの小片を入れた容器を持つ司祭に近づき、口の下に拝領用の受け皿を添える。司祭の脇にはカリスを持つ奉仕者が立つ。司祭はパンを取り、その一部をカリスに浸し、それを示しながら、「キリストのからだと血」と言う。拝領者は「アーメン」と答えて、司祭から秘跡を口に受けた後、戻る。
私自身は286番のやり方に反対です。カリスは「聖なるカリス」であって、奉献された手を持つ者(司祭)以外は触れるべきではないと信じるからです。
287番のような御血にホスチアを浸して拝領する方法を「インティンクション(Intinction)」と言います。この方法がもし287番に示されている通りのやり方で行なわれるなら、問題ないのではないかと思います。
しかし日本の教会の中では、かなり長い間、「セルフ・インティンクション(Self-Intinction)」が行なわれていたようです。つまり、信者自身がホスチアを御血に浸すやり方です。
そして、セルフ・インティンクションにも二種類のやり方があるようです。
1. 信徒が御聖体を手に受けて、次いで自ら、台の上に置いてあるカリスの中の御血にホスチアを浸す方法
2. 信徒が御聖体を手に受けて、次いで、奉仕者がこちらに向けて持っているカリスの中の御血にホスチアを浸す方法
日本の教会では 2 の方が一般的なようです。しかし、このどちらもがセルフ・インティンクションです。『総則』に明示されている方法(司祭にホスチアを浸してもらう)とは違います。
そして、典礼秘跡省は2004年に公布した『指針 あがないの秘跡(Redemptionis Sacramentum)』の中で次のように言っています。
104 拝領者は自分でホスティアを御血に浸すことや、御血に浸されたホスティアを手で拝領することを許されてはならない
[104.] The communicant must not be permitted to intinct the host himself in the chalice, nor to receive the intincted host in the hand.
注)この記事を書いた当初(2006年7月)、日本語訳は信徒有志から成る「エウカリスチアの会」のものを使わせて頂いてましたが、その後2007年8月に中央協議会の翻訳が出ましたので、それに差し替えました。
典礼秘跡省のこれは一つの「明確化」でした。典礼秘跡省は「言う必要」を感じ、言うに「至った」のです。というのは・・・『総則』の中では「両形態拝領の方法はこれこれとする」という言い方しかされていませんでした。「これこれは駄目」という言い方はされていませんでした。しかし本来はそれで十分である筈なのです。事は「聖なるもの」に関することですから、人は普通、「両形態拝領の方法はこれこれとする」という言い方がされていれば、それ以外のことは考えないものです。しかし第二バチカン公会議以降の各国司教に於いてはそうではなかったようで、彼らは「言及がない事 = してよい事」としてしまったようです。「総則にもどこにも言及がない事 = 我々の裁量でしてよい事」と。しかし、各国司教がそんな態度であれば、典礼規則は「禁則」の羅列である必要が出て来ます。
ともかく、2004年の典礼秘跡省の『指針 あがないの秘跡』によって物事が明確化されました。
セルフ・インティンクションはしてはいけないものです
2. 日本の教会は日本全体としてローマの指示に従う
『指針 あがないの秘跡』が出てからも、日本の教会は暫くの間、セルフ・インティンクションを続けていたようです。
しかし、2009年7月、ようやく次のような通達が出されました。
ARCHDIOCESE OF OSAKA
カトリック大阪大司教区
Curia Osakensis
Prot.No.528/09
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2009年7月9日
大阪教区の皆様
大阪大司教  池長 潤
【信徒の両形態による聖体拝領の方法について】
 教区の神父様、修道会・宜教会の方々、そして信徒の皆様に、両形態による聖体拝領の方法について、お知らせいたします。
 日本のカトリック教会では、これまで両形態による聖体拝領の方法として、司祭や聖体授与の臨時の奉仕者から与えられたご聖体を、自分で手で持っておん血に浸して拝領 (intinctio) したり、祭壇上に置かれたカリスを拝領者が自分で手にとって拝領をする方法が比較的一般的に行われてきました。日本カトリック司教協議会・典礼委員会は、この方法を「日本の適用」として、再三、引き続き特別な許しを与えて頂きたいと、教皇庁・典礼秘跡省にお願いしてきました。
 けれども、典礼秘跡省は、ご聖体もおん血も司祭や任命された奉仕者が、拝領者に手渡し授けることが、典礼上、定められた大切な規定として厳密に守らなければならないとの見解を強調し、2009年4月1日に駐日教皇大使を通して届けられた書簡においても、そのことが明示されました。日本カトリック司教協議会はこれを受け、今年6月の定例司教総会で、日本全体でローマの指示に従うよう確認いたしました。
 つきましては、7月9日付けのこの手紙が届いた日から、大阪教区のすべての教会や修道会・宣教会でも、信徒 (修道者を含む) が両形態による聖体拝領を行なう場合、以下の方法に従って行って頂きたくお願いいたします。
 (1) 司祭や任命された奉仕者から直接ご聖体およびカリスを受け取って拝領する。
  いったん受け取ったご聖体を、自分でおん血につけて拝領しない。
 (2) ご聖体をおん血に浸して拝領 (intinctio) する場合は、司祭や任命された奉仕者が直接拝領者の舌の上に置く。
役務を担う者の思いを謙虚に受け止め、日々主の死と復活を記念する教会が、いつもその永遠のいのちに満たされて歩み続けることができますように。
3. 「日本におけるミサ中の聖体拝領の方法に関する指針」
日本カトリック司教協議会からの上記表題の指針(2014年11月30日発効)によって再確認された。
23 両形態による拝領の場合、司式者と共同司式者以外の者は、以下の方法で拝領することはできない
(1)
祭壇上に置かれたカリスを自分の手で取って御血を拝領すること。
(2)
カリスの中の御血に自分で聖体を浸して拝領すること
(3)
カリスから拝領した後、拝領者が次の拝領者にカリスを手渡すこと。
4. セルフ・インティンクションが認められない理由
その「理由」について聖座が確かなことを言っている文書を私は見つけていません。しかし、おそらく次の二つの理由によるのでしょう。
1)御血をこぼすと「汚聖」となるから
即ち、大きな教会では何百人という人が毎日曜日聖体を拝領し、平日でも沢山の人が拝領します。もしこの貴い御血が唯の一滴でも床の上や拝領者の着物にこぼれますと、細心の注意を以てその跡を拭わなければなりません。これが葡萄酒の形色で行う聖体拝領に対する実際上の反対論の根拠になっています。
この『教理対話』(原題: Father Smith Instructs Jackson)という本はアメリカのノル司教がおそらくは1940年代にお書きになり、以降長い間ベストセラーとなった要理本です。
次は現代の神父様のお言葉です。
 ミサによって聖変化されたパンとぶどう酒を両形態で信徒が拝領することそれ自体は、それが適時で、適当な方法であれば別に問題はないはずです。
 しかし、場合や事情によって、それらが不適当な方法で拝領されるときには、特に聖血が床面にこぼれ落ちて人に踏まれたりするようなことが起こってくるなら、その拝領の適、不適が指摘されるのは当然のことでしょう。
(…)
 聖体にしろ、聖血にしろ、それがキリストの御体・御血である限り、いかなる場合でも粗略に扱われることは決して許されることではありません。
セルフ・インティンクションに伴う最大の問題は、いつの時代も、そう難しい話ではなく、ごく単純、「御血をこぼす」ということでしょう。
『指針 あがないの秘跡』の日本カトリック典礼委員会訳が出て以降、それでもその指示(104項)に従わず、信者にセルフ・インティンクションをさせている教会に出会ったことがあります。そこでは信者の聖体拝領が始まろうとする時、「御血をこぼさないように気を付けて下さい」とのアナウンスがありました。しかしながら、それがセルフ・インティンクションであれば、御血がこぼれることは避け難いでしょう。どうしてもこぼれるでしょう。ですから、そのようなアナウンスをする教会は、実のところ「信者が万一間違って御血をこぼしても、悪気はないのだから、それは “大変なこと” ではない。神様はお許し下さるでしょう」ぐらいの意識しかないに違いありません。つまり、「汚聖」という言葉を持っていないのです。
2)信者は「受け」なければならないから
セルフ・インティンクションが駄目な理由は、拝領者はキリストの御体と御血をキリスト御自身から来るものとして、叙階された者(the ordained)から受けなければならないからです。
信者は「受け身」でなければならない。「自分で取って」はならない。「与えられ」なければならない。──もっともな理屈に思われます。
しかし、私はある司牧者の方から次のように聞いたことがあります。
確かに、台の上に置かれたカリスの中の御血に信者がホスチアを自分で浸せば(右の1)、それは明らかに「自分で」であろうが、奉仕者がカリスを持ち、それを「提供」の意味をこめて信者の方に傾けて持つ時、その中の御血に信者が自分の手でホスチアを浸したとしても(右の2)、それは必ずしも「自分で」ということにはならないのではないか。聖役に携わっている奉仕者から「提供された」わけだから。──私達の間にはこのような議論があります。
1
2
打ち明けて下さったのですから、こんなことを言ってはアレですが、私は半ば、いえ、半ば以上、呆れて聞いていました。インテリというものは、「典礼学者」というものは、そんなことを “アカデミックに” 考えて下さっているのか、と。・・・率直に言って「下らない」と思いました。
どうして、そこまで無理な解釈をしてまで、自分達の教会の自由性(?)独自性(?)を保ちたいのでしょうか。
これに関して結論はこうである筈です。
信者はキリストから──キリストの代理者、「もう一人のキリスト」である司祭から──秘跡を「受けねば」ならない存在である。だから、もし信者が両形態拝領に与る場合には、司祭が御血に浸したホスチアを口で受ける。それがベストである。
以上により、信者のセルフ・インティンクションは斥けられるべきものです。何やかんやと理屈を付けて再開されるべきものではありません。
日本の神学生の発言(日本の神学校は何を教えているのか?)
http://blog.livedoor.jp/kasahara_7524/archives/51243768.html
この記事によると、日本の「神学生」がこう発言したそうです。
「床に飛び散り、もう頂くことができなくなったぶどう酒は『御血』ではない」
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