『奇蹟についての解答』 小林有方神父様(のちに司教)

小林 有方(こばやし ありかた、1909年9月22日 - 1999年7月31日)は日本のカトリック司教。洗礼名はペトロ。カトリック仙台教区司教を務め、司教団の一員として第2バチカン公会議にも参加した。(…)1935年に司祭叙階。(…)
1954年2月21日にカトリック仙台教区司教に任命され、同年5月3日に司教に叙階された。

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 以下に、小林司教様の──しかし、司教になられる前の、1941年の──御文章を掲げます。ここで司教様は、一人の、聖書中の奇蹟物語をまともに信じられない求道者に語りかけておられます。

 私はこの司教様に同意する者です。リベラルな信者はおろか保守的な信者までもが、あたかも「奇蹟の話は第二・第三で、第一に大事なのは『神は愛』であることである。奇蹟は飽くまで、その第一の事を人間に知らせるための手段である」かのように思うのですが、私はそれは大変間違ったことだと思います。
 何故なら、これは「宗教」であるからです。何か、単に人間の精神理想を何かに仮託して描いたような世界ではないからです。もちろん人格神を認めない宗教もあるけれど、キリスト教信仰は、その大事な要素の一つとして「神の全知全能」を信じるということを含むからです。それだから、イエズス様は、人々の前で多くの奇蹟を為し給うたのでした。

 そして、聖書中の奇蹟話をまともに信じられない人は、ほとんど必然的に、御聖体に於ける「主のまことの現存」を信じられないでしょう。

奇蹟についての解答

―或る求道者に与うる書簡―

小林有方

──あの福音書に充ち満ちて居る『奇蹟物語』は私にとって丁度逆な効果を持って居る様です。『死者を蘇らせたキリスト』に出会うと、折角の信じようとする気持が消え去って仕舞うように思われて、どうも取りつきにくいのです──

 私は、あなたのお手紙に書かれてあったこのお言葉を、今しみじみと思い返して居ます。あなたは、かつての私と、全く同じ道を歩いて居られるようですね。私も、実は、この問題には閉口しました。本当に、私達二十世紀の人間には、「奇蹟物語」はない方がいいと思ってみました。ただ、美しい、人間的な、キリストの人格に牽きつけられる方が、何ぼうか自分自身にも嬉しいだろうと思ってみました。
 けれど、今の私はそうは思いません。現在[いま]の私には、聖書の中に「奇蹟物語」があってよいばかりでなく、なければならぬとさえ思われます。私達の信仰が厳粛になればなる程奇蹟が必要になって来るように私は思います。

 いつでしたか、私がフト手に取った或る文学者の感想記の中に

──キリストと云うナザレの大天才は千幾百年の間、教会と云う牢獄の中に閉じ込められて居たのであった。或は神、或は超人間と云う様な、非人間的な概念の中に押し込められて居たのであった。然るにトルストイやルナンや、オスカア・ワイルドの様な近代の人々は、教会と云う牢獄から、キリストを真人間の世界に解放したのであった──

と云うことを読みましたが、トルストイやルナンやオスカア・ワイルドに依って教会から解放されたキリストとは一体如何なるものでしょう?  私達は無限を翔上らんとする意欲を魂の中に産みつけられた。けれども私達の翼はただ有限の時と所とに羽搏く力より他には与えられて居ない──と、その文学者は同じ感想記の中で云って居ります。にも拘らず、その惨めな有限な人間性を以ってしては到底適わぬ絶望の中に、尚も無限への翹望[ぎょうぼう]をもって人を愛したキリスト。釈尊やキリストや、アッシジのフランシスの愛の背景として、之等の痛ましい絶望的な人間の宿命を置いて考えると云った様な観点に立って眺められたキリストの偉大さ . . . それが、キリストを教会から解放したと云う事らしいのです。
 私には、此の文学者の云わんとする所がよく解ります。解ればこそ、私は、どうしても之を認める事が出来ないのです。何故なら、私は、此の思想の中に、一見、人間の惨めさを強く肯定する謙虚なしみじみとした表現の裏に、実は、強く強く主張された人間理智の傲りを見るからです。

 キリストを教会から解放したのは、近代人ではありません。既に二千年以前に、キリストを取り巻くユデア人の或者は
「彼は大工の子ではないか。彼の兄弟達は私達の中に住んで居るではないか」(マルコ6ノ3)と叫んだのです。が、キリストをただ一介の大工の子と見る事が、どんなに彼等を真理から遠去けた事でしょう。

──我が為に人々汝等を呪い、且つ迫害し、且つ偽りて汝等に就きてあらゆる悪声を放たん時、汝等幸なるかな。喜び躍れ。そは天に於ける汝等の報甚だ多かるべければなり──

 キリストを、大天才ではあるけれど、結局一人の大工の子に過ぎないと見るならば、彼の宣教の当初に当って、その口から迸り出た之等の言葉を、所謂近代人達は何と解釈するのでしょう? 「彼の云う所や難し!」 傲慢なユデア人達は、こう云って、キリストを去って行きましたが、所謂近代人の傲った理智も、信じたくない時には眼を閉じるのです。
 けれど、問題はもっと厳粛です。「信じ、且つ、洗せらるる人は救われ、信ぜざる人は罪に定められる」のです。問題は、キリストを信ずるか、否かです。信じないものには、キリストの超自然に関して、その奇蹟も福音も十字架も無です。

 問題は、神が、己が全能を以ってしてまで人間理智に立証しようとした事の前に、人間的な私の一切を挙げて屈服するか、或は愚かしい人間の理智の傲りのままに、キリストを己が水準にまで引き下げるかにあるのです。
 そして、所謂近代人達は、小さな人間の理智に見極めをつけるのが嫌なばかりに、キリストをも、惨めな人間の水準にまで引き下げました。本当に、キリストを超人間的な「神よりのもの」と見るよりも、不遇に磔殺された不世出の天才と見る方が、余程容易ですからね。三日目に墓穴から蘇ったキリストを信ずるよりも「葬られはしたが、今尚生者の如き感化力を持つ」(と云うだけの)キリストを尊ぶ方が、私達の理性はより満足しますからね。
 けれども、より容易な事と、人間理智の満足の中には信仰の喜びはありません。「信ずる者は幸なり」との祝福を私は尊びます。そして、此の祝福は、人間理智の小ささの認識と、より困難な事とに値するのだと思います。

 私達の信仰が厳粛になればなる程、奇蹟が必要になって来ると先程私は申しました。それは何故でしょう。
 いつかの手紙で、あなたに申上げた通り、私は、私の一生と永遠とを、「キリストに依る救霊[すくい]」に賭けたのです。私の気持は真剣です。其処には最早淡い感傷や観念の遊戯などはあり得ません。「私の救霊が成るか成らぬか」、問題は極めて厳粛であり、現実的です。之程峻厳な問題の前に、どうして好い加減な気持で居られましょう。確信する為に、その信仰の保証を私は聖書の中に求めました。私は聖書を読み渉りました。そして、其処に、私は何を発見したでしょう?
 奇蹟! 奇蹟! 福音書の至る所に充満する「神の力!」 疑いもなき「神の証明!」でした。私はホッと溜息をつくばかりに、心の底から安堵したのです。
 あなたには、私の此の気持がお解りになるでしょうか?

──奇蹟と云うものが、物質の持つ特性に矛盾する事なしに行われ得るのでしょうか──

とのあなたの質問には之からお答えしましょう

 奇蹟が現実にあるか無いかと云う問題は別にして、奇蹟と云うものが、哲学的に見て、そもそも可能であるか否かと云う問題には次の様に考える事が出来るでしょう。
 現在[いま]存在して居る萬物が持って居る自然の秩序、その特性と云うものは、絶対的に必然なものではありません。斯々[これこれ]に造られた以上その本質に於いては必然ではありますけれど──例えばH2Oが「水」であると云う事は、一度斯く定められた以上、それは一定不変であって、H2Oの本質が変れば、最早水ではありません。けれども、その、水が具有する所の特性は決して絶対的に、必然ではありません。例えば「水は高きより低きに流れる」と云う事は、水の特性として、当然な事ではありますが、その特性の実現には、条件が付いて居ります。若しも、条件が揃わなかったならば、その特性があっても、現実に行動の上に現れては来ないのです。例えば、人間の手で「堰」を作って水の流を防ぐ事が出来る通りです。けれども、その時、人間は「高きより低きに流れる」と云う水の特性を消滅せしめたとは云えないのです。何故なら、人間が手を引けば、直ちに法則通りに流れ始めるからです。つまり、その特性は、己よりも力強い原因によって、一時、例外的に実現を阻まれて居ただけであって、水の特性としては常に存続して居るわけです。
 人間の力によってさえ、此の様に自然の特性を阻む事が出来るのならば、何故全能なる天主[かみ]によって為され得ないでしょうか?
 つまり、奇蹟とは、此の自然の秩序に対して、超自然的に、神的に、加えられた一つの例外に外ならないのです。

 では、何故、天主はかかる奇蹟を行い給うのでしょうか?  これは、あなたの──自然の秩序が神の創造にかかるならば、奇蹟は神の叡智に反しないでしょうか?──とのお尋ねへの答えになると思います。
 私はこう考えて居ります。人間は誰でも、自分自身の「運命」を考えます。これは、人間に思考力が与えられた以上、考えずには居られない大問題なのです。ですから古くから、沢山の賢人聖者が現れて、種々な教えを説いて居ります。こうして世の中には沢山の「宗教」が出来上がりました。
 けれども其処には、その説く所の教義や道徳に就いて、互に相容れない矛盾や、互に相反する思想がある様に思われます。例えば、仏者の説く所の「汎神論的非人格神」と、キリスト教の説く所の「唯一神的人格神」とが互に矛盾した思想でないと誰が云えましょう。仏者は、汎神論の立場に立って、殺生を禁じましたが、イスラエルの神は . . . 自己[おのれ]への犠牲[いけにえ]に殺生を要求しました。此の様な二つの相反する思想や道徳の前に、人々は迷わずには居られないではありませんか。「一体、どちらが真理なのでしょう?  」と。
 若しも真に神が在すとするならば、──之は仮定ではなく、少くも宗教を論ずる者にとって絶対なる存在でありますが──弱い人間を此の迷妄の中に放任し給う筈がありません。それこそ、神の叡智と愛とに反する事なのですから。
 神は人間が、此の迷妄と誤謬の淵に沈んで仕舞わない様に、「唯一にして真正なる宗教」に対して、それが真に「神よりのもの」なる証を立て給うたに相違ありません。

 さて、「神の証」とは、他の如何なる被造物にも属せず、ただ、神のみに属する証でなければなりません。丁度、あなたが、約束の手形を発行する時に、あなた以外の誰も持って居ないあなたのみの実印を、それに捺さねばならない様に、そして、その実印の存在によって、それが間違いなく、あなたよりのものなる事が認められるように、神よりの正しき宗教には、又、神のみの印形[いんぎょう]が捺印されねばならないのです。そして、それこそ「奇蹟」と呼ばれるのです。
 ですから「奇蹟」は、云わば、神の実印です。此の奇蹟によってこそ、その宗教が果して、間違いなく神よりのものか否かが判るのです。
 ユデア人達の不信仰を咎められたキリストの御言葉に「汝等若しも私に信じたくないならば、せめて私の行いに信ぜよ」とあるのは此の事なのです。
 「かの人が若しも神より出たものでないならば何事も為し得なかったでしょうが . . . 」と、生れながらの盲目を癒された青年は、衆議所で叫んで居ます。「神より出たものでないならば」為し得ない所の事ども、つまり「奇蹟」の存在こそ、それが「神より出たもの」なる事の動かすべからざる証ではないでしょうか。

 敬愛するM様、大分長たらしく書きました。私の此の書簡を読みながら、恐らく、あなたの心は所々で、強い反発を、お感じになった事でしょう。それは私にもよく解ります。けれども、一度、静かに考えて頂きたいと思います。
 あなたは──信ずる事の出来るあなたは幸せだ──と、云われた事がありましたね。本当に、私の心は、今「信じ得た喜び」に震えて居ます。私の、今の、最大の希望は愛するあなたが、私と同じ様に、「信じたるが故」の祝福を豊かにお受けになる事です。どうぞ、あなたの友達の祈りを信じて下さい。
 そして、あなたも私の祈りに心を合せて、お祈り下さるよう、心からお願い致します。

INTER NOS 2601(1941年

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