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イエスの惑星BBS
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正平協は正義の看板を下ろすべき  投稿者:グレゴリオ  投稿日:2008年 8月 9日(土)07時54分40秒
  中国でのカトリック教徒への弾圧、北朝鮮の人権弾圧、それに北朝鮮による拉致被害。自由民主主義国家の指導者たちに対しては、激しく抗議するが、「正義」を掲げながら、明らかに酷い共産主義者たちの蛮行には一切口をつぐむ。カトリック信仰ではなく、特定の思想・イデオロギーに従って行動しているとしか思えない。このことを、彼らに問い詰めると、一様に「そう言われれば・・・」とは言うものの、それ以降、私を避けるようになる。彼らに「正義」を語る資格は無い。いますぐ、「正義」の看板を下ろすべきである。知らず知らずのうちに無垢な信徒を洗脳し、そして、教会の典礼まで破壊するに及んだ彼らの活動に歯止めを掛けなければ、日本の教会に未来は無い。  

ノムさんへ  投稿者:おつる  投稿日:2008年 8月 8日(金)20時10分4秒
  有難うございます!!
世界中が 「愛」のために動いています。
イーナイーナの、いい日です。

>懐中電灯を屋上で点すよ。
うれしいです。 きっと 世界中の祈りは届きますよね!!




北京五輪開幕を前に、中国の人権状況に抗議するデモが世界各地で起きている。
AFP通信などによると、 【米国ワシントン】では7日、中国大使館前で
人権活動家らが「北京五輪は虐殺五輪だ」「チベットや東トルキスタンを
虐殺するのはやめろ」などと叫んだ。
【カナダのオタワ】では約300人が、中国大使館の前で人権侵害に抗議した。
10万人以上の亡命チベット人が住む 【インド】では、
約千人のチベット人がニューデリーで、チベットの旗を掲げながら
「中国五輪にノーと言おう」と叫んで行進した。

【スペインのバルセロナ】や 【リトアニアのビリニュス】、
【オランダのハーグ】、 【アルゼンチンのブエノスアイレス】などでも7日、
チベットでの人権向上や宗教の自由を求め、多くの人がろうそくをともした。

【ベルリン】北京五輪の開幕を控えた七日夕(日本時間八日未明)、
ベルリンのブランデンブルク門前で、中国のチベット政策を非難する
市民団体「チベット・イニシアチブ」が抗議集会を開いた。
同団体などは北京五輪開催中、ドイツ各地で同様の抗議集会を行う予定。

【ロンドン】北京五輪開幕を前にロンドンの中国大使館前で7日夜、
同国政府によるチベットの人権弾圧に抗議する市民団体がデモを開いた。
100人以上の参加者がキャンドルに灯をともし騒乱で犠牲となった僧侶らの
冥福を祈った。参加者は大使館の建物に向かい
「中国政府は他民族への弾圧をやめよ」「インターネット検閲を停止せよ」
などと抗議の声を上げた。
 

(無題)  投稿者:ノムさん  投稿日:2008年 8月 8日(金)19時22分30秒
  色々あって新しい会社を一つ作り、私は無報酬の社長なんだけれど、銀行の通帳が今日出来た。即ち8月8日。通帳番号が0001717、イーナイーナ
「いい番号が取れましたよ!」なんて、担当者が喜んで通帳を届けて呉れた。
0808が、イーナイーナの、いい日になればいいね。「人類」にとって。
私の生まれたのが昭和17年。
何となく成功しそうな気がしてきた。

おつるさん、がんばって。声は届くと信じます。
私は秋田屋で呑んで帰る。でっかいテレビがあるんだけど、真央ちゃん以外は見る気ない。まして開会式なんて。

懐中電灯を屋上で点すよ。

私の尊敬する先輩、「憂慮する会」前会長、澁木嘉孝氏の“渋い”文章を、プレゼントします。

http://www.nomusan.com/shibuki/index-shibuki.html
http://www.nomusan.com/shibuki/45-ringo.html

http://www.nomusan.com/~essay/index-jubilus.html

 

★緊急★北京五輪開会式  投稿者:おつる  投稿日:2008年 8月 8日(金)13時03分2秒    編集済
  今日は北京五輪開会式

オリンピックが開幕する夜、8月8日 午後九時、
自宅、仕事場、公共の場所で一斉にキャンドルを灯します。
世界中の何千万もの人たちがチベットの自由と希望の祈りのためにキャンドルを灯すという史上最大の光の抗議が行われることになっているのです!!!!
一億人の光の抗議です。
http://www.candle4tibet.org/jp/

ダライラマ法王も承認されています。

そして五輪開会式典開始と同時に,サッド・スモーキー・マウンテンズ
(悲しみの煙に包まれた山々)チームが、世界の主要都市の高層ビルや、モニュメント、主要ビル、世界の三大陸にある100以上の山の頂きから赤い煙で空を照らします。

ここで のろしがあがる予定↓
マッターホルン 標高4,478メートル(スイス、アルプス山脈)
モンテローザ 標高4,634メートル(イタリア、アルプス山脈)
モンブラン 標高4,810メートル(フランス、アルプス山脈)
ドロミーティ 標高3,300メートル(イタリア、アルプス山脈)
サハマ 標高6,530メートル(ボリビア、アンデス山脈)
アルパマーヨ 標高5,947メートル(ペルー、アンデス山脈)
ワスカラン 標高6,768メートル(ペルー、アンデス山脈)
チョピカルキ 標高6,534メートル(ペルー、アンデス山脈)
ノーステーブルマウンテン (アメリカ、コロラド州)
ストック・カンリ 標高6,137メートル(インド、ヒマラヤ山脈)

北京五輪開会式場でも たぶん中国のテレビは写さないと思いますが
会場内にいる人は キャンドルをともせないので 携帯電話やペンライト、
懐中電灯など なんでもいいので光るものを照らします。

私は 自宅にチベットの旗を掲げて 50個のキャンドルを夜9時〜深夜まで灯します。
頬白親父さんやtononさんも 参加しています。
世界中のひとが同時に祈りを捧げます。

緊急ですので もし キャンドルを灯せない人は
懐中電灯でも 携帯電話のライトでも ライターでも車のライトでも 何でもいいです
光とともに お祈りしてください。

クリスチャンは 中国で弾圧されたり 獄中で亡くなったりしている
中国のカトリック地下教会の人のためにも お祈りしましょう
クリックで拡大
 

続き&報告事項  投稿者:ノムさん  投稿日:2008年 8月 8日(金)08時57分21秒    編集済
  「頬白」さんのところでもお伝えしましたが、

松浦司教の回答文、写し間違いがあったので訂正しました。司教様にも失礼致しました。
他にあってもいけませんので、原文を画像でアップしました。
http://www17.ocn.ne.jp/~antijpj/QandA2008.06.01.html#2008.08.08
ご確認下さい。
何かあれば、ご指摘下さい。

ついでですが、前葉「土下座」は、崇敬よりもむしろ世俗・物理的パワーへのひれ伏しであり、意味が違うことは承知しています。
しかし時代劇を見ても、襖の開け閉めにも膝をつきますね。立ったままはしないです。
「膝行」という作法もあります。
立ったままでものを食べることも、つい最近までの日本では、品のないことと思われていました。

http://www.nomusan.com/~essay/index-jubilus.html

 

Re: 跪くことについて  投稿者:ノムさん  投稿日:2008年 8月 8日(金)05時20分0秒
  > 本当に「日本の伝統」を追求するなら、「立ったまま深い礼」ではなく、「正座で手をついて礼」でしょう。

私たちの仲間には『土下座』をいう者もいます。

私は印度で回教寺院の礼拝に与ったことがありますが、拝礼では額を床につけます。
招かれた者の礼儀として、私は当然、そのようにしました。

有名な『伴大納言絵巻』で左大臣源信の祈る場面があります。
私は日本人の祈りの場面で、一番感動的なものと感じます。

お辞儀をするときに相手よりも頭を低くするのが、基本的な礼儀です。
一般的な「目上」に対しては、必ず、自分の頭を、低くしなければなりません。

頭を下げる、身を低くする、自分を可能な限り低くする。理屈でなく、至高のものへの、それが当然の感情だと思います。
 

形式主義  投稿者:Pas  投稿日:2008年 8月 7日(木)22時54分21秒
  「ふだん信徒たちの前ではTシャツなどのラフな恰好のくせに、デモや憲法講習会では聖職者の恰好をする」
これこそ、形式主義の最たるものだという気がしますがねえ。これが形式主義じゃなくて、何が形式主義でしょうか。

「こう書いてある。「わたしたちの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』
 ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」(マタイ21.13)
 

再び、跪くことについて・・  投稿者:サボテン  投稿日:2008年 8月 7日(木)09時32分27秒
   ヨーロッパ中世の絵画で、悪魔の絵が象徴的に描かれていることがあります。ギスギスにやせて、目が鋭く、耳がとがっている・・。そして、足が木の棒のように真っ直ぐ・・。足のひざの関節がないのだそうです。これは、悪魔は神の前にひざをかがめない(跪かない)からだそうです。

 ある神父様は、「跪かなくても、カトリックの信仰を育てることはできる。しかし、跪くことによってしか得られない信仰は、跪かないと得られない」と言われました。

 高齢で関節痛がある方は、お座りになっていればいいと思います。若くて、膝に問題がなくて跪いて祈りたいと思う方がいるのに、撤去撤去って、理解できないです。さいたま司教は典礼には無関心なので(正平協が命!)、口での拝領もOKです。ミサ中の跪きにクレームを出されたとも聞かないです。私の教会の司祭は、聖体降福式のはじめ、御聖体に献香するときも跪かれます。聖体礼拝はもちろんです。

 このグローバルな時代に、「日本の伝統」などにこだわるのが、ナンセンスです。それに、本当に「日本の伝統」を追求するなら、「立ったまま深い礼」ではなく、「正座で手をついて礼」でしょう。中途半端な、誰かの思いつきで「典礼改革」が進められたのでしょうか?そして、今、また、ミサの式文を変えようとされています。すでに、教皇庁に提出済み・・。かろうじて残っている、ミサ曲4つの文語がどうなっているか心配しています。「主よ、あわれんでください。かえりみてください。」もし、こうなれば、冗談じゃないです。小教区を去って、聖グレゴリオの家(ここは、毎週ラテン語)に通います。

 跪き台のない修道院聖堂では、「気合の入っている」人達は、イスの後ろで、前のイスに少し手を置いて跪いておられたようです。ダンボさんの「手作りしようという意気込み」もすごいです!拍手!!!
 

中央協議会 秘書室 資料室 のお宝・・・  投稿者:サボテン  投稿日:2008年 8月 7日(木)08時24分8秒    編集済
   昨年2007年7月7日、教皇様は自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」を出され、トリエント公会議(1545〜)議定書に基づく儀式書で、ミサと叙階の秘跡以外の6つの秘跡を行うことを許可されました。私は、ある秘跡をお願いしようと、主任司祭に話しました。「儀式書が教会にない」これが、ネックでした。

 儀式書がなければ確かに難しいです。思い当たるところに問い合わせました。ほとんどあきらめていたところ、某図書館より連絡があり、「中央協議会資料室にある。出版社○○、書名○○、ページ数○○〜○○。○○先生(信徒)を訪ねなさい。」

 潮見のその建物の中に、私が探していたその儀式書はあったのです。

 今、旧ミサ(トリエント・ミサ)を神父様にお願いすると、「儀式書がない」と言われる、という話はよく聞きます。おそらく、中央協議会にはすべてあると思います。すばらしいお宝は眠っているはずです。しかし、そこにいる方にとっては、時代遅れの価値のない紙くず同然の古本なのでしょう・・・。

 私の場合は、ある修道院にそれと全く同じ儀式書があり、そちらのルートで閲覧しました。洗礼、堅信、婚姻、終油、告解の秘跡がラテン語・日本語対訳(日本語のローマ字表記付き)でありました。黒表紙、赤と黒の二色刷り、表紙は金文字という装丁。そして、何よりもすばらしい式文でした。40年前には普通におこなわれていた秘跡の儀式書です。読めば、誰でも理解できます。手垢がつき、鉛筆の書き込み「塩・油・紫ストラ・聖水・・・etc.」も残っていました。コピーを教会に持ち込み主任司祭にお願いしました。OKでした。

 今の儀式書は、分かりやすいことだけは、認めます。しかし、荘厳さがないです。言葉が少なすぎると思いました。

 フランスでもアメリカでも、旧ミサは法に基づいて行われているというのに、日本ではなぜ行われないのでしょう。(理由は分かっていますが・・・)毎週ではなくても、せめて1年に一回でも与りたいです。その日のために、ミサ典書(1962年版)は入手しました。HP「護教の盾」さんのビデオで付き合わせながら、式文をおっています。その日を待っています。
 

人間の気配が感じられなかった街 潮見  投稿者:Pas  投稿日:2008年 8月 7日(木)04時34分46秒    編集済
  書こうか書くまいか迷いましたけど、あえて書きます。
......前にも少しだけ書きましたが。

平日の午前中に行った「潮見」という場所は、人気(ひとけ)がほとんど感じられないところでした。
潮見教会には数人の女性信者の方がいて、清掃や水撒きなどされていましたけど。
まあ潮見駅とその周辺は、それなりに人は多少行き交っていましたけど。駅から少し離れると、もうだれもいない。
潮見の駅から教会まで歩いた数分間、ほとんど誰ともすれ違わなかったような気がします。

ゴーストタウンみたいな街。少なくとも平日の日中は人間の臭い(におい)がしない、非人間的とも言える街。

田舎者のひがみかもしれませんが、それが私の「潮見」に対する印象です。

「人々と共に歩む教会」のはずの日本のカトリックの中枢があんなゴーストタウンのような場所でいいのでしょうか?
東京23区内で比較的安価に広大な面積の土地を確保しようとすれば、ああいう場所しかなかったのでしょうが......。
あそこは人間の臭い(におい)がしません。本当にびっくりするくらい、しません。そういう場所です。
私は元来、人付き合いが苦手な方で、一人でいるのが結構好きだったりします。
しかしそんな私でも、あそこにあの時間帯、一人で数時間放り出されてしまったら、たぶん気が狂いそうになります。
無性に人恋しくなります。冗談でなく本当にそのくらい、びっくりするくらいに人間の気配がありません。
「ゴーストタウン」と書きましたが、実際に行ってみればそれが誇張でないことは容易に理解できると思います。

日本のカトリックの「中枢」にいる方々が日常的に仕事をするのに適当な場所とは、全く思えません。
あそこに長くいると、一般の日本人の感覚からどんどんかけ離れていってしまいますよ、まちがいなく。
カトリック新聞の内容が「??????」みたいになるのも、容易に理解できます。
「バウネット・ジャパン」みたいな組織に平気で住所を貸してしまうのも、これまた容易に理解できます。

一人でも多くの日本のカトリック信者の方々が「潮見」という場所を訪れることを、願ってやみません。
理由の一つはもちろん、北原怜子さんの生涯について考えていただきたいということ。
もう一つの理由は、日本のカトリックの「中枢」の「仕事場」がどんな場所か、知っていただきたいということ。
必ずや多くを考えさせてくれる訪問になる(であろう)ということを、お約束します。

カトリック中央協議会 日本カトリック会館案内図
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/map.htm
 

Re;跪き台  投稿者:サボテン  投稿日:2008年 8月 7日(木)01時30分44秒    編集済
   さいたま教区北部に、第V公会議後に献堂された教会があります。跪き台のあるベンチを入れようとしたところ、当時の教区長である長江司教の強い指導が入り、普通のイスになったそうです。

 私のところは、感謝の賛歌が終わってからから「信仰の神秘」まで、跪きます。跪いて聖体拝領する方もおられます。多くの方は、聖体拝領の後の聖なる沈黙の祈りのときも跪いておられます。しかし、新しい考え方のシスターと、信徒お一人は跪かれません。固いポリシー(?)があるようです。外国の方は、派遣の祝福の時にも、片ひざをつかれます。

 先日、東京教区では、感謝の賛歌の終わりから、奉献文の結びまで跪いていました。また、拝領前の信仰告白でも跪いていました。

 聖体降福式で御聖体の祝福を受ける時、跪いて十字を切る人と、立って十字を切る人に分かれます。腕組みをして座っておられる方もあります。すべて許容されています。真剣に信仰を求めた時期に習ったこと(姿勢)は、その方にとってかけがえのない「真実」ですよね。

 修道会の聖堂をお借りして、祈りの会(ロザリオ・聖体降福式・ミサ)をしているグループがあります。あそこの人は気合が入っているので(?)、跪き台があろうが、なかろうが、自分の信仰に基づいてやっておられます。女性の方はスカートが汚れるからか、床に小さめのバスタオルを折って敷いておられる方もありました。指導の神父様は何も言われません。私はそれが普通だと思っていました。

 もし、大阪大司教区に行って、「立ちなさい」「手で受けなさい」と言われたら、どうしましょう。たかが姿勢、されど姿勢ですね。

 告白場も何も跪き台を撤去しなくても、座るのがふさわしいと思う方はパイプイスを持ち込まれればいいではありませんか。大阪は大変そうですね。がんばってください。
 

下からのキリスト論  投稿者:Pas  投稿日:2008年 8月 7日(木)00時48分47秒    編集済
  サボテンさん


二十代前半の頃でしょうか。
自分の中でキリスト教に対する反感より憧れの方が勝ってくるのを感じ始め、聖書を必死に熟読しました。
しかし、なんとなくそれだけでは足りない気がしてきました。自分一人で満足してるだけではないのか、と。
プロテスタントについては教会に行かなくとも聖書だけでも十分だろう。でもカトリックについては......???
そう悩んでいた頃、田舎町では大規模なある書店で百瀬師の本に出会いました。期待して読み始めましたが......。
「カトリック要理解説」という副題が付いていたにもかかわらず、全然ピンと来ない。肩すかしを食らった気分。
どこまで読んでも「?」マークしか、脳裏に浮かばない。「カトリック要理解説」の本のはずなのに......。
ステーキハウスに行ってステーキが食べられると思って注文したのに、ハンバーグでお茶を濁されたような。
......結局、カトリック教会に実際に通い始めるまでの期間を、延ばしてくれただけの本でした。

マシア師がいみじくも使った「信仰の立場からの創作」という言葉と同じ発想が、百瀬師の本にはありました。
百瀬師のあの本はマシア師の「教育」同様、相手をとめどない混乱と不信と疑心暗鬼に陥れるような「解説」です。

火曜日に四谷のサンパウロに行きました。
あそこはとっくに絶版になったいろいろな本が置いてあって便利は便利ですが......。
百瀬師のあの本もまだありました。「百害あって......」とは、ああいうものを指すのでしょう。
あの類いのものばかり読まされていては、早晩カトリックの信仰が馬鹿馬鹿しく思えて来ます。恐ろしい本です。
 

潮見「日本カトリック会館」からの連想  投稿者:Pas  投稿日:2008年 8月 7日(木)00時13分9秒    編集済
  「カトリック中央協議会」「日本カトリック正義と平和協議会」と発足当時は同じ住所だった「バウネット・ジャパン」
http://www.nomusan.com/~essay/essay_16_chuche10.html(ノムさんのページから引用しました)

2000年12月8日九段会館の「女性国際戦犯法廷」に検事役で登場した北朝鮮人「黄虎男(ファン・ホナム)」
http://hackjaponaise.cosm.co.jp/NorthKorea/bbslogs/nkoreabbs1575.html
http://www.pbase.com/image/6323597(「小泉訪朝」の際、金正日の通訳を務めた人物)

朝鮮総聯機関紙『朝鮮新報』が伝えるバウネット・ジャパンと黄虎男(安倍晋三氏に工作員と名指しされる)
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/sinboj2000/sinboj2000-5/sinbj000529/sinboj00052981.htm
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/sinboj2002/5/0510/81.htm
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2005/05/0505j0129-00002.htm
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2005/05/0505j0122-00002.htm

北朝鮮訪問に当たり黄虎男に多大な謝意を表明する高橋哲哉氏
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/sinboj2001/9/0926/51.htm
『朝鮮新報』に度々登場する(言及される)高橋哲哉氏
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2003/j05/0305j0520-00001.htm
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/sinboj2000/sinboj2000-12/1204/52.htm
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/sinboj2001/6/0618/61.htm
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2006/05/0605j0607-00001.htm
「女性国際戦犯法廷」に協力を惜しまなかった高橋哲哉氏
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/sinboj2000/sinboj2000-12/1218/51.htm

2008年9月27日(土)「宗教者九条の和 シンポジウムと平和巡礼 in おおさか」で基調講演を行なう高橋哲哉氏
http://www.oct.zaq.ne.jp/vows/(会場 大阪カテドラル聖マリア大聖堂 大阪市中央区玉造2-24-22)
 

Pas さんへ  投稿者:サボテン  投稿日:2008年 8月 6日(水)23時50分49秒
   Pasさんのように若い方が、北原怜子さんのひたむきな信仰を見つめようとお考えになっていることは、嬉しいことです。

「下からのキリスト論」「下からの修道生活」という考え方に、疑問を感じてくださっていることも嬉しいことです。

 教会の伝統の考え方を、「既成の権威主義」であるとし、人間側から、キリストや修道生活について捉えなおそうという試みに過ぎないわけですが、つきつめれば、神の意思が存在しなくても、「キリストは人間として偉大であった」「修道生活は意義ある生活である」と、言いたいのでしょうか。

 数年前、上智神学部のシラバスで、岩島神父様が教義学の参考文献として、『イエス・キリストを学ぶ―下からのキリスト論―』を掲げておられましたから、神学部学生は読んでいるのでしょうね。

 青山さん、尼僧の方ですね。新聞の折り込みチラシで写真を見ました。
 

教会に潜り込んだ害虫  投稿者:彦左衛門  投稿日:2008年 8月 6日(水)23時03分59秒    編集済
  ひこざ:
  ところが、無智、無恥、無教養な司祭官僚たちは、そういう謙遜さを欠いていた。

ヒコザ:このことは典礼だけではない。松浦補佐司教をはじめとする一部司祭官僚は、内外政治や、社会問題では、無智、無教養であるにも係わらず、軽率、有害な私的意見を振り翳し、それを教会の権威、組織、設備、財政を用いて、信徒と日本社会につきつけている。

  公私混同の罪は重い。 それは信徒の人間的弱さ、信仰の不足から胚胎する大小の罪とは、次元をことにした大罪だ。

 しかも彼らは、信徒有識者の情理を備えた問いかけをも全く無視し、その非違を続けている。松浦師の9条反対の全国興行などそういうものだ。

 しかも、それだけではない・彼らは、現在の世界でもっとも悪質な共産主義、非人道国家、教会迫害者の北朝鮮の賛美者、武者小路公秀をわざわざ引っ張って来て、司教委員会の講師として、そのご説を拝聴しタリ、同様田代菊雄の講演会など開催、信徒に聞かせている(大阪、広島)。

 これではっきり分ったのは、これまでまさか、そういうことではない、と思っていたこと、つまりわが大切な教会指導部が、他の点では立派な方であるにも係わらず、回復しがたいほどに左脳を侵蝕されていることだ。

 松浦にいたっては、到底彼をカトリックの司教として受け入れるわけにはいかない。
あらゆる「合法的」、「信仰的」、「霊的」手段を用いて、この教会組織に潜りこんだ害虫の活動をチェックすべきだろう。
 

日本語典礼について  投稿者:彦左衛門  投稿日:2008年 8月 6日(水)21時00分24秒
  ひこざ:
 典礼言語の日本化に小生反対しているわけではありません。しかしそれは二義的、三義的なことです。

  とまあ、ひこざ申しましたが、現行ミサ典礼の日本語、残念ながら、主の救いと犠牲のみ業を再現、体現する、厳粛、神聖な典礼にマッチしたものではない。日本語としても、この典礼に相応しい、典雅な響きがない。

 当時、ラテン語を廃止、日本語にかえた典礼委員会の人々は、長江さんも含めて、日本語の長い伝統と、その宗教用語としての可能性については全く無知、無教養の人だったのではないか。

  かれらはその作業に当たって、もっと朝野の識者の意見を徴すべきだった。こういう作業に当たっては拙速はもっとも戒められる。時には、宗教的、かつ言語的天才の出現を待って、初めて改定を進めていいことだった。

 ところが、無智、無恥、無教養な司祭官僚たちは、そういう謙遜さを欠いていた。
 

跪き台  投稿者:ダンボ  投稿日:2008年 8月 6日(水)20時22分29秒
  最近の司祭は、ミサが形式主義にならないようにと、一つ覚えのように繰り返します。
でも、ミサの姿勢や動作は慣れ親しんで、自然と体が動くのです。
それを、「ここでの十字の印はしてはいけません、ここも必要ありません」
「もう跪いてはいけません」
「日本司教団は手で聖体をいただく許可を得たのですから、
もう、口で受けてはいけません」

こういうのが、形式主義じゃないのかしら。
間違ったことをしているなら ともかく、司教団が一方的にあっちこっちカットして
それを、信徒に強制する。
「これは日本の文化にはないのだから、してはいけません」
こういうのを形式主義というのだと思います。

次にあれをしなきゃ!これをしなきゃ!・・・と落ち着かないなら、問題だけど、
信徒は皆、自然と体が動くのですよ。

禁じられたがために、手が自然と動きそうになって、慌てて引っ込める・・・
そのたびに悲しくなります。
南米の方などは、お構いなくやってますし、なら、日本人もして良いのでは?と思います。

司祭は、形式主義に陥らず、民主的をモットーとされているようですが
司祭と役員が勝手に決めて、跪き台を撤去して、
私たちが跪いて祈る権利を奪っているのです。

告解室の跪き台まで、撤去しようとの話になり、
ピース9メンバーは
「あんなものがあったら、跪かなくてはならないような感じで邪魔。」

カチン!と来て「跪きたくなければ、跪かなかったらいいんじゃないですか?
跪いて祈りたいという人の権利を奪うことはないでしょう!」と。

聖体訪問に行っても、跪いて祈る習慣が身についているのに、
跪き台が撤去されているので 跪けず、何とも寂しい限りです。

跪きたければ、床に跪いたらという方もいますが、なかなか、困難で・・・
で、今日、材料を買ってきました。
私物の跪き台を作ることにしましたーー。
個人で聖体訪問に行って祈るときくらいは、好きに祈らせていただきます!!
ピース9主要メンバーは聖体訪問をしているのを、見たことがありません。
祈らないのに、勝手に邪魔だと決め込むのは 民主的なのでしょうか?

Pasさんの投稿を見て、この長江司教が・・・とため息が出ました。
 

比叡山宗教サミット  投稿者:おつる  投稿日:2008年 8月 6日(水)00時33分15秒    編集済
  比叡山宗教サミット21周年 世界平和への祈りの集いに参加してきました。
書写山 円教寺 執事長 大樹玄承様から おつるブログに直接コメントをいただいて、
宗務庁からチベット旗禁止との命令が出たとのことで、チベット旗は持たずに行きました。

京都の大塚司教様 長崎の野下神父様 フランシスコ会のベルギー人のルカ神父様
比叡山のふもとの修道女様

そして 教皇庁諸宗教対話評議会議長
バチカンの フランス人のジャン=ルイ・トーラン枢機卿様に

大阪の箕面教会からきました、和田幹夫神父様の教会からきましたと
ご挨拶して お話しました。

チベットのために お祈りしてきました。

http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/article/486/

 

教勢停滞の原因  投稿者:彦左衛門  投稿日:2008年 8月 5日(火)23時22分58秒
  長江司教:
 >日本でカトリックが伸び悩んでいるのは、カトリックのあまりにも西洋的な表現のせいである。

  ひこざ:そうではないでしょう。 カトリック宣教の前に立ちはだかっているのは、日本社会と文化の根底にある、人間中心の世俗主義です。この世俗主義は、戦後の生活困難の中では、一時弱っていましたが、日本が経済成長を続け、繁栄を謳歌する時代になって、一層強まりました。
 そして、戦後一時精神的混迷の時代に躍進した、カトリックの教勢はこの世俗主義への正面からの対決を怠ったために、その後の日本での、地の塩たる自らの預言者使命から離脱してしまったのではないでしょうか。そのことが今日まで続くカトリック宣教停滞の原因でしょう。

 いま日本社会は、再び戦後すぐの時代と同じように、精神的混迷、自信喪失の時を迎えようとしています。

 この時こそ宣教のまたとない機会です。日本人の心と文化に焼きついている世俗主義、人間中心主義では、真の救いはない事を真正面から説き、説き続け、このカトリックキリスト教の使信を掛け値無しにぶつけて行くべきです。

 典礼言語の日本化に小生反対しているわけではありません。しかしそれは二義的、三義的なことです。
 

サボテンさん   投稿者:Pas  投稿日:2008年 8月 5日(火)22時00分9秒
  実は北原怜子さんの生涯を見直そうと思ったのは、次のブログをなにげなく読んだのがきっかけでした。
http://sakaba.cocolog-nifty.com/cocoro/2007/03/post_4cb1.html
短い期間でしたがそこで色々な挫折感を味わって、そのたびに苦しんで、どんどん信仰が深まっていったのですね。

といっても私はまだ「やなぎや けいこ」という著者の伝記しか読んでませんので、えらそうなこといえませんが。

現代カトリックで「下からの〜」という人々は、人間の都合に合わせて神のあり方を変え続けようとしています。
北原怜子さんは反対に、神様の御旨に従ってどこまでも自分が変わり続けようと人知れず努力を重ねました。
世間の目からは一見同じような活動をしているようでも、実は出発点から目指すところまで全く異なるのですね。

最近こういう話も知りました。
http://www.plinst.jp/musouan/aoyama14.html
 

北原 怜子さん  投稿者:ダンボ  投稿日:2008年 8月 5日(火)21時54分17秒
  北原怜子さんとゼノ修道士は、コルベ神父様の聖母への信心を受け継がれ、そのまま、働かれた方です。器用な方々ではなく、特別、神学的な知識があるわけでもない。ただ単純に、イエス様を慕い、マリア様に倣って生きた方々です。(そこが本田神父とは違うところ)
聖書学者は自分の知識にたより、自分の頭で考え、全て理解できると傲慢になります。
コルベ神父様は、哲学・神学の博士号をもち、秀でていましたが、知識をいただいたのはみさかえのためと、ますます謙遜になり、全てをみさかえのためにつくされた方です。
ゼノさんも、その精神で清貧・従順・貞潔の誓願を全うされ、北原怜子さんもまた、全てを捧げられたのです。
これが、フランシスカン精神です!
マリア様をレイプされたなどという本田神父は、聖フランシスコが生きていたら、真っ先に、口を塞ぎに行くでしょう!あれほどまでにイエスを愛した聖フランシスコの弟子とは思えません。

北原怜子さんを皆さんが慕われたのは、純真な無私の献身であって、器用さ、今的に言って「できる人」ではありません。ひたむきさの中で聖なる香りをはなたれたのだと思っています。

ゼノさんとの関係で、コンベンツアル会が北原怜子さん列福のために、力を入れています。
 

『蟻の街のマリア』・・  投稿者:サボテン  投稿日:2008年 8月 5日(火)21時18分0秒    編集済
   『蟻の街のマリア』の映画を中学生の時学校で見ました。1970年代です。当時は感動しました。

 幸田補佐司教が司祭時代、febc(キリスト教インターネットラジオ)で1年間、聖書と信仰について放送されたのですが、その中で北原怜子さんと、幼きイエズスの聖テレジアについても触れられました。出演者も聴き手もプロテスタントの方が多数を占める番組としては画期的だったと思います。

 番組の中で、彼女が実際蟻の街で活動したのはとても短い期間だったことに驚いた、という話がありました。また、伝記にはあまり書かれていないことですが、彼女が病気で蟻の街から退いた後、代わりの女性が彼女の後を引き継いだそうです。引き継いだ女性が何の問題もなくやり遂げていた様子を見た怜子さんの心境は複雑だったというような面も、話されていました。

 彼女の信仰と、永井隆博士の信仰、通じるものがありますね。すべてを神のみ旨だと受け入れ、感謝する、という姿勢です。惜しい方が、逝ってしまわれたと思います。生きて、メルセス会におられたら・・・、と想像することはあります。
 

潮見教会を見てきました  投稿者:Pas  投稿日:2008年 8月 5日(火)19時08分12秒    編集済
  昨日と今日、用事かたがた上京し、北原怜子さんゆかりの潮見教会にも行ってきました。
まず潮見教会の隣の「日本カトリック会館」の大きさに驚き。八階建て?くらいですが、その奥行きがスゴい。
もう一つ向こう側の通りに面した、反対側の入り口があるほどでした。見間違えたのでしょうか?
「日本カトリック会館アネックス」とか、反対側には表札が出ていたような。居住部分? 宿泊施設?
潮見は高層マンションが建ち並んでいましたが、日中は人影がまばらな街でした。
あの辺りは北原さんの時代とは全く異なる光景になってしまっているのでしょうか。

さて潮見教会ですが、聖堂のそばには、北原さんの小さな像がありました。素朴な感じのものでした。
「われは主のつかいめなり 仰せの如くわれになれかし エリザベト 怜子」と刻まれていました。
その右側には北原さんの生涯をまとめた「碑誌」が。
聖堂でお祈りしてきました。女性信者の方々が敷地内の清掃とか散水をされていました。
由緒ある教会なのに、神父様は他の教会から来られているようですね。さびしいことです。
聖堂の掲示は当時の北原さん関連の新聞記事の切り抜きで埋まっていました、が......。

そこに一枚、「宗教者九条の和 シンポジウムと平和巡礼 2008年9月27日」という大阪教区の行事案内が。
......三日間の正平協全国大会後、二週間と経たずしてですね。基調講演は高橋哲哉氏とか。

帰りに四谷のサンパウロに回り、北原さん関連のものを含め、何冊か買いました。
今回は特に昨夜など東京はひどい雷雨だったのですが、私は幸い傘を一回も開かずに済みました。
 

典礼の日本化の主張  投稿者:彦左衛門  投稿日:2008年 8月 4日(月)16時54分16秒    編集済
  Pas さん、
 長江師発言英文の全文有難うございました。長江師の考えの特徴がよく分りました。
 

彦左衛門様 参考までに原文も載せます  投稿者:Pas  投稿日:2008年 8月 4日(月)01時34分59秒
   Similar considerations were voiced at a press conference given by Bishop Lawrence Nagae of Urawa, Japan, who maintained that Catholicism had made such slow progress in his country (with 300,000 Catholics) because its presentation had been too Western. "If Catholicism is to be recognized and accepted by the working class, which makes up the bulk of the Japanese population, it is necessary for the Catholic Church to appear as a very modern and dynamic spiritual and social force." The Catholic Church must have something special to say to modern man and something special to give him, he went on. "Modern Japan, seeing only ceremonies and institutional practices in the Catholic Church, considers the Catholic religion on a par with its own traditional religions, outdated and defunct, incapable of making any serious and worth-while contribution to modern Japanese life."
 He therefore called for a simpler liturgy and a more direct approach, so that the people might be able "to participate more immediately with the priest." He also called for the elimination from the liturgy of elements such as genuflections, which, he said, stemmed from Western culture and were meaningless to the Japanese. "In our country, where we make a profound bow to show reverence, we would prefer to use that motion in place of the genuflection." Other ceremonies and symbols, too, were unintelligible to the Japaneseーfor instance, the kissing of objects during liturgical services. This practice should be made more infrequent, he said, since "the kiss in the Orient is out of place." He also said that the sign of the Cross should not have to be made so frequently.
 

この人が  投稿者:ノコさん  投稿日:2008年 8月 4日(月)01時15分0秒
  ブルトマンの神学解釈を迂闊にもカトリックに持ち込んだという話を
聞いたことがありますが、この辺もっと掘り下げて教えて頂ける方
おられませんか
 

長江師のこと  投稿者:彦左衛門  投稿日:2008年 8月 4日(月)00時22分49秒
  Pasさん、

  長江恵師のことは知っています、師は当時、今から半世紀「以上も前になりますが、小生ヒコザが在学の大学のカト研の確か指導司祭でした。 戦時中ずっとローマで研学を続け、戦後日本に帰り、当時新しいカトリシズムの雰囲気を一身に体現している方でした。

  しかし、師が東京教区学生担当司祭から、うらわ教区司教になられ、その資格で、バティカン公会議に出席、どういう立場で、どういう発言をしていたかは、Pasさん情報で初めて知ったことです。感謝。

ちょっとここで、師の発言を検討して見ましょう。

  長江師:
 >日本でカトリックが伸び悩んでいるのは、カトリックのあまりにも西洋的な表現のせいである。

  ひこざ:そうでしょうか。違うんじゃないでしょうか。確かに、ヨーロッパ伝来のカトリシズムとその実践形式(典礼その他)にはすぐなじめないことがあるでしょう。しかし
それは日本人にとって、決定的にカトリっク宣教を受け入れる障害ではありません。
 隣の韓国では、日本と同じ文化的条件でありながら、数百万の信徒を擁する教会が存在しています。
  続く:
 

ワレ神父のまとめ  投稿者:Pas  投稿日:2008年 8月 3日(日)23時16分56秒
  1997年5月 東京教区ニュース
http://www.tokyo.catholic.jp/text/kyokunews/1997/kn142b.htm

ワレ神父のまとめ

最後に私の浦和教区での3つの意識改革のチャンスについてお話します。

(1)典礼の刷新:浦和教区で働いて十何年目、 当時、 日本の司教協議会の典礼委員会の委員長であった長江司教からの説明、 指導、 試みなどにより私の典礼的な刷新になりました。
しかし、 60年代の日本の教会は典礼の刷新に熱心になるあまり宣教に力をいれなかったことは宣教会の司祭としては反省しています。
 

今さらですが、有名な話なのでしょうか  投稿者:Pas  投稿日:2008年 8月 3日(日)17時03分45秒    編集済
   <第二バチカン公会議第一会期中の1962年10月28日日曜日の>記者会見では、日本の浦和司教ラウレンチオ長江からも同様の考察が発言されたが、彼が言うには、(信者30万人の)日本でカトリックが伸び悩んでいるのは、カトリックのあまりにも西洋的な表現のせいである。「日本の人口の大半を占める労働者階級に認められ受け入れられるためには、カトリック教会とは非常に現代的かつダイナミックな宗教精神であり社会的勢力であると、人々の目に映らなければならない」。カトリック教会は現代人に対して何か特別なことを発言しなければならないし、何か特別なものを与えなければならない、と彼は続けた。「現代の日本においては、カトリック教会では儀式と決められた慣習しか見ることができないため、日本の他の伝統的諸宗教と同様、現代の日本人にとっては、時代遅れで生気がなく、真面目で価値のある貢献がなにもできていないもの、と見なされている」。
 そこで彼は、人々が「司祭ともっと近しく参加する」ことが可能になるように、もっとわかりやすい典礼及びもっと直接的なアプローチを、声を大にして求めた。さらに彼は、ひざまずきの類いの要素を典礼から除外するよう求めたが、彼が言うには、それは西洋文化に由来していて日本人にとっては意味のないことだからである。「私たちの国では、尊敬を表わす場面では深く頭を下げるものなので、それをひざまずきに代用させることを私たちは好むであろう」。その他の儀礼や”しるし"にもまた、日本人には理解できないものがあるが、例えばそれは、典礼儀式において器物に接吻することである。このような慣習は徐々に減らしていくべきである、と彼は言ったが、それは「東洋においては接吻は場違いなこと」だからである。"十字架のしるし"もそんなに頻繁になされる必要はない、とも彼は言った。

Fr.Ralph M.Wiltgen. S.V.D. "The Rhine Flows Into the Tiber(『ライン川はテヴェレ川に注ぐ』)" (TAN BOOKS AND PUBLISHERS, INC.) 37ページから。
 

典礼の破壊に対する危機感  投稿者:グレゴリオ  投稿日:2008年 8月 3日(日)00時14分5秒    編集済
  彦左衛門様、有難うございます。そして、主に感謝!私の思いが、決して誤りでないことがわかりました。
「聖歌と典礼音楽は、感謝の祭儀が祝う神秘にふさわしいものでなければならない。聖書に詩編、賛歌、霊的な歌と書かれている通りである(コロサイ3・16参照)。それゆえ、最初の数世紀から、教会は典礼音楽を典礼と一体をなすその構成要素と考えてきた。教会の教導職は、さまざまな音楽様式を認めてはいるが、「さまざまな音楽様式が典礼の内容と一致したものであること」(190)を常に強調してきた。それは、典礼が不適切な世俗的要素の影響によって台無しにされる危険を避けるためである。」聖 体(エウカリスチア)-教会生活と宣教(ミッション)の源泉と頂点-世界代表司教会議 第11回通常総会より
正平協の活動が、知らず知らずのうちに、神中心の教会から、人間中心の教会へ、「人間同士、仲良くなったらなんでもええやん」といった思想を植え付け、典礼の破壊にまで及んでいる事実に、強い危機感を覚えます。
 

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天におられる私たちの父よ
御名が聖とされますように
御国がきますように
御心が天に行われるとおり地にも行われますように
私たちの日ごとの糧を今日もお与えください
私たちの罪をお許しください
私たちも人を許します
私たちを誘惑に陥らせず
悪からお救いください
 アーメン


   
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