エクソシズムの記録
2chに次のようなものが落ちていました。感謝します。
1972年1月、スイスで行われた祓魔式の最中に、カルロ・パスクワレという名の悪魔が、ドイツ語を話す21歳のスイス人男性を通して語った。聖母が彼に次のような驚くべき告白をさせたという。
私は生前何ごとも信じなかった。だから、こんな有様、悪魔として知られる最低の生き物になったのだ。私は悪魔だが、低級ではなく高級な悪魔だ。私は芸術家だった。ヴァレンチオに並ぶ画家だった。私に絵描きを教えたのは奴だ。私はパリに絵を習いに行き、そこで死んだ。私は悪魔を信じていたが、悪魔がこれほど人間に大きな影響を与えているとは知らなかった。
私は無神論者だったが、メーソンではなかった。こんな有様になったのは、宗教生活を軽く見ていたからだ。私は、神は深刻で(厳しく)はないと思っていたが、まったくの誤解だった。誤解のおかげで、こんな惨めな状態にいるのだ。これが1000年でも3000年でもなく永遠に続くのだ。そこには終わりはない。ここは時間の止まっている世界。永遠、永遠なのだ。
人は永遠について考えないが、毎日、毎日、それは近づいてくる。あなた方の体は毎日少しづつ死んでいる。目には見えなくとも、あなた方は毎日年をとっていく。月日を重ねれば目に見えてくる。あなた方は確実に老いている。
神なしに生きたとしても、ある程度宗教的になれるかもしれないが、完全ではない。だが、『最高者』は完全を求めている。
これだけは言いたい。私は好き好んでこんな話をしているのではない。それは信じてよい。これを話すのは非常につらい。おまえらが天国の栄光に入る助けになるからだ。それが私を憎悪でいっぱいにする。他の者たちが光を歓び、『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな』と楽しそうに歌う姿には我慢がならない。私がこんなことを言わなくてはならないのは、“最高の女王”がそうさせているからだ。これは苦しみだ。
おまえらに言いたいことがある。不信心な大衆、罪人、情欲を追い求める輩、人殺し、無宗教者のおまえら全員にだ。おまえらは信仰を真面目に考えるべきである。祈りに真剣になるがいい。おしゃべりではなく、祈りが世界を助けてきた。おしゃべりは実を結ばない。私のいうことを信じてよい。
祈りが多くの実を結ぶというのは、おまえたちが祈るときに、われわれがそれを感じるからだ。それが分かるのは、祈りによってわれわれがかき回されるからだ。われわれは非常に神経質になる。世界は救われるのに十分祈っていない。世界の罰は刻々近づいているというのに。それは毎日近づいている。
神としての聖霊(イエズスの霊というだけの意味ではない)を信じない者は、呪われ、追い出され、諸聖人の交わりから除かれる。死んだ不信者のことを言っているのだ。俺は信じなかった、そして今は永遠に呪われている。ああ、僅かでも希望があれば、3000年でもいい! この地獄を出られるなら300万年でもいい。だが、それはかなわぬことなのだ!
神は地球を毎日祝福している。どの生き物も祝福している。だから呼吸ができるのだ。すべてが自動的に行われていると思うな。おまえらの派手な服装、巨大なビルディング、好き勝手なセックス、ポルノ雑誌や汚れた販売所、われわれはそれをたっぷり使ってきた。それを売っている人間どもは悪魔の仕事をしているのだ。「そんなに悪いことではない」というような人間には「とんでもない」と言っておく。
モダニストの司祭たち、やつらはみな地獄で硫黄と火で終わるのだ。私は司祭たちに会っているが、今後はもっと大勢の司祭と会うだろう。一番苦しむのがやつらだ。やつらにはそれだけ大きな責任があるということだ。やつらの一部は、聖変化のときに、イエズスの現存を信じなかったのでここに来た。だが、彼らは毎日聖変化された主を手にしているのだ。主を天にかかげているのだ。そのような“力ある出来事”が現に起きていることを考えもしない者たちがいる。彼らは祭壇の上に神秘なる主が現存していることを信じない。主はいたいと思えばそこにいるのだ。誰をも愛で囲おうとしているのだ。おまえらを天国に導きたいと思っているのだ。なのに、おまえらは気にさえ留めていない。
地上にもう一度戻れるなら、私は神が愛と呼ぶものをおまえらに示して、彼に仕えるだろう。だが、おまえらは何と恩知らずな者たちであろう! 正しくありたいと思うのなら、それを信じたほうがよい。おまえらの刑罰は恐ろしいものになるからだ。おまえらは、決して善行を自慢してはならない。言葉をひけらかしてはならない。他の注意を引こうとしてはならない。それはしてはならぬことなのだ! なんと謙遜は大切であろう。これは常にプライドに打ち勝っている。永遠にそうあり続けるであろう。謙遜は力強い。おまえらの主、イエズス・キリストは全世界で最も謙遜な御者。おまえら司祭たち、俺ははっきりいう。おまえらはもっと祈るべきである。特に、ロザリオ十五連すべてをだ。毎日だ。それ以外、どうして恵みを期待できようか。
これは恐るべき拷問だ。こんなことをみな、おまえらに言わなきゃならないからだ。ああ、喉がガラガラしてくる。おれはこんなことを言いたくはない。もうやめにしたい。だが、言わなきゃならんのだ。
おれは従順にこれを話さなければならない。それは、彼女(聖母)がおまえらが思っている以上に力ある存在だからだ。彼女はおまえらが知っている以上に愛に満ちている。おまえらが想像できる以上に助けてくれるのだ。彼(イエズス)は彼女がいかなるものかをおまえらに語るだろう。彼は彼女を知っている。彼は彼女の中に生き、彼女は彼の中に生きているのだ。彼の心は彼女の心、彼女の心は彼の心なのだ。だが、主の母は一番苦しまれたのだ! おれはこんなことをいいたくはないが、言わなければならない。そうだ、それがおれの喉を締め付ける。おれはこのすべてを言わなくてはならないのだ。本当に言いたくない。
反対する者、愚弄する者、悪魔的なもの全員が二千年間イエスを取り巻いている。彼らはイエスを尊敬していないが、それでも彼は神なのだ。彼は今も生きている。彼は死んで、殉教した体を残したままだ。3日目に甦り救いを与えたからだ。人類にとっての救いだ。だが、彼らはそれを受け取らなかった。彼は愛を与えたが、彼らは愛を返すことなく、憎んだのだ。彼らは彼を呪い、追い出した。彼が好きではないのだ。
おまえら人間どもよ。最高者を愛せ! こんなことを言うのはとても苦しい。おまえらには想像もできんだろう。
もう一ついおう。おまえらが地上で愛するもの。それは消えてなくなるものだ。ただ、最高者の愛だけが永遠に残るのだ。人間どもはあれやこれやのものを持って、幸せだと思い込んでいる。ああ、車があって、仕事があれば大喜びさ。いい生活をしていれば。楽しくなって祝福されていると思い込む。バカバカしいぞ。そんなのは嘘なのだ。本当の幸せ、本当の祝福は信仰から来る。それは永遠に満たされるものなのだ。そうすれば、良い人生を終えたときに永遠の至福に入れるのだ。
人間どもは神について真面目に考えてはいない。彼らは神を地上のことを気にかけぬ亡霊か何かのように思い描いている。それは誤りだ。神は日夜、民の間におられるのだ。神はどこにでもいる。おまえらが罪を犯し、盗みを働き、生殖に対して罪を犯している場にもだ。これは最高者がお嫌いになることなのだ。彼はいと清き、いと恵み深き方であられる。
おまえらは俺を信じてよい。俺がこれを言わなければならないときには、大きな苦しみになるのだ。苦しみ、恐ろしい苦しみだ。俺はむしろこういいたい。霊魂は呪われよ。何故あいつらが俺らより恵まれているのか。罪の中でめくらになるがいい。どんなことでも盲目になるがいい。
おまえらが神のために働けば、それを終えたときには、おまえらは永遠の至福をもらうだろう。その時には、最高者の大いなる愛の愛を知り、味わえる。
神はどこにでもいるのだ。おまえらが純潔にそむく罪を犯している場所でも、殺している場所でも。神は忍耐して見ているが、いつか地上に怒りを注ぐだろう。そうなるのは、神は死んだとおまえらが叫ぶときだ。だが、神は生きているのだ。おまえらはそれを見る。
女王は天国にいるし地上にもいる。イエスが地上と天国の両方にいられるのと同じだ。それは大いなる奥義だ。理解している者は多くない。司祭の中にはこれを理解してものもいるだろう。だが、司祭さえ十分には理解していないのだ。なぜなら、彼らは十分に謙虚ではないからだ。司祭は恩寵に対して『はい』ということが少ない。
どんな恵みの神殿も馬鹿にする司祭がいる。彼らは信者が巡礼をするのを禁止する。だが、そうすることによって彼らは大きなものを失うのだ。彼らは苦しまなければならない。あのような恩寵の場から人々を遠ざけるからだ。恩寵の場で信者の心にそそがれる大量の恵みは、とても言葉にはできない。
恵みは人間の上を流れる大河のようだ。彼らが信心をもっていればだが。神は恵みを与える。おまえらには考えられもしない恵みをだ。だが、おまえらは神のみ心を求めていなければならない。それを願っていなければならない。祈りをしろ。神は恵みをお与えになるだろう。夢にも思わぬような恵みをだ。
他人を羨むな。神は見ている。自分が生きているのを見ろ。おまえらには食べ物が十分ある。おまえらが持っているどんなものも、神からきているのだ。おまえらが自分を創造したのではない。体の内で心臓を打たせ始めたのはおまえらの親ではない。神がそうさせたのだ。恵みなくして天国はない。
慈悲の恵みがなければならない。許しの恵みが。イエスが十字架で死んだ時に、おまえらは最強の恵みを得たのだ。神の王国を求めろ。祈れ。人間どもは神に向かっていない。彼らは神を否定し、馬鹿にしている。俺はそんなことさえしなかった。俺は気まぐれな生き方をしていただけだ。なのに、今では永遠に呪われているのだ。
ああ、苦しい。拷問だ。永遠の苦しみだ。神はなにごとも真剣になされるのだ。われわれがおまえらを誘惑するときに抵抗する力が自分のものだと考えるな。いや、それは違う。それは全能者の力なのだ。清き全能者の聖霊の力なのだ。
おまえらが神を崇めるときに、神は恵みを下さる。神は神の愛でおまえらを点火する。神は神秘家の奥義へおまえらを導く。それはおまらには見えない未知なるものだ。神はおまえらが夢にも見なかった恵みをくれるだろう。恵みはドウェーライムス聖書の一字一句への信仰を深めることに始まる。過去の伝統もだ。
それから、神がおまえらを小さき道具として使うときに、不思議な一致と出来事が起こる。寂しさが来るだろう。それは従順の試験だ。あるいは、他を救うのに神が必要とされる「とげ」が来るだろう。その後に素晴らしいものが来る。バラだ。それは人生の大転換だ。
いい例が、全能者が『天使の中の天使』と呼ぶ聖ヨゼフだ。9ヶ月にわたる激しい頭痛が彼の最後の苦しみだった。だが、彼は毎日天国を見、天使らによって慰められた。苦しみの殉教者は喜び以外何も感じない。鉄板の上で生きたまま焼き殺された聖ローレンスがいい例だ。彼は「こっちは終わった。ひっくり返せ」と言った。それから、火刑にされながら「イエスのために苦しむのはなんと素晴らしい」と叫んだ聖アグネスもいた。何よりも、恵みが恵みの共贖者であるあの女への愛を強めたのだ。
おまえらに未知なるものが見えなくとも、おまえらはそれに取り囲まれているのだ。守護天使がいい例だ。おまえらが守護天使に祈れば、天使はわれわれからおまえらを守る。祈らなくとも天使はおまえらを守っている。おまえらを守るよう神から指令を受けているのだ。天使がおまえらを守るのは、彼らが神を愛しているからだ。
彼らはおまえらのような罪人とは比較にならない。彼らは神について、神の知恵について多くを知っている。彼らには理解できる。どんな天使も一つ以上の言語をしゃべる。それは彼がどれほどの高さにいるか、神がどれほどの力を与えているか、どれほど多くの賜物を与えているかによって決まる。
だが、罪人が天国に行かないと、天使が一人で天国に戻る。そこで、彼らは神の正義を称えるのだ。本当は、おまえらの守護天使がおまえを告発する証人になるのだ。それと、おまえらが悪さをした他の霊魂の守護天使もいる。俺の言うことを信じろ。彼らは彼らの訴えに対して全能の神に正義を求めるのだ。
おまえらはこのことを心の底に叩き込むべきだ。それをよく考えろ。純粋な、利己心のない、抱擁的な愛、特別に天的な愛で、おまえらを愛してくれているものがいるのだ。彼は悪魔や危険と戦っていないときには、おまえらのために祈ってくれているのだ。おまえらが眠っているときにもだ。
天使は、われわれがいるので、強力であるに相違ない〔?〕。そうでなければ、サタンとわれわれと戦うことはできない。サタンは力強い。彼はおまえらの上に大いなる権力を揮っている。おまえら小さき人間どもに。そうとも、俺は今ではサタンの一人なのだ。考えてみろ。醜悪な顔の、手が変形した黒い奴。地上に存在しないほどの憎しみがある。大きな火が俺の心の中で燃え盛っている。だが、愛の炎ではない。ここでおまえらに会いたいという思いだ。だが、おまえらの守護天使は、おまえらを天国へ行かせたがっているのだ。そうならなければ、彼は満足しない。
地獄では他への同情は存在しない。男は女を憎む。特に肉欲の罪によって地獄にいる男は女を憎む。女を通して地獄に来たからである。だが、女の罪だけではないのだ。それは違う、男にも罪がある。女と一緒になって罪を犯したからだ。そうしてはならなかったのだ。愛が義人において完全であるように、地獄では憎悪は完全である。憎悪はわれわれの永遠の食料だ。終わりがない。
俺が今柔らかく喋っているのには理由がある。俺は縛り上げられているのだ。最高の女王が俺をそうしている。彼女が俺のいうことに不興を感じれば、俺は地獄にいかなくちゃならんのだ。最後には戻らなくてはならない。
地獄には多くの地獄が存在する。それは、霊魂は、のろわれた霊魂は、どれもそれ自身が地獄になっているからだ。各々はそれ自身の特別な苦しみを経験する。それら全部が合わさって、地獄全体をつくりだしている。その王がルシフェルだ。
地獄にはどんな同情もない。生前、俺は愛した。だが、愛したのは人間で、神を愛さなかった。神を先ず愛して、それから人間を愛さなければ、おまえらにはどんな天国も望めないのだ。
地上では、俺はどんな人間とも渡り合った。今でも人間の体にいる時にはうまくやれる。俺は上手にやれる。俺は自分がサタンであると彼らにいいはしない。彼らにばれない限りは。俺は慎重にやる。俺は光の天使にもなれるのだ。それは俺にとって難しいことではない。俺は芸術家なのだ。
聖母を刃物で襲うなど馬鹿らしい〔?〕。人間にとりついた悪魔がそうしているであり、人間がしているのではない。そうだ、そこには謎がある。俺が人間の体の中にいる時には、食べ物を味わえる。自分が人間になったような気持ちを取り戻す。人間の体にいるときには苦痛を感じる。われわれが取りつくのは霊魂ではなく体だ。
もしも、その人間が償いをするよう迫られているとすれば、彼女、天の后が監督しているのだ。彼女は体に取りつくどんな悪魔も命令に従わせる。彼女は自分の望むことをさせるのだ。彼女の望まないことはわれわれにはできない。例えば、誰かにとりついている悪魔が従順でなければ、言われた通りのことをしていなければ、罰せられるのだ。彼女に従ったほうがいい。もっとひどいことになるから。苦しみを増すなぞ馬鹿らしい。
冗談について少し言っておきたい。冗談は全能者を愚弄することだ。冗談は呪いでもある。信仰者は冗談をいうべきではない。それは他人をあざけるだけのものだ。そんな人間は傲慢だ。彼らはプライドが高い。冗談をいうことによっておまえらは煉獄の深くへいくのだ。冗談は言ってはならない。全能の神は冗談を好まない。神はまったく冗談を言わないのだ。
聖母が地上でどんな生き方をしたか。彼女はまったく冗談を言わなかった。イエスが地上にいたときはどうだったか。俺はそのときにはいなかったが、イエスも冗談を言わなかったと信じる。笑っているのを知られたことがない。それは自分がしたように生きろと、彼がおまえらに求めていることなのだ。
神が神のままで現れていれば、おまえたちは彼に従うことはできなかった。神はそれほど純粋で、聖なる、義なるものなのだ。それで、人間をあがなうために、彼は人間にならなければならなかったのだ。彼は愛で燃え尽きた。おまえらが彼を愛せるように。だが、おまえらは彼を憎んでいる。正反対のことが起きたわけだ。
償いは神が求めていることである。神はおまえらが償うことを期待している。どれほどきれいで、無垢な者でも、神は償いを期待する。「犠牲の霊魂」と言われる者たちがそれだ。おまえらは聖フランシスコ・ザビエルのように、もっと苦しみを求めて神に祈らねばならない。心配するな。神はおまえらの日課の邪魔にならない程度の苦しみを与えるだけだ。
神はそれから悪者の体から悪霊を清めるためにおまえらの恵みを使うのだ。そうでなければ、どうして罪人が突然回心を起こすものか。
イエスは未来の罪人全員に自由を与えたのではない。彼のやったことのすべては、天国の門を開いたというに尽きる。だが、それでも、純潔で罪のない者しか入ることは許されない。おまえらだって天国が神の敵ばかりで一杯になることは望まないだろう。
ある霊魂が完徳に至ろうと力を尽くし、純潔だけを愛していれば、神はその霊魂が犠牲の霊魂、償いの霊魂になるのを望むのだ。こんな霊魂は数少ない。彼らが全能者のみ前で求められているのは、罪が増しているからだ。町のどこを歩いても罪だらけだ。罪がおまえらを待ち伏せしている。
祈っていなければ、いつ罪に舞い戻るかわからない。そうなれば、われわれ悪魔がやって来て、おまえらを絶望で満たしてやる。われわれはいう。『神はおまえを二度と許さない。二度と。おまえが誠実ではないことをご存知だから。』
特に、第6戒、第9戒、純潔であれとの戒めにそむく罪、これによっておまえらは簡単に絶望させられる。それは他人と一緒に罪に耽るからだ。そいつが原因になって他人が裁かれる。その者が別の霊魂が失われる原因になる.この連鎖には終わりがない。
強迫観念、『包囲された憑依』現象についてはっきりいおう。悪魔が体にとりつくのとは異なる。だが、聖母が許せば、悪魔はその人間の体に近づく。悪魔はそれから働き出す。こうやってだ。悪魔はそいつに注ぎ込む。そいつの意志に影響を与える。おのれの憎しみと悪しき感覚を、直接、そいつの霊魂に注ぎ込むのだ。
そいつが行動を起こす前からこれが争いを起こす。われわれは殺人さえ起こせるが、争いと議論を起こすことの方が多い。霊魂が敬虔であれば誘惑を克服するだろう。謙虚で柔和であれば、それも可能だ。こういう人間は償いの仕方を知っている。
償いについておまえらが語れるのは、自分のしてきたことを嘆き悲しむときだけだ。優しい心とやり直す善意があれば、神は何度でもお許しくださる。真実悲しむときのみ、許しが与えられる。われわれははっきり言う、懺悔する者の体に悪魔はいないと。
われわれが誘惑していなければ人は罪を犯さなかったことを覚えろ。彼は「包囲された憑依」現象によって誘惑されたのだ。これによって争いと議論に誘われるなら、そういう人間は争い好きで怒りやすいのだとしか人は考えない。霊どもが彼を包囲しているのを見れる人間はいない。それは超自然現象だ。
だが、霊に包囲されていなくても神を汚す言葉を吐く者はいる。こんなやつらには決して悔い改めは起こらない。哀れな奴らというだけよ。
悪魔が体の内にいて完全に支配している時でも、その霊魂を誘惑することはほとんど不可能だ。霊魂が純潔で平和であれば全く不可能だ。この場合、神を冒涜し、聖人や教会へ通う者たちを嘲る言葉を吐いているのは、悪魔自身だ。この霊魂にとっては、それは純粋な改悛あるいは償いの行為になる。これは、今のような時代には、特に、全能者によって求められているのだ。
『包囲された憑依』にしろ『内的な憑依』にしろ、后はすべてを正常に戻せる。彼女は霊魂と悪魔との間に大きな距離を置くこともできる。決まったときに、彼女は彼らを、試みあるいは試験のために、再び近づけることもできる。すべてが彼女の手中にあるのだ。彼女は天の后だ。彼女はその指令によって、地獄全体を足下に置いている。彼女が支配しているのだ。
地上には、彼女が奇跡を働けることを信じない霊魂もいる。彼女がおまえらのために神に嘆願してくれることを疑う者たちもいる。彼女を信用しないため、イエスに直接祈る者もいる。だが、俺は言う。御子はこれらの霊魂に警告するだろうと。彼は、マリアがおまえらの母になり、おまえらの試練を共有することを望まれているからだ。死ぬときにイエスは言われた。『見よ、あなたの母である』
彼女はおまえらの母でもあるのだ。おまえらは今の世界で母に対するこの愛がどんなに必要か分からないのだ。彼女は地上にいたときと同じように侮辱されたままだ。彼らは彼女を母と呼ぶどころか、侮辱しているのだ。まるで天主が世界にその母を与えなかったかのようにだ。
おまえらは恩知らずだ。おまえらは親しみをもって彼女を母と呼ばない。だから、悪魔のこの俺が、おまえらに言わなければならなくなるのだ。永遠に呪われたこの俺がだ! 俺は真実を言わなければならない。おまえらがすべきことを言わなければならない。
おまえらは恥を知るべきだ。そうとも、恥を知れ。全能者と最高の元后の前で。悪魔に言われなきゃならんとはお笑いだ。おまえらは元后への愛を感じることができないのか、自分から。お笑いだ。おまえらは皆めくらに違いない。
元后が地上のどこかに出現すれば、でかい顔をした奴ら(司祭と司教だ)が現れる。彼らはそれを嘘八百とぬかすのだ。だが、わが愛する者たちよ、こんな世俗化はわれわれ悪魔のせいだけではない、おまえらにも罪があるのだ。
おまえらは元后がこれらの恵みの場所で告げることを謙虚に信じなければならない。彼らがこれらの場所すべてを認めれば、世界はどんなに良くなるだろう。だが、あわれ、カトリック教会は今や暗黒のなかにいるのだ。教皇ではない、他の者たちがだ。闇の中にいない司教らもいるが、少ない。闇の中にいない司祭らも非常に少ない。数えるほどだ。秘密結社の者ら、彼らは邪悪な奴らだ。
神学校や僧院のどんな聖職者、教師も、新しい聖母の出現を信じない。彼らはこれらの出現地を嘘あるいは迷信と教え込むことによって、若者達を惑わしている。おまえら説教師たちは聖地など古臭いと言う。だが、そう言わせているのは、われわれ悪魔だ。だが、全能の神は古臭いとおまえらは思うか。いいや、神は今も天地創造のときと同じままだ。
こんな思想が愛する者たちの中に入る時に、おまえらが祈れば、最高者はこんな高慢な思想を捨てるよう、おまえらに力を下さる。おまえらがことを変えようとするのは高慢だからだ。こんなやり方を続けていれば、それは高慢だ。おまえらは謙虚でも柔和でもない。おまえらは高慢だ。おまえらはあまりにも僭越過ぎる。だが、神の御子は謙虚だった。彼は最高者の御子でありながら、あれほどに苦しんだのだ。なぜ彼のようになることを忘れたのか。おまえらは戯言ばかり言っている。
おまえらはわれわれ悪魔についても説教しない。だが、われわれは気にしない。おまえらがわれわれを信じなければ、勝負に勝っているのはわれわれだ。わかるか。勝負のすべてに勝っているのだ。
自分を頭脳優秀だと思っている司祭らもいる。彼らは何でも知っているから信仰者の勧告を聞こうとしない。彼らが言っているのは戯言ばかりだ。隣人を愛することによって神を愛するというような。こんなやり方を続けていれば、それは高慢だ。おまえらは謙虚ではない。謙遜に立っていない。おまえらは高慢で僭越なのだ。
俺は、おまえらが犠牲を嫌っているのを知っている。それは難しい。だが、最高者の御子は苦しんだのだ。おまえらは彼よりも偉大なのか。しもべは主人よりも優れてはいない。われわれ悪魔は、絶えずおまえらに吹聴している。
『なぜ犠牲を求めるのか。イエスがそれをすべてしたのではないのか。二千年も前に、彼がすべてのために贖い、犠牲になったのだ。だから、みな喜んで楽しんでいい』と。
哀れな奴らは悪魔の囁きを信じて、人生を好きに生きる。僭越だ。だが、神は、年齢にかかわらず、償いをする霊魂を求めているのだ。
おまえら、司祭たちよ! 説教するときには、おまえらは宗教と教義から逸脱してはならない。おまえらは金銭欲、社会運動、帰省、学校問題、テレビ番組、スポーツのことばかりを話す。軽薄な司祭らは、神よりも人に受けようとする。ミサ聖祭のときでさえ、おまえらは神にではなく人に受けようとする。
祭壇に立つときに、神を思うことすらしない者もいる。彼らが見るのは人間だ。支配することばかりを考えているのだ。司祭たちよ、俺はおまえらに言う。おまえらは、犠牲とそれに伴うものを、もはや理解しなくなっているのだ。おまえらは馬鹿だ。間抜けな奴らだ。めくらに生まれついたのだ。神の御子は言った。『あなた方は見ても見ない。聞いても聞かない』と。この驚くべき言葉は今も驚くほど真実だ。そのとおりになっている。おまえらは耳と目をふさいで、信仰を滅ぼしているのだ。それがどこにでも広がっている。
われわれには、皆に僧院と修道院を捨てさせるゲームをしている手下がいる。われわれは彼らにこういう。『こんなものには今は意味はない。古い。とうに廃れたものだ。何百年も昔のことだ』と。だが、修道会の中に起きている馬鹿らしい変化をよく見ろ。神は外的な伝統と秘蹟を変更するとおまえらは思うのか。とんでもない。神の教会と信心は同じままでなければならんのだ。人間どもの聖性が変化したというだけだ。人間どもの霊的生活が変わったと言うに過ぎない。事態は今後ますます悪くなるだろう。司祭どもが堕落しているからだ。
ロザリオが古臭いと司祭に言わせているのはわれわれだ。それを言っているのはわれわれだが、おまえらも罪が重いのだ。おまえらは神を十分愛していないか、まったく愛さないかだ。違うか! おまえらが神を愛していれば、どうして人からロザリオを奪えよう。いいや、だが、おまえらは溺れる者のようにロザリオにしがみついている〔?〕。流木にしがみつけ。そうしなければ、おまえらが沈めばロザリオも沈むのだ。
この意味が分かるか。四六時中ロザリオを手にもっている者たちがいる。このような者たちには、われわれはほとんど手出しできない。メダイその他の準秘蹟には守りの力がある。その通り、それは守りになるものなのだ。守りを信じれば、それは守ってくれる。注意しろ。われわれはこのような者たちを遠巻きにして避けるのだ。
ときどき、元后は、償いのために、われわれが彼らを誘惑することをお許しになる。そのときには、われわれは彼らの近くに行くが、許されていないときには、われわれは彼らを遠巻きにしているのだ。
元后を愛し尊ぶ者たち、こういう者たちをわれわれは避ける。だが、時々、彼女はその子供達を誘惑することをお許しになる。彼らが拒否すれば恵みはいっそう豊かになる。そのような霊魂は、たいてい、ロザリオに手を延ばすものだ。彼らは祈りながら抵抗する恵みと力を得る。もっと多くの恵みが控えている。このような祈りは常に聞かれる。それを信じてよい。このような祈りは神への直訴である。ひたすら愛したいということを神に示しているからだ。天国にいる天使や諸聖人のように。悲しいかな、俺は天国にはいない。今となってはそれができないのだ。
いと高き神はミサをラテン語ですることを求めている。だが、私の意見では、例えば、ドイツ語に正確に翻訳してあれば、形式あるいは典礼にどんな変更も加えていなければ、いいと思う。だが、司祭のプライドがもうすぐそれを変更させるだろう。
われわれのした小細工がもう一つある。レオ教皇が、俺の間違いでなければ、作成した聖ミカエルへの祈りだ。彼はあるとき幻を見た。ローマカトリック教会を滅ぼしてやるとイエスにいきまくサタンの幻だ。それで、レオ教皇はあの祈りを作ったのだ。毎度ミサの終わりにこの祈りをするべきだ。だが、今では、この祈りをしていない。それから、めでたし三回、これはミサで子供たちが唯一聖母のことを聞く場所だったのだ。それで、今や、カトリックは天使祝詞さえ知らずに育っている。
これはわれわれの仕業だ。われわれがまた勝ったのだ。これらの祈りには力があるのだ! 私は自分の意に反してこんな話をしているのだ。これらの祈りには大いなる力があった。ミサが終わる度にこれらの祈りがされていたら、こんなひどいことにはならなかっただろう! 古株の司祭のなかには今もこの祈りにしがみついている者たちもいるが、古株でさえ、それでうまくやれると、新しいものにとびつく者がいる。
おまえらは自分を敬虔で聖なるものと考えているが、みな罪人だ。小罪人、大罪人、中途半端な罪人、習慣性の罪人だ。おまえらは神より罪を愛している。肉を愛している。それはみな罪だ。だが、見ろ、こんなものはもうすぐ消えちまうのだ。それは物だ。物は続かない。続くのは魂だ。
この俺が何よりの証拠だ。俺の体は遠い昔に分解した。1806年に死んだのだ。俺の体はパリに埋められた。今はどこにいるか、ここスイスにいる。そうとも、魂はこうして徘徊しているのだ。昔、俺の体だった物は消えちまった。おまえらは魂を、霊を見なければならない。肉ばかり見ていればおまえらは滅びるのだ。言っていることが分かるか。
祭壇の上で6本の蝋燭ではなく2本の蝋燭しか使わせなくしたのはわれわれだ。われわれはあなた方に何度も言った。『なぜ6本にするのか。2本で十分だ。これならカネもかからない。6本じゃ高すぎる』。私の教会の司祭は、10センチぐらいの安っぽい、ちっぽけな蝋燭のために、1メートルの蝋燭を立てる金の燭台を捨てた。高い蝋燭は祭壇の背景を見えにくくするというのが奴の言い分だった。奴が言ったのは、祭壇両側にある安っぽい木彫りの天使のことだ。あの途方もなく美しい大燭台は、25年間ここに置かれていたが、何物も見えづらくしなかったのだ。
今の新ミサは嘘っぱちだ。司祭は祭壇の前で敬虔を装っているが、それは他の司祭がすることをしなければならない、それだけの理由だ。ミサの後で、彼らは本当の顔を見せる。ミサの後で、彼はおのれの弱き信仰を露呈する。おまえらは侮辱しているのだ。こんな司祭どもは滅びる。彼らは、いと高き神を知らないのだ。
司祭はみな、パウロ六世が手による聖体拝領を禁止したのを知るがいい。(1969年5月29日“メモリアール・ドミニ”)。司祭らはこうすることによって、教区民を甘やかし、彼らが司祭になった気にさせているのだ。こんなことをしている司祭は全能の神を知ってはいない、恐れていないのだ。どの司祭も決して手に聖体を授けてはならないことを肝に銘じろ。
モダニストは救い主を打ち叩く奴らと同じだ。彼らはイエスを打ち叩いているのだ。手で聖体拝領をさせる度に、もっとも卑しいやり方で、救い主を打ち叩いているのだ。聖体の中の主の現存に関して司祭たちがどんな冒涜をしているかを知れば、信徒は手による拝領などできなくなるだろう。彼らは聖体奉挙の都度、ニ度跪くことを、もはやしなくなった。カリスを聖別するときもだ。今では一度しか、それもお辞儀する程度だ。それから、彼らは聖櫃を追い出して、部屋の隅っこや、クロゼットや物置など、別の部屋にしまい込んだ。イエスを鞭打つ奴らのすることだ。
手で聖体拝領する奴らは偽カトリックだ。まことに信じる本物のカトリックは手による聖体拝領などしない。崇敬の心がそれを許さない。偽カトリック信徒は崇敬を装っているだけだ。彼らは司祭になった気でいる。中には毎日教会に通っているから、司祭以上になったと勘違いしている奴らもいる。
だが、神はそのようなことをお考えではない。聖体に触ることによって、おまえらは猿のように愚鈍であることを露呈しているのだ。おまえらの本性は猿だ。誰かが聖体を床に落とせば、それをただ拾うだけだ。ことイエズスが関係しているところで、よくこんな馬鹿をやれるものだ。おまえらは、二千年前に兵士がしたよりもっとひどいことを、主に対してしているのだ。
聖櫃を脇に追いやらせ、司祭を神のように中央に立たせたのは、われわれの仕業だ。司祭はイエズスがいた場所に座らなければならない。・・・
司祭らは少しサタンに近くなっている。少し以上だ。彼らは“わが地獄の主、ルチフェル”のようになろうとしているのだ。彼らは神のようになりたがっている。彼らが聖ミカエルの話をしたがらない理由がそこにある。彼らに何が起こると思うか。彼らはまた追放されるのだ。覚えておけ。大昔、天に、高慢な天使達がいた。それからあれが起こった。おやすみなさいで、全員が地獄に落ちたのさ。そして、突然闇になった。
謙虚な司祭は、いと高き神がおられる場所、祭壇の中央に座らず、脇に座るものだ。それが俺の時代の習慣だった。彼らはまともな司祭だった。彼らはイエズスの神秘体に深く根を下ろしていたと言える。今の司祭は浅はかだ。彼らはこの世の方法でなにごともしたがる。社交クラブや余興まで教会でやりたがる。今の司祭は真の俗人だ。こんな奴らを「神のしもべ」と呼ぶことはできない。彼らは世に属しているのだ。
司祭の着衣についていおう。いと高き神は、古来のやり方に習って、司祭が衣を着るようお求めだ。カソックを着る。特に公衆の面前で。とりわけ、それは教会法だ。
いと高き神は、人間どもの新しい思想を入れるモダニストの意見を求めておられない。聖なる犠牲を重荷と感じる司祭どもがいる。彼らは祭壇を離れれば大喜びだ。それは、天主を十分に愛していないからだ。天主、いと高き神を。
だから、彼らは自分の上にあるものを、何でもかでも引き下ろそうとするのだ。何事も自分たちのレベルに引き下ろしたがるのだ。彼らは神になりたがっている。だが、この「神になりたがる」気持ちが、彼らを地獄に送るのだ。こんな奴らが神の怒りを自分と地上に招くのだ。
とはいっても、執り成しをしてくださる御者がいる。彼女は、始終いと高き神のみ座に向かって嘆願してくれているのだ。そうでなければ、俺を信じろ、おまえらと地はとうにない。わかるか、とっくになくなっているのだ。どれほど彼女が、いと高き元后が、力ある存在であるかがわかるだろう。
それから、おまえら司祭たちよ、おまえらは自分が敬虔だと思い込んでいるが、カソックとビレッタをつけるほどの謙虚さすら、おまえらにはないのだ。ミサを挙げるのにカソックを着用したがる者たちは、常に司祭らの嘲笑を買う。彼らはいう。『敬虔馬鹿になるな。人知に理解できる以上のことをしようと思うな』と。このような悪い理屈はわれわれが吹き込んだものだ。
われわれは常に真理を否定する。祈る必要などないとわれわれは言う。われわれの言葉には終わりはない。悪い冗談をいう奴らもいる。奴らはマリアがヨゼフと性交渉をしたと御託を並べているが、そう言わせているのはわれわれだ。天の元后を冗談のネタにする者は、大罪よりも悪い。
おまえらが炎の中にいるのを想像してみろ。その時ではもう遅いぞ。この苦しみには終わりがないのだ。この拷問、この責苦には。それは果てしなく続くのだ。
酒を飲む奴らがいる。これら酔っ払いは特に安っぽい奴らだ。俺は生前にこいつらが嫌いだった。大嫌いだった。酔っ払いは大嫌いだ。赤ら顔に青筋を立てたでかい鼻。これはみな酒からくるものだ。酒が情欲を誘う。それは恥ずべきことだ。こんな奴らは豚と変わらん。俺はこんなことさえしなかった。へどが出そうになるからだ。それでも、俺は彼らと同様に呪われているのだ。
おまえら、肉欲に走る者たちよ、おまえらがこれを読んでいれば、これが最後のチャンスだと思え。俺がおまえらに言っているのだ。そのまま続けていれば、おまえらの末路は、アウグスト・ホーレンヴィーガー(誰か不明)と同じ、火の中だ。
それから、おまえらには特別な苦しみもある。そうだ、拷問だ、永遠の拷問だ。おまえらは、いつまでも、おのれを責めるのだ。それで、おまえらが豚のような生き方をしているのなら、豚のような欲情を楽しんでいれば、おまえらは地獄で豚の顔になる。他を誘惑した奴は蛇の姿になる。
これは冗談ではない、とぐろを巻いた、黒い皮の蛇のようになるのだ。俺はこのような姿の女を知っている。それはすさまじい姿だ。蛇のような舌をしている。蛇女、蛇人だ。この女は誘惑を表している。同様に、男も誰を誘惑しても、地獄では蛇の姿になる。
おまえら、服のデザイナーたちよ、おまえらはみな、地獄の中で、醜い憎しみの火の中に下るのだ。おまえらが若い娘らにした報いだ。いと高き神はおまえらを処罰するであろう。肌を露出させ、情欲をそそる服を、若い娘に着せたからだ。女用のズボンによって同性愛を刺激したからだ。
年寄りにも言っておきたいことがある。彼らは若者が堕落しているという。だが、堕落は年齢を問わない。年寄りは教会に行く。若者よりいい人間だと思い込んでいる。おまえらは彼らを不良と言う。だが、おまえらも同じだ。聖体拝領をする前に告解しに行け。告解しないなら、教会へ行かず、家にいる方がまだよい。いと高き神が裁かれるときに、おまえらが行くのは、煉獄の最下層だ。悪口はひどい処罰を受ける。それは高慢だ。
おまえらは人を憎まず、愛さなければならない。人を憎めば、おまえらはわれわれの子供たちになる。笑ってはならない。これは真実だ。ゴシップをふりまくな。若かった頃に、おまえらだって半端者だった。それを覚えている者たちが今はいないというだけだ。それで、今、おまえらは若者を裁いている。
そうだ、おまえらは、他の人間について善いことだけを言わなければならない。俺は悪魔であるにもかかわらず、そう言わなければならないのだ。人の悪口をいうな。怠惰な話もするな。ロザリオを祈れ。俺はこの一言を言う。ロザリオを祈り、他を愛せ。こんなことをいうのは本当に苦しい。俺は教授だった。だが、今では呪われた教授なのだ。
ああ、それがどんなに俺を苦しめるかを、おまえらが知っていたら。善を語るということだ。すべては失われた。永遠に呪われた。救いはない。どこにも、どこにもだ。俺は地獄から出られないだろう。いつまでもそこにいるのだ。俺の一番の苦しみは、諸聖人と共に天国にいられないということだ。
俺は十分語った。これには終わりがない。これは拷問だ。俺は天国へは決して入れないだろう。すべては過ぎ去ったのだ。このすべてが拷問、責め苦なのだ。それはいつまでも続くであろう。これが俺の一番の責め苦なのだ。天国に決して入れないということが。
すべてが失われたのだ。すべてが失われたのだ。すべてが失われたのだ。永久に、永久に、下は闇、光のない暗闇なのだ。そこはいつも夜だ。光はけっして射さない。これは永久に続くからだ。地は過ぎ去るとも地獄は残るのだ。
おまえらはそこに下ればこう考える。なぜ俺はこんなことばかりしてきたのかと。なぜか? 地は過ぎ去るからだ〔?〕。それから、おまえらは、違う生き方をしていればよかったと考える。だが、下ったら最後、取り返しがつかないのだ。そこにはどんな助けもない。これからも助けはないだろう。すべてが失われているのだ。永久に失われているのだ。すべてが過ぎ去ったのだ。俺は永遠にディアボロ(悪魔)なのだ。
パスクワレ・デ・カパリーノ
管理人
2chにこれを投稿してくれた人が次のように書いている。
ひっかかりを感じたのは
『すべての新しい出現を認めればどんなに地上が平和になるだろう』
という言だった
本文に次のようにあったからだ。
「彼らがこれらの場所すべてを認めれば、世界はどんなに良くなるだろう」
「神学校や僧院のどんな聖職者、教師も、新しい聖母の出現を信じない」
そして、彼は思う。「聖母出現の “すべて” が本物であるわけではない。その中には必ず悪魔による偽出現もある。だから、その言葉はおかしい」
しかし、私は、一言で言えば、「言葉というものをそんなにカッチンに(堅く)捉えなくてもいいのに」と思う。言葉というものには、常にそれを発した者に由来する「幅」や「揺れ」が伴うものだ。つまり、言葉は、発語者の意識と深く関わっていて、往々、何かが省略されていたりする。「言外の意味」というのを含んでいたりする。それが普通の状況だ。
「これらの場所すべて」と言っても、発語者が全く “文字通り” の意味で「すべて」と言ったかどうかは分からない。また、「これらの場所」と言っても、私達は「これら」に対して「どれら?」と聞くことが可能だ。
言葉遊びをしているつもりはない。しかし要するに、言葉とは元来ある程度そういうものなのだということなのだ。
発語者が「これらの - すべての - 新しい」と言った時、それは発語者自身にとって「これらの - 真正の - すべての - 新しい」という意味であったということは、十分あり得る話である。何故か? この場合、発語者は悪霊である。悪霊は霊界の存在だ。どれが真正の聖母出現でありどれが偽物の聖母出現であるかということは、彼には取り立てて問題とならない。彼にはそんなことあまりに “分かり切ったこと” であるからだ。いわば “常識” である。彼には聖母出現に関して地上の私達が持つような “迷い” は基本的に一切ない。それが彼と私達の状況の決定的な違いだ。そこから彼と私達の間に言葉の使い方の違いが若干出てきてもおかしくない。
彼は、私達が「これらとはどれらだ? すべてとは文字通り全てか? すべての民の御母もか?」と訊けば、苦笑し冷笑して言うだろう──「やれやれ、どめくらの人間ども。お願いだから、そんな質問をしないで下さい」
私は、あまりに多くの人がこの種の言葉を受け入れることに躊躇するのを、残念に思う。
私はこう言うのみだ。「この内容に問題はない。それどころか、現代の大抵の司祭と私達が心に銘記せなばならないことが書いてある」
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