いろんな意味で「司祭不足」の時代に生きる私達自身に捧ぐ
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ラゲ編
完全なる痛悔
明治35年刊
緒 言
本書は「コンチリサンの略」と云う題にて慶長八年卯四月下旬、すなわちキリスト紀元1603年に日本の公教会信者の為に出版せしものなり。然るに不幸にして当時無数の信者殉教し、宣教師の如きもあるいは身命をなげうち、あるいは追放せられたるが故に、教えは既に絶えたりと思われしに、爾来数百年の間長崎地方信者の子孫中に代々口伝せられて、1865年に至り再びこの信者を見出せし時、なおこの書の文のみ誤りなく所々の人に暗記せられ、この書の教えに従いて切に罪の赦しを祈り居れる者甚だ多かりければ、これによりて救霊を得た者もまた多かりしならん。かく必要なる書の伝わりしは、これ天主がその信者を棄て給わざるの徴〔しるし〕にして、また聖母マリア及び日本の尊き殉教者の高徳代願に因れる恩寵と云うべし。
今やこの書をそのままに新版するは編者の望むところなれども、数百年前の古語にて一般に通じ難ければ、文句を変えずして今日に適する言葉に改めたり。希くは〔こいねがわくは〕信者、本書を読みて祖先に与えられし恵みを謝し、古代の記念としてこれを用い、なお公教会の教理教則のいずれの時代にも変せざることを認め、自らその効果を味わわれんことを。
明治35年9月上旬
編者識
目次
第一節 完全なる痛悔につき為すべき四つの心得
第二節 完全なる痛悔とは何ぞ〔またこれを勧むる道〕
第三節 完全なる痛悔を発す〔おこす〕べき便りとなる観念
第四節 天主に立帰る罪人の為すべき完全なる痛悔の祈祷
第五節 洗礼を授からざる人も完全なる痛悔をもっ
    罪の赦しをこうむるを得る事
完全なる痛悔
そもそも人にとりて大事中の大事は霊魂の救〔たすかり〕なり。一切人間の救い主にてまします主イエズスの言に曰く、「人はたとい全世界を掌〔たなごころ〕に握るともその霊魂を失わば何の益かあらん」と。また曰く、「その霊魂を如何なる事に替えんや」と。然り、而して霊魂の救〔たすかり〕の為に最も勝れたる勤めは完全なる痛悔とて真実の後悔なり。今この書は二つの目的をもって著わすなり。一には、この書はいずれの信者の為にもなるべしと云えども、別して告白を聞くべき司祭の無き所に罪に落ちたる信者がこれを読み明らめ、教えの如く勤めば、その罪を赦され、天主の聖寵をこうむり、終に天の快楽を受くべき道を知るが為なるなり。二には、いずれの時にても人に最期の勧めを為すべき者、この書を読み聞かするかまたはこの道理を語り聞かするかをもって人の霊魂を導くが為となるなり。これ別して司祭の無き所に於いて最も勝れたる勤めなれば、ここに心得べき事あり。死に近き人には暇〔いとま〕あらばこの一巻をことごとく示すべし。もし早〔はや〕暇なきに於いては初めの第一節のうち第三、第四の心得と、第二節、第四節の理〔ことわり〕を読み聞かすべし。これも叶わぬほどの急死ならば、せめて第四節に載する祈りを勧むべし。もしその人口ごもりてこの祈りを為す能わざれば、心中にかく唱えよと示すべし。かくの如く最期近き人に力を添え勧めを為す事は天主の御前にてその功〔いさお〕は無量なり。これ人の霊魂の救〔たすかり〕の船橋となればなり。あに等閑〔なおざり〕にすべけんや。
第一節 完全なる痛悔につき為すべき四つの心得
第一の心得 イエズスは御憐れみ深くましまして、我ら人間の父なるが故に、いかなる罪人もその罪を悔み悪を改め善に帰して救われんことを専ら思召〔おぼしめし〕給うものなり。これに依りて異教人の時の罪を赦し給わん為に洗礼の秘蹟を定め給い、その御功徳をこうむらしめ、罪を残らず消滅して、罪の代りに受くべき苦しみをも赦し給うなり。なおこの上に、人の浅ましき習わしにて洗礼以後また罪に落つべき事を憐れみ給いて、その赦しを得させん為に悔悛の秘蹟を定め給えり。故に如何なる罪と云えども主の名代と定められたる司祭に相応の心をもって告白を為すに於いては、あらゆる罪をことごとく赦さるる事疑いなし。故にいずれの信者にても、洗礼以後大罪を犯さば、その赦しをこうむる為に告白せずして叶わぬ事をよく弁うべし。然れども、時としては司祭その所に在らざるか、あるいは未だ国語に通ぜざるか、その他告白せんと欲すれども叶わざるかの時の為に、この完全なる痛悔をもって罪を赦さるるの道を定め給えり。
完全なる痛悔とは、神を真実に愛する心より出る深き後悔を云う。然れば、如何なる悪に沈みたる信者と云えども、心に完全なる痛悔を催し、告白すべき所あらん時は必ず為さんと思い定むるに於いては、たとい当座に告白せざるも、罪をことごとく赦されて聖寵を賜わるべきなり。かくの如く完全なる痛悔を起して後また大罪を犯さずして死すれば、その人の霊魂救かる〔たすかる〕べき事疑いなし。偽ること能わざる天主の御言に依れば、何時にても罪人がその罪を心の底より悔い改むれば、その罪を赦し給うべしとあり。然れば、いずれの信者も完全なる痛悔の道をよくよく知る事肝要なりとす(すなわち第二節にあり)。
第二の心得 人あるいは病気に犯さるるか、あるいは戦争に赴くか、あるいは船渡りするか、いずれにてもかくの如く命の危うき事に懸からん時、その身に大罪ありと弁えて告白せんと望めども司祭無きに於いては、すなわちこの完全なる痛悔を起さざるべからざるなり。そは誰にても霊魂の救〔たすかり〕を求めざるべからず、また右の如き完全なる痛悔を起すの外〔ほか〕〔たすかり〕の道なければなり。
また、たとい死するに近からずと云えども、何時にても罪に落ちたりと思わば、時を延ばさず直ぐに善に遷るべきなり。そは大罪有りながら死すれば救かる〔たすかる〕能わず、また人は何時最期の来たるべきかを知らざればなり。大罪赦されて聖寵を受くる道は、告白し能わざる時には完全なる痛悔の外になしと知るべし。されば救霊を願う者はこの道を心に懸けざるべからず。
第三の心得 痛悔をもって罪の赦しをこうむるには、先ず信仰堅固ならざるべからず。信仰なくては罪を許され御心に叶い奉る能わざれば、特に危急の場合には尚更堅固ならざるべからず。そは最期の時などは悪魔は別けて〔わけて〕信仰を失わせんとすればなり。故に心あるいは言葉にて下の如く唱うべし。「われ聖公会〔管理人注:アングリカンのことに非ず〕の教えをみな誠なりと信じ奉る。たといこの度死を差し延べらるるとも命の有らん限り御教えを捨つる事なく、堅く信じ奉る」と、あらかじめその覚悟を為し置くべきなり。
その信ずべき箇条は、先ず有りと有らゆるものの造り主にてまします天主は唯一なる事、なお天主は万事を計らい、一切人間の救い主にして、天国に至るべき道を教え、これに導き給う事、また主は我らのこの世の善悪に従って来世の苦楽賞罰を与え給う事、而して神仏〔←異教の〕はいずれも我らに等しき人間にて、今世後世〔このよのちよ〕を計らい善悪を賞罰し能わざる事、また万物の造者〔ぞうしゃ〕主宰にてまします天主は只一体にてましませども、父と子と聖霊との三位にてまします事、すなわち父も天主、子も天主、聖霊も天主にてましますなれども、三つの天主にあらずして御一体の天主にてまします事、また天主御子は人を助け給わんが為に人性を受け、童貞聖マリアより生まれ給いし事、これすなわちイエズス・キリストにて、人に救霊の道を教え給い、終には我ら人間の罪の代りとして自ら甘じて悪人の手に渡され、種々の苦難を凌ぎ、十字架に懸かりて死し給い、而して三日目に甦り、御昇天なされ、御父と共に万事を司り給う事、また世の終りに当り一切人間を元の肉身に甦らせ、自ら天降り給いて、各々の善悪を糺し、終りなき賞罰を各々に与え給う事、すべて天主が人の罪を赦し、聖寵を施し、霊魂を扶け給うは、救い主イエズス・キリストの御功力に依る事、尚イエズスは誠の天主、真の人にてまします事、これみな堅く信じ奉るべき条々なり。
第四の心得 完全なる痛悔をもって罪の赦しをこうむらんと思う人は、先ず天主の御慈悲を深く頼もしく思い、イエズスの御功徳に深く頼み奉る事肝要なり。たとい犯せる罪は海よりも深く、またその罪の数は浜の真砂よりも多くして、既に希望心を失う程なるとも、完全なる痛悔ありてその罪を真に悔めば疑いなく赦さるべしと深く希望せざるべからず。そは天主は御慈悲限りなく、また救い主イエズスの流し給いし御血の御功徳も限りなきが故に、たとい千万無数の世界ありとするも、それに充満する人間の罪をもことごとく消滅するには御血一滴の功徳にてもなお余りあり。いわんや我ら一人の罪を赦し給わんに一滴のみならず無量の御苦しみを凌ぎ給いたる上に、御血をことごとく流し尽し給いたれば、その御功徳にて我らの罪を滅し給うに何の困難あるべきや。この儀を深く希望すべきなり。
第二節 完全なる痛悔とは何ぞ
今ここに載する所の事は最も肝要なり。そは、これをよく勤むるに於いては完全なる痛悔の本意に適い、罪ことごとく滅して天主の御救いをこうむるべければなり。完全なる痛悔とは、わが犯せし罪はみな天主の御心に加えたる侮辱なることを深く悔い悲しみ、その罪を心の底より憎み嫌い、真に心を傷め、如何なる事に対しても為すまじかりしものをと思い、以後大罪をもって天主に再び背き奉るべからずと堅く決心し、また時節を得て告白を為さんと決する事なり。これすなわち完全なる痛悔にして、今これをつまびらかに述ぶれば、これに肝要なること数条々あり。
第一 先ず己れを顧みて、大罪に落ちたる事ありや否やを思い出すべし。すなわち信仰を失い、神仏を拝みし事なきや、または異教を信じ、頼もしく思いし事なきや、または人も憎み、ねたみ、悪口雑言し、名誉を失わせ、仇をなしたる事なきや。また己が妻にあらざる女を犯したる事なきや。そのほか天主の御掟に背き、大いに道に外れたる悪事を為したる事なきやと、我が身の上を糺明すべし。
第二 かくの如く犯せし罪を一般に思い出してのち、その罪は言うに及ばず、忘れたる罪をも同然に後悔すべし。その後悔もただ軽々しく上辺にすべからず。天主は人の心の内を見給えば、外ばかりにてたぶらかし奉る事かなわず。犯せし罪を心の底より深く悲しみ嫌いて、如何なる利を得るとも、または身命を果たすとも、為すまじきものと悔み忌むべし。
ここに心得べき事あり。時として、身の上を種々思案してみれども大罪一つも思い出さぬ事あり。これあるいは罪をよく弁えざるか、あるいは失念せしに依る事あり。たといかくありとも身に罪なしと安堵するなかれ。弁えざる罪、また忘れて思い出さぬ罪をも後悔すべし。そは、罪ありながら無しと思いてその後悔なくんば地獄に落とさるべきによりてなり。
第三 完全なる痛悔の心は、罪ある故地獄に落つべきを悲しむにもあらず。また罪ある故天国の快楽を失うを悲しむにもあらず。そのほか、身の損失を顧みて悲しむにもあらず。第一嘆き悲しむべきは、すなわち心を尽し力を尽して愛し奉るべき広大無辺の天主に、限りもなく嫌い給う罪をもって背き奉りし事これなり。これを専一に悔み悲しむは、これ完全なる痛悔なり。これをよく弁うるために知るべき事あり。すなわち地獄の苦しみを恐れ天国の快楽を失うを悲しみて罪を痛悔する事当然なれども、これ一重に天主を愛し奉るより出る後悔にあらず、ただ罰を恐れ身の得失を顧みるより起るが故に完全なる痛悔にあらず。またこれにて直ぐに罪を赦さるる事あるべからず。ただしかくの如く不完全なる痛悔にても告白するにおいてはその痛悔の不足なるところを秘蹟によりて補い罪を赦し給うと云えども、告白なくんば不完全なる痛悔のみにては罪を赦し給う事なしと知るべし。例えば臣たる者の主命に背き狼藉したる時、職を免ぜられ、罪せらるべき事を恐れて、さても為すまじき事を為したるものかなと身の科を悔ゆるが如し。これ更に主君を思う心より出ず、ただ我が身を思うのみの心なればなり。然るに完全なる痛悔は天主を深く愛し奉るより出で、限りなき愛、限りなき慈悲の父にてまします天主に背き奉りしところを何よりも悔む事なり。例えば孝行なる子がその親に背きしを悲しむが如し。これ折檻を恐るるにあらず、ただ万事に越えて孝行を尽すべき慈しみの親に背きしを口惜しく悔しく思うて泣く泣くその赦しを願うものなり。
第四 過ぎし罪を悲しむのみならず、今より以後再び大罪を犯さず、掟によりて身を修むべしと堅く決心せざるべからず。過ぎし罪をいかほど悔しく思うとも、重ねて罪に落ちる事あるまじとの堅き決心なきにおいては、罪の赦しあるべからず。故に痛悔する人は、例えば品行正しからずして悪しき癖あるか、罪の便りとなるものを有するか、そのほか何にてもかくの如き妨げあるにおいては速やかにそれを捨て、再びこれに迷わさるる事なかるべしと堅く思い定め、もし人に遺恨を含む事あらば、急ぎて思い直し、人の名誉を害し、人に損を掛けたる事あらば、天主の掟に従って、直ぐにその償いを為すか、直ぐに償う能わざれば追々に償わんか、いずれにてもゆるがせにすまじと思い定むべし。もし病者にしてかくの如き障りあらば、確かなる時これを償い、これも自身に整いがたければ書き置きをなし、のちにてこれを償わしむべし。
右の条々のほか、またイエズスの御定めの如く、時に臨んで告白し、また命ぜらるる罪の償いを果さんと決心する事肝要なり。ただしこの事を痛悔する時に忘るる事あるも、罪を赦され聖寵をこうむるに障らざるなり。そは再び罪を犯す事なく掟をことごとく守るべしと決心するにおいては、その内に告白すべきことも籠れるによりてなり。これみな完全なる痛悔の要点なりとす。人あるいは曰わん、人皆完全なる痛悔の情に至り難し、中にも久しく悪に染み果てたる者はなおもって難〔かた〕かるべしと。これもっともなれども、決して力を落とすべき事にあらず。天主の御力を添え給う時は何事にても叶わざるはなし。また天主は恵み深き父にてましませば、我らこれを求むる時は御子イエズスの御功徳に対して人に施さんと常に待ち給えばなり。然らば、いかほど罪に沈みたる者と云えども、決して力を落とすなかれ。天主は聖書にある如く、我が心の門を叩き給い、痛悔をもって心を開く者あらば、よろずの事を赦し給わんとの御約束あり。故に天主の御助力を頼み奉れば、完全なる痛悔に至るを得るなり。然れども、天主の賜わる助力をのみいたずらに待ち奉るべきにあらざる故、痛悔を起す便りとなる観念の条々を左に示さんとす。
第三節 完全なる痛悔を発す〔おこす〕べき便りとなる観念
完全なる痛悔は右に記す如く罪をもって天主の御心に背き奉りしところを専一に悔み悲しむに帰するものなれば、痛悔の起るところは天主を愛し敬い奉るにあり。故にこの愛と敬いを勧むる観念はすなわち完全なる痛悔を起す便りとなるべければ、少しくここに記さん。
第一に観ずべきは天主の事なり。すなわち天主は無量の御威光、御力、無限の御知恵、御慈悲、御哀憐の源にて、帝王の帝王、主君の主君、天地の御造り主、現世後世〔このよのちのよ〕の御主宰にてましますこと、また無限の御知恵をもって万事を治め計らい給いて、諸々の大諸々〔だいもろもろ〕の善、諸々の美の源にてましませば、必ず万物の拝し奉り、仕え奉り、従い奉るべき貴き君にてましますことを観ずべし。それに引き替えて大罪は、天主の御心に背き奉る逆心にして、御掟を破り奉る重き罪なれば、天主に加え奉る侮辱なるが故に、その罪は限りなく憎み嫌うべきものなりと観ずべし。これをもって、かほど貴き天主に罪をもって背き奉りし事をいかほどにも悔み悲しみ、心の底より口悔しく思い、再び背き奉るまじと堅く決心すべき事の肝要なるを弁うべし。また我が主は御慈悲限りなき御方なれば人の霊魂の助かりを何事よりも深く望み給うものなり。かほどに慈しみ深き父に背き奉りし者は我らなりと云えども、御慈しみに感じ、前非を悔い、以後心を改むるべしと思い定むれば直ちに罪をことごとく赦し、御寵愛を再びこうむらしめんと常に待ち給うものなり。故に人の天主に対する第一の侮辱は、わが罪を赦し給うまじとて頼もしき心を失う事なり。然れば右に言いし事と左に記す事を考えて、天主の御憐れみ深くまします事を目前に置きて痛悔せば、天主は罪を赦し、霊魂を助け給わんと深く頼もしく思うべし。
この希望心は平生肝要なりと云えども、とりわけ最期の時は尚更に肝要なり。そは悪魔は生涯天主の御慈悲を頼み過ごさせて、罪を勧めし如く、最期の時には今迄深く見せたる御慈悲を如何にも淡く思わせて、頼もしき心を失わせんとすればなり
第二には、先ず天主の我らに与え給う御恩の品々を観じ、またその深き御恩を知らざりしを観ずべきなり。先ず天主の与え給う御恩とは、その造り給いし有情無情〔ゆうじょうむじょう〕の万物に施し給う徳を我らに兼ね与え給いて、その上天使に似たる霊魂を与え給いしなり。この霊魂に知恵分別自由の徳を与え、なお天主を弁え愛し、直接に天主をもって楽しみ奉るべき情を与え給うなり。しかのみならず、罪をもって主に背き奉りし罰として、肉身は死し霊魂は地獄の苦患に落とさるべき筈なれども、天主はこの事を差し置き給うのみならず、却ってこの世にては無事息災に長らえさせ、後の世にては思いにも浮かばず言にも述べ難き終りなき快楽の充満せる天国を備え置き給うなり。また主は我らを助け給わん為に人となり、三十三年の間種々の苦難を凌ぎ、終に十字架に掛かり死し給いて、その御血の御功徳をもって我らを悪の奴〔やっこ〕より逃し助け給いしなり。これみな天主が人に与え給いし重なる〔おもなる〕御恩なり。
然るに人はその深き御恩を忘れ、この御礼をこそ為すべきに、却って数々の罪をもって背き奉る事のみを為せり。これを考うれば、誰か主を万事に越えて愛し奉らざらんや、誰か背き奉りし事をこの愛によりて心の底より悲しまざらんや、誰か今より再び背き奉るべからずと堅く思い定めざらんや。
第三には、主イエズス・キリストの我らに対して為し給う御事を細やかに観ずべし。イエズスは憐れみの御親、二心なき親友、霊魂の為に情深き夫の如し。親は子を生みてより養い育て、後には万事を譲り与うるが如く、真の御親にてましますイエズスは我に洗礼をもって聖寵の命を得させ、我をして天主の子とならしめ、聖体の秘蹟に籠め給う御血肉をもって我らを養い、終に天国を譲らんと待ち給うなり。またその親友の如くなるを観ぜよ。並びなき親友の証拠は人の為に命を軽んずるより外なし。然るに主イエズスは我らの為に百千難を凌ぎ給い、終に十字架に釘付けられ、御血を流し給いて、御命を果し給いしなり。
次にまた、主は我らが霊魂の情深き夫の如くなるを観ぜよ。我ら幾度も主の御心に背き奉り、貞心〔ていしん〕を破りたれども、この情深き夫なる主はそれにても我らを捨て給わず、その罪を痛悔だにすれば直ちに御赦しありて、元の如くにまた親しく思召給うなり。されば我らは決して主に背き奉らず、深く愛し奉るは至極の道理ならずや
然るに我らこれに反して不幸なる子の親の命に背く如く大罪を犯して御掟に背き奉るをもって悪魔に与し主の敵となり奉り、あたかも二夫〔じふ〕にまみゆる女の如く浮世の物に心を移して主を後〔うしろ〕に為し奉るなり。天主はこれを憎み給いて、ある預言者をもって、罪人の霊魂を数多の夫にまみゆる姦婦と呼び給えり。然れば如何なる罪人も、天主より愛せらるる慈しみの深きことと我らが天主に報い奉る愛の薄くしかも野心多き事を思い合わすれば、誰か犯せし罪を悔い悲しみて今より心を改めんと思い定めざらんや。
第四 右三条の外に痛悔を起すには、完全なる痛悔を心に覚えさせ給えと天主に祈る事これなり。この祈りの御取次ぎには聖母マリアを頼み奉るべし。この憐れみの御母は罪人の御取次ぎにましませば、天主はその御願いをよくきこし召し給うなり。また、天主を除き奉りては、この御母ほど我らの霊魂の助かりを望み給う御方あらざればなり。
左に記す祈りには完全なる痛悔の情を一々載せたれば、これを一心に唱うる時は痛悔の便りとなるべし。これ常に為すべき祈りなれども、別して死に及ぶ時は繰り返して幾度も熱心に唱うるべきものなり。
第四節 天主に立ち帰る罪人の為すべき完全なる痛悔の祈祷
全能永遠の天主、我は御誡命〔おんいましめ〕を破れる身にて、功〔こう〕も徳もなき者なれば、固より尊前〔みまえ〕に出る能わざる者なれども、限りなき御哀憐〔おんあわれみ〕に依り頼みつつ、諸悪の絆〔ほだし〕に引かされながら尊前に出で奉る。主は永遠にして広大なる神、窮りなき善徳の源にて、我身〔われら〕に与え給う恩恵〔めぐみ〕は誠に限りなきにより、すべからく万事に越えて深く愛し、頼もしく思い奉るべきに、却りて〔かえりて〕種々の〔さまざまの〕罪を犯し、過って主に背きたれば、今更御赦宥〔おんゆるし〕をこうむるべき身にあらざるを覚り、犯せし罪をば敢えて陳ぜず、ただ罪の重くしてその数の限りなきを告白し奉る。されど主の哀憐は我が罪の深きよりも尚深く、聖子〔おんこ〕イエズスの流し給いし御血の功徳は我が罪の大いなるよりも尚大いなることを知れり。主よ、聖言〔みことば〕に、罪人なりとも罪を悔い悛め〔あらため〕なば、何時にても赦免〔ゆるし〕を給うとあるを思い出し〔いだし〕、希わくは〔こいねがわくは〕我が罪を赦し給え。我が犯せし罪をかく心の底より悔みて告白し奉るは、あえて来世の苦痛〔くるしみ〕を恐るるゆえにあらず。一重に御仁愛〔おんいつくしみ〕に感じ、栄光〔さかえ〕と善徳の限りなき主に背きしを悲しみ痛めばなり。故に我今より心を改め、重ねて罪を犯して再び御意〔みこころ〕に背くまじと決心し奉る。我は罪人なれども、幸いに御哀憐〔おんあわれみ〕のまなじりを廻らし給え。我が罪の償いとして御苦難の限りなき功徳を献げ奉る。願わくは御恩寵〔おんめぐみ〕を降し給え。我今イエズスの御血の功徳と主の深き哀憐に依り頼み、罪の赦宥〔ゆるし〕を希い〔こいねがい〕奉る。我は功〔こう〕も徳もなき者なれど、願わくは御子の中〔うち〕に加え給え。聖母マリアにこの伝達〔でんたつ〕を頼み奉るにより、願わくはこの伝達〔とりつぎ〕を聴き入れ給わんことを。アメン。
第五節 洗礼を授からざる人も完全なる痛悔をもって罪の赦しをこうむるを得る事
洗礼を授かりてのち大罪を犯したる人は告白せざるべからざる故に、誰にても折りを得て告白せんとの決心もて完全なる痛悔をなさば罪の赦しをこうむるなり。故にそののち告白するを得ずして死するとも、天国に至るべき事疑いなし。かくの如く異教人も、イエズス・キリストの教えを聞きて洗礼を受くるを深く望めども授くる者なきによりて力に及ばざる時は、折りあらば洗礼を受けんとの決心をもって完全なる痛悔をなすにおいては、過ぎし罪をことごとく赦され救かる〔たすかる〕べきなり。ただし先ずこの書の第一節の第三の心得に記す条々を確かに信ぜざるべからず。畢竟第二節に載する所の痛悔を勤むる道を守る事肝要なり。
すべて異教人と信者との間の痛悔の差別は、すなわち信者は時を得て告白せんと決心し、異教人は折りあらば洗礼を受けんと決心する事なり。このほかに差別はなきものなり。
明治三十五年九月十日印刷
明治三十五年九月十九日発行 定価四銭
編 者 ラゲ
    鹿児島市山下町二百九十五番
発行者 前田長太
    東京市本郷區湯島一丁目十三番地
印刷者 河本龜之助
    東京市京橋區築地二丁目二十番地
印刷所 株式会社 國光印刷部
    東京市京橋區築地二丁目廿一番地
賣捌所 三才社
    東京市神田區錦町一丁目拾番地
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