ポルト・マウリチオの聖レオナルド著
『隠されている宝 ─ミサ聖祭─ 』
庄司 篤 訳
聖体奉仕会
序文(赤下線による強調は管理人)
はじめに
聖レオナルドは『小さき兄弟会』(通称『フランシスコ会』)に属していましたが、その会の創立者であるアシジの聖フランシスコの次の言葉が、本書の序文にふさわしいと思います。少し長くなりますが、引用します。
この手紙を受け取る小さき兄弟たちの全長上に、神である主におけるあなたたちの僕で、小さき者である兄弟フランシスコは、天と地における新しいしるし〔御聖体〕と共に、挨拶を送ります。
この新しいしるしは、神の目には偉大で、最も卓越したものであるのに、大勢の修道者やその他の人々からは全く取るに足りないものと見なされています
私は全身全霊をこめてあなたたちに願います。
ふさわしいことであり、また、あなたたちが有益だと考える時には、私たちの主イエズス・キリストのいと聖なる御体と御血、およびキリストの御体を聖別する書きしるされた聖なる御言葉が、すべてに越えて尊ばれなければならないことを、聖職者の方々に謙遜に願って下さい
聖職者はカリス・聖体布・祭壇の飾り、その他ミサの犠牲に関わりのあるすべてを貴いものと見なさなければなりません。
また、主のいと聖なる御体が極めて粗末に置かれているならば、聖職者は、公教会の定めに従って貴い所に移し、錠をかけておくべきです。
そして、深い尊敬をこめて御聖体を持ち運び、人々には識別したうえで拝領させなければなりません。
主の書きしるされた御言葉がどこでも清くない所にあるのを見つけたなら、拾いあげて、ふさわしい所に置くべきです。
あなたたちの行うすべての説教において、悔い改めなければならないことと、「主のいと聖なる御体と御血を拝領しなければ、だれも救われない」ことを(ヨハ6・54参照)、人々に諭して下さい。
司祭によってミサの犠牲が祭壇上で捧げられ、パンまたはぶどう酒の形色のもとに運ばれる時には、すべての人がひざまずいて、生ける真の神なる主に賛美と栄光と誉れを帰さなければなりません
神を称えることについて、すべての民に次のように告げ知らせ、説教して下さい。「各時間毎に、また、鐘の鳴る時に、常に全地で、あらゆる人が全能の神に賛美と栄光と誉れを捧げるべきです」と。
私の兄弟である長上たちがこの手紙を受け取り、写しを作って、手もとに置き、また、説教の務めや他の兄弟たちを治め導く務めを持つ兄弟にも与えるなら、そして、ここに書かれているすべてのことを終わりまで教えるなら、神である主と私との祝福を受ける、と知って下さい。
長上たちはこれらのことを真の聖なる従順によって受け入れ、実行すべきです。
聖レオナルドは、ここに述べられている、師父の望みを極めて忠実に生きた弟子だった、と本書の読者はお認めになるでしょう。
本文(聖レオナルドの言葉)
第一章 ミサ聖祭の偉大な卓越性
1.でたらめな生活を送っているカトリック信者が、無神論的な考えを表明する言葉、信心を台なしにする言葉を吐くとき、それを耐えるために大きい忍耐が要ります。
例えば、「ミサなんてたいして価値がない。」「祝祭日にミサに与るなんて、つまらない。」「あの司祭のミサは、聖週間の典礼のように長ったらしい。彼が祭壇に現れると、私はたいていすぐに教会から出てしまうのだ。」
このように話す者はミサの極めて聖なるいけにえについての尊敬が、自分には殆ど或いは全く、ないことを理解しなさい。
ミサのいけにえは、キリスト教の太陽、信仰の魂、カトリックという宗教の中心であり、そこにこそカトリックのあらゆる典礼、あらゆる儀式、またあらゆる秘跡があります。
要するにミサは、神の教会のうちに見いだされる、あらゆる善いものと美しいものとの要約です。
今これを読んでいる人よ、この小論の中で語られる事柄がどんなに偉大であるかを、よく考えなさい。
2.世の初めから存在していた宗教が皆、神に捧げる礼拝の本質的な部分として、何かのいけにえを持っていたのは、確かな真理です。しかし、それらの法の全体が、空しいか不完全かであったので、そのいけにえも空しいか不完全か、どちらかでした。
偶像礼拝者たちのいけにえは全く空しいものでした。これについて述べる余地は全然ありません。
そしてユダヤ教も、確かに、当時は真の宗教だと、自ら宣言していましたが、貧弱で欠けたところがあり、聖パウロによって、「無力で頼りにならない諸要素」(ガラ4・9)と呼ばれています。罪を消すことも、恵みをもたらすことも出来なかったからです。
私たちが聖なる宗教のうちに持っているいけにえ、つまりミサ聖祭だけが、聖なる、完全な、あらゆる点で欠けたところのないいけにえです。
これによって、信者の一人ひとりが、自分自身の無と、神が有しておられる最高の主権とを同時に宣言しつつ、素晴らしい仕方で神に栄光を帰するのです。
それで、ダビデによって「正義のいけにえ」(詩4・6)と呼ばれています。何故なら、ミサは正義そのものであられる方と聖人中の聖人を、或いはむしろ、正義と聖性そのものを含んでいるからであり、またミサの与える恵みの注ぎと賜物の溢れとによって、魂を聖化するからです。
それで、極めて聖なるいけにえ --- あらゆるものの中で最も尊ぶべき、最も卓越したいけにえ --- であるので、これほど偉大な宝についてふさわしい考えを形成するために、ミサの幾つかの神的な素晴らしさを、ごく簡潔に説明しましょう。
そのすべてを表現することは、我々の貧弱な能力の到底なし得る業ではありません。
3.ミサといういと聖なるいけにえの主要な卓越性は、カルワリオの十字架上で捧げられたものと、本質的に、しかも最高度に、同じであるという点に存しています。
違いはただ、十字架上のいけにえが、流血を伴い、一度限りであり、そしてその時、世界のあらゆる罪の贖いを完全に成し遂げたのに対して、祭壇上のいけにえは、流血を伴わないいけにえであり、何回でも限りなく繰り返されることが可能で、イエズスがカルワリオで我々のために支払って下さったあの普遍的な贖いを、個々の人と場合に適用するために制定されたという点にあります。
ですから、流血のいけにえは罪の贖いの手段であり、無血のいけにえはその罪の贖いを我々のものとするのです。
つまり、一方は私たちの主キリストの功徳の宝庫を開かせ、他方はその宝庫を実際に利用させてくれるのです。
それゆえ、ミサの中で、贖い主の御受難と御死去の単なる象徴や記念が行われるのではなく、カルワリオで執り行われた、いと聖なる業と全く同じものが、真実な意味において、執り行われるのです。
一つ一つのミサにおいて、私たちの贖い主は我々のために、実際に死ぬことなく、神秘的に死ぬために、つまり現実に生きておられ、しかも同時に屠られたような者となるために戻って来られるのだと、全き真理をもって言えるのです。---「私は屠られたような小羊が立っているのを見た」(黙5・6)。
クリスマスの祭日に、主の御降誕が教会によって象徴されますが、私たちの主はその時お生まれになるのではありません。昇天と聖霊降臨との日に、主の天国への昇天と、聖霊の地上への降臨が象徴的に示されますが、これらの日が巡って来るたび毎に、決して、主が再び天国へ昇られたり、聖霊が地上に目に見える形で降られたりするのではありません。
ところが、同じことがミサ聖祭については言えません。何故なら、ミサの中で、過ぎ去った出来事がただ単に象徴されるのではなく、十字架上で血を流して行われたものと全く同じいけにえが、血を流さないで捧げられるからです。
その同じ体、その同じ血、あの時カルワリオで御自身を捧げられた同じイエズスが、今ミサ聖祭の中で、御自分をお捧げになるのです。
教会は、『贖罪の業が行われる』と言います。そうです、『行われる』のです。十字架上で捧げられたのと同じいけにえが、、ミサの中で捧げられ、絶え間なく繰り返されるのです。
おお、畏るべき、厳粛な、驚くべき業!
では、私に話して下さい、あなたはミサに与ろうとして教会に入るとき、いわば、贖い主の御死去に臨席すべく、カルワリオに上って行くのだ、ということを徹底的によく考えているかどうかを。
もしそうならば、そんなに奔放な態度と、そんなにひけらかした服装で行くでしょうか。
もしマグダラのマリアが、愛人たちと付き合っていた時のように、すっかり着飾り、香水を振り掛け、宝石類で身を飾って、カルワリオの十字架の下に行くなら、彼女について何と言われたでしょうか。
それなら、球技に行くかのように、ミサ聖祭に行くあなたについて、何と言われるでしょうか。もしあなたがウインク・無駄口・笑いなどで、或いは重大な涜聖の思い・言葉・行いなどで、いと畏るべき聖性の行為を汚すなら、何と言われるでしょうか。
邪悪は、いつ・いかなる所でも忌まわしいものですが、ミサの時には罪となり、祭壇の前で、神の呪いを自分に呼び下しています。「主が課せられた務めをおろそかにする者は呪われよ」(エレ48・10)。
これを真剣に考えなさい。あなたがそうした後、私は、限りなく貴重なこの宝について、なお他の幾つかの驚異や栄光をあなたに示しましょう。
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