手による聖体拝領についての真実(ジョン・ヴェナリ)

みこころネット様より転載させて頂きます。感謝。
(英原文は コチラ あるいは コチラ

みこころネット

手による聖体拝領についての真実

The Fatima Crusader, Isuue 74, Spring 2003より

「この秘蹟に対する尊敬から奉献されているもの以外の何物もそれに触れない」 ...聖トマスス・アクィナス

ジョン・ヴェナリ著

数世紀を通じて、われわれの父祖はわれわれの信仰について、また祝せられた秘蹟についてわれわれに語ってきた。われわれの父祖は聖体は真にイエズス・キリストの身体、血、霊魂そして神性であるとわれわれに告げてきた。トレント公会議の教父たちは祝せられた秘蹟を正確さと配慮をもって定義した。聖トマス・アクィナスはわれわれに、この秘蹟に対する尊敬からこの秘蹟に触れることと施すことはただ司祭にのみ属すると教えた。家庭におけるわれわれの父親たちは、学校におけるわれわれの教育修道女たちと同様に、われわれに司祭以外の誰にとっても聖なるホスチアに触れることは神聖冒涜であると告げた。

数世紀を通じて、教皇たち、司教たちそして司祭たちはこの同じ事柄をわれわれに教えた。言葉によってではなく、模範によって--そして特に古いラテン語のミサを捧げることによって教えた。そのミサでは、キリストの真の身体としての祝せられた秘蹟に対する深い信仰が司祭のなすあらゆる動きにおいてあった。われわれの父祖はわれわれにこれらの事柄を単に尊敬すべき、しかし根拠のない伝統を手渡すために告げたのではない。彼らはカトリック信仰への忠実と祝せられた秘蹟に対する尊敬を示すために言葉と模範を通じてこれらの事柄をわれわれに告げたのである。われわれの父祖はわれわれにこのことをそれが真理であるがゆえに告げたのである。

しかし手による聖体拝領と平信徒が御聖体を配ることの導入はわれわれの父祖がわれわれに教えたことに対する傲慢な無視を示している。そしてこれらの実践は第二ヴァチカン公会議によって権限を与えられた一つの「真正の」典礼的発展であると見せかけて導入されてきたけれども、真理は、手による聖体拝領は一つの真正の典礼的発展ではない、第二ヴァチカン公会議によって権限を与えられなかった、ということである。そしてわれわれ以前のカトリックの教えと実践の数世紀に対する完全な反抗の態度と軽蔑を示すものである。

手による聖体拝領は偽りのエキュメニズムの下で導入され、権威における弱さのゆえに成長することを許され、妥協と偽りの寛容についての感覚を通じて承認され、そしてありふれた典礼上の濫用とわれわれの時代の恥辱として祝せられた秘蹟に対する深い不敬と無関心へと導いた。

第二ヴァチカン公会議においては何処にも言及されていない

第二ヴァチカン公会議の16のすべての文書において、手による聖体拝領については何の言及もないし、またそれは公会議の間のどの議論の間でも言及されなかった。

第二ヴァチカン公会議以前には、手による聖体拝領の導入に対する司教、司祭あるいは平信徒の請願のいかなる歴史的記録も存在しない。まったく反対に、第二ヴァチカン公会議以前に育てられた者は誰でも司祭以外の誰かにとって御聖体に触れることは神聖冒涜であると教えられたということをはっきりと覚えているであろう。

その偉大な神学大全における聖トマス・アクィナスの教えはこのことを裏付けている。彼はこう説明している:

「キリストの御体を配ることは三つの理由で司祭に属している。」

「第一に、司祭はキリストの人格において聖別するからである。しかしキリストが(最後の)晩餐において御自分の体を聖別なさったように、そのようにまたキリストは御体を他の人々に、彼らによって分かち持たれるようにと、お与えになった。従って、キリストの御体の聖別が司祭に属するように、同様にそれを配ることも司祭に属するのである。」

「第二に、司祭は神と人々との間の指名された仲介者であるからである。それゆえ、人々の贈り物を神に捧げることが司祭に属するのと同じように、聖別された賜物を人々に与えることも司祭に属するのである。」

「第三に、この秘蹟に対する尊敬から、聖別されているもの以外には何物も御聖体に触れないからである。それゆえ、聖餐布とカリスは聖別される。そして同様に司祭の両手はこの秘蹟に触れるために聖別される。それゆえ、他の誰かにとって御聖体に触れることは、必要から、例えば、御聖体が地に落ちる場合、あるいは他の緊急の場合以外には、合法的ではない。」(神学大全、III, Q. 82, Art. 13)

カトリック教会における神学者たちの君主であり、他のすべての神学者に抜きん出ており、その神学大全がトレント公会議の間、聖書の次に祭壇に置かれていた彼、そしてその教えが近代主義に対する救済策であると聖ピオ10世が言われた彼...その聖トマスは御聖体に触れ、それを司ることは司祭に属する、そしてただ司祭だけに属する、「聖別されたものだけ」(司祭の両手)が「聖別されたもの」(御聖体)「に触れるべきである」とはっきり教えている。

御聖体の内なるイエズス・キリストに対する畏敬の念と愛に注意。そして、拝領者の手の上に純白のリネン布を掛けるという長年の慣習にも注意。(護教の盾による訳)

手による聖体拝領は初代教会において実践されていたという主張をめぐって論争が起こっている。それは6世紀に至るまで実践されていたと主張し、この主張を実証するために聖シリルの一節を引用しさえする何人かの人々がいる。他の人々はそれがカトリックの慣習であったことはなくて、もし手による聖体拝領が初代教会においてある制限された仕方で実践されていたならば、それはアーリア派の人々によって、イエズス・キリストの神性に対する彼らの不信のしるしとして制度化され、広められたものだと主張している。この同じ考えの派の人々はまた聖シリルの引用が根拠薄弱なアーリア派の聖書外典の起源のものであると主張している。事情が何であれ、舌による聖体拝領が使徒的起源のもの(すなわち、キリスト御自身によって教えられたもの)であり、手による聖体拝領が650 A. D. におけるルーアン公会議で乱用として非難されたということ、そして手による聖体拝領の実践はそれが東方においてであれ、あるいは西方においてであれいかなる時代にも...すなわち、第二ヴァチカン公会議の後までは、芸術作品のうちに反映されたことは一度もないということは明らかである。

御聖体に対する尊敬は古いミサの中へ組み入れられた

ただ司祭だけが聖なるホスチアに触れることが許される、司祭の両手がこの目的のために聖別される、そしてどんな用心も尊敬を守り、神聖を汚すことを妨げるためには大きすぎることはないという教えは教会の典礼、すなわち、古いラテンミサの中へ組み入れられてきた。

司祭たちは祝せられた秘蹟に相応しい尊敬を守る厳格な典礼法規をもってミサを捧げるために古いラテンミサにおいて訓練された。これらの非常に几帳面な典礼法規は石に刻まれたものであり、選択的なものではなかった。ローマ典礼における一人一人の司祭は断固とした厳密さをもって典礼法規に従わなければならなかった。第二ヴァチカン公会議前の教会において、トレントのラテンミサが規範であったとき、司祭になるべく訓練を受けていた人々はこれらの典礼法規を単に教えられただけではなく、訓練された

古いラテンミサにおける典礼法規のいくつかは次のようなものである:

  • 聖なるホスチアの上で聖別の言葉が司祭によって発せられる瞬間から、司祭は彼の人差し指と親指を一緒にくっつけておき、彼がカリスを上げようと、ミサ典書のページをめくろうと、あるいは聖櫃を開けようと、彼の親指と人差し指は聖なるホスチア以外の何物にも触れない。また、司祭が無理につくった親愛のぎこちない誇示において人々に握手しながら教会の座席間の通路を上り下りする(特に彼の指が清められる前には)ために祭壇の上に聖なるホスチアを残すことはないということも注意に値する。

  • ミサの終わりに、司祭は聖餐布をパテナでこそぎ、それをきれいにしてカリスの中へ入れる。それはもしほんのわずかの御聖体のかけらが残っているならば、それが集められ、そしてうやうやししく拝領されるためである。

  • 司祭の両手は聖体拝領時の後、カリスの上で水とぶどう酒によって洗われ、最もわずかの御聖体のかけらも、神聖を汚す恐れがないことを確保するために、うやうやしく拝領される。

これらは古いミサへと組み入れられた典礼法規のうちのほんのいくつかの点である。それらは単なる愚かな良心のとがめではなくて、ミサにおいてパンとぶどう酒が真にイエズス・キリストの体、血、霊魂そして神性となるということを教会が強い確信をもって信じたということ、そして祝せられた秘蹟におけるわれらの主がその威厳にふさわしいすべての尊敬と栄誉をもって取り扱われるということを確実にするためにはいかなる骨折りも大きすぎることはないということを示したのである。

ところで、尊敬を示すことが問題であるときに、これらの典礼法規がさらに改良されるということが可能であろうか?真のカトリック刷新はこれらの尊敬の態度を触れずにそのまま残すか、それともそれらをもっと強めるかのいずれかのやり方をするであろう。しかし、新しいミサの導入と共に過去30年間にわたってそうであったように、何の釈明も無しに、そして確信させる議論も無しにこれらの尊敬の態度を痕跡も残らぬように消してしまうことは真正のカトリック刷新のしるしではなく、ベロック(Belloc)によって警告された新異教主義、そして伝統に対するその傲慢な軽蔑に似ている。

そして損害にさらに侮辱を加えるために、手による聖体拝領の導入はこれらすべての決定的な第二ヴァチカン公会議前の典礼法規を現実に何の基礎も持たない迷信的な感傷主義のように見えさせる--これは再びわれわれの父祖が教えたことに対する軽蔑、そして祝せられた秘蹟そのものに対する軽蔑である--。

今日の手による聖体拝領はどのようにしてもたらされたのか?

400年前に、手による聖体拝領は彼らの動機がカトリシズムの無視に根ざした人々によって「キリスト教」礼拝の中へ導入された。16世紀のプロテスタント革命家たち(より丁寧にしかし相応しくない仕方でプロテスタント「改革者たち」と呼ばれている)は以下の二つのことを示す手段として手による聖体拝領を再び確立した:

1)彼らが、「実体変化」というようなものは存在しないと信じたということ、そして聖体拝領の時に用いられるパンは単に普通のパンであるということ。言葉を換えて言えば、御聖体におけるキリストの真の現前は単なる「教皇主義者の迷信」である、そしてパンは単にパンであり、そして誰でもそれを手で扱うことができるということ。

2)聖体拝領を司る者はいかなる基本的なことにおいても平信徒と何ら変わらないという彼らの信念。ところで、叙階の秘蹟が一人の人間に霊的、秘蹟的な力を与え、それは彼の霊魂の上に一つの消えないしるしを刻印し、彼を平信徒とは根本的に異なる者とするということはカトリックの教えである。しかしながら、プロテスタントの牧師は讃美歌を指導し、教訓を読み、そして信徒の確信を強めるために説教をする単なる普通の人間である。彼はパンとぶどう酒をわれらの主の体と血に変えることはできない。彼は祝福をすることができない。彼は罪を赦すことができない。彼は普通の平信徒ができないどの事柄もすることはできない。

プロテスタントの手による聖体拝領の確立は御聖体におけるキリストの真の現前の信仰を彼らが拒否すること、秘蹟的な司祭職の拒否を示すための--簡単に言えば、彼らのカトリシズムのまったくの拒否を示すための--彼らのやり方だったのである。

その点からして、手による聖体拝領は明白に反カトリック的な意味を受け取ったのである。それはキリストの真の現前と司祭職に対する不信に根ざした明らかに反カトリック的な実践であった。それゆえ、もし模倣がおべっかの最も真面目な形式であるとするならば、われわれの現代の教会人たちがカトリシズムの中核的な秘蹟の教えを拒絶する自ら宣言する不信の徒をなぜ模倣するのかと問うことは不当なことではないのではないか?これは第二ヴァチカン公会議の自由な精神によって酔わされた教会人たちがまだ十分に答えていない一つの問題である。

エキュメニズムのおかげで...

手による聖体拝領は第二ヴァチカン公会議によって命令されなかったけれども、第二ヴァチカン公会議によって「列聖」されたのは「エキュメニズム」--以前には教会によって、特に1928年の回勅Mortalium Animosにおいて教皇ピオ11世によって断罪された虚偽の一致のこの偽りの精神--他の諸宗教、そして特にプロテスタントたちとますます親密で濃厚な関係になるこのカトリック者の運動--であった。--

この運動は他の諸信条とわれわれが共通に持っている事柄を強調し、われわれを分かつ事柄をなだめて黙らせ、われわれの分かち持たれた「諸価値」(「諸価値」は第二ヴァチカン公会議以前の神学のマニュアルには見出せない主観的な用語である)を褒め称えるだろうと想像されている。

もはやわれわれは非カトリック者たちを回心させる努力をしない。その代わりに、われわれは、その中でカトリシズムが常に敗者となる無益で終わりのない「対話」にいそしむ。なぜなら、そのような対話は、カトリシズムがもはや神学的真理の唯一の所有者であることを信じていないという間違えようのない印象を与えるからである。

エキュメニズムはこの論考の中では取り扱われないであろうが(Catholic Family News1995年3月号--「現代エキュメニズムの問題」を見よ)、ディートリッヒ・フォン・ヒルデブラント(Deitrich von Hildebrand)が「エキュマニア」と呼んだこの新奇なエキュメニズム精神が第二ヴァチカン公会議の間、そして後に流行するようになったと言うだけで十分である。エキュメニカルな精神は公会議以来確立された新しい典礼の諸形式の全範囲において主要な形成原理となった。これが、新しい典礼がプロテスタントの礼拝にそのように非常によく似ている理由である。

エキュメニカルな猿まね

第二ヴァチカン公会議の後、オランダの数人のエキュメニカルな精神をもった司祭たちは、プロテスタントの実践の猿まねで手による聖体拝領を実行し始めた。しかし司教たちは、彼らの義務を果たし、乱用を非難するよりはむしろ、それを黙許した

教会指導者たちがその乱用を阻止しないままやらせることを許したために、その実践はそれからドイツ、ベルギーそしてフランスへ広まった。しかしたとえ司教たちがこのスキャンダルに無関心であると見えたとしても、平信徒たちは憤慨した。教皇パウロ6世にある行動を取らせたのは信徒の大多数の憤慨であった。教皇は世界の司教たちにこの問題に関して投票による調査を行った。そして司教たちは圧倒的に御聖体をただ舌だけで受ける伝統的な実践を維持するよう投票した。そして、この時に、その乱用は二三のヨーロッパの国々に限定されていたということは注目されなければならない。それは合衆国ではまだ始まっていなかった。

"Memoriale Domine"

教皇はそれから1969年5月28日のMemoriale Domineの教えを公布した。要約すれば、その文書はこう述べている:

1)世界の司教たちは圧倒的に手による聖体拝領に反対であった。

2)「御聖体を配るこのやり方(すなわち、司祭が御聖体を拝領者の舌の上に置く)は守られなければならない。」

3)舌での聖体拝領は拝領者の尊厳をいかなる仕方でも損なわない。

4)「何らかの刷新が御聖体の不敬と神聖冒涜へ、同様にまた正しい教義の徐々の浸食へと導き得る」という警告があった。

その文書はさらに、「教皇は信徒に御聖体を配ることについての長い間受け継がれてきたやり方は変えられるべきではないと判断した。それゆえ、聖座は司教、司祭そして人々に熱心にこの法を守るよう強く勧める」と言っている。

同時的な赤ランプと青ランプ

そのとき、もしこの「教え」が諸々の書物に載っているのであれば、なぜ手による聖体拝領がそのように一般に行われているのか?ということが問われなければならない。一つの実例がHumanae Vitaeに対するカナダ司教の回答の話によって与えられ得る。Humanae Vitaeは避妊に対する教会の教えを正当に再肯定した。しかしHumanae Vitaeが出されたとき、カトリック司祭たちおよび哲学博士たちからの恥ずべき反対の大津波があった。カナダ司教団はHumanae Vitae支持していると考えられる司牧書簡を書いた。しかしその文書の中で司教団は「正当な不同意のための諸規範」(norms for licit dissent)という奇妙な文言を用いた。

この文言はカトリック教徒にとってHumanae Vitaeを合法的に拒否する余地があり得るという印象を与えている。それゆえ、彼らがそれを理解していようがいまいが、司教団は教皇の回勅の拒絶に同時的な赤ランプと青ランプを与えることによって、彼ら自身の司牧書簡を故意に破壊したのである。そのとき、大多数のカトリック者がカナダ司教団の妥協に基づいてHumanae Vitaeを拒絶したとき、それはほとんど驚くに当たらない。たいていの普通の両親でさえ、両親の命令を受け入れるかそれとも拒否するかの選択肢を彼らの子どもたちに与えないほどに十分賢明である。そうすることは弱いそして迷っている指導権の明白なしるしであろう。しかし、不幸なことに、このことがまさに1969年の手による聖体拝領反対の文書と考えられていたものに起こったのである。

ところで、この時代は妥協の時代であった。そしてその文書はそれ自身の破壊の種を含んでいた。なぜなら、「教書」は乱用がすでに堅固に確立されたものになったところでは、それはその国の司教会議の秘密投票において3分の2の多数決によって(聖座が彼らの決定を確証するならば)合法化され得ると言うところまで行ったからである。このことはリベラルな人々の利益になるように働いた。そして「教書」が「乱用がすでに堅固に確立されたものになったところでは」と言ったということは注目されなければならない。それゆえに、そこで実践がまだ発展していなかった国々は明らかに、その譲歩から除外された--そして合衆国を含むすべての英語圏の国々はこの部類に入っていた。

当然、(われわれの国を含む)他の国々におけるリベラルな聖職者は、この反乱がオランダにおいて合法化され得るならば、どこででも合法化され得ると結論した。彼らは、もし彼らがMemoriale Domineを無視し、教会の典礼法規を無視したならば、この反乱は単に黙許されるばかりでなく、ゆくゆくは合法化されるであろうと考えた。これがまさに起こったことである。そしてこれが、われわれが今日手による聖体拝領を持っている理由である。

無視において始まり、欺瞞によって永続化された

手による聖体拝領は不従順において始まっただけではなく、それは欺瞞によって永続化された。紙数がそのすべての詳細を述べることを許さないが、手による聖体拝領を信頼する、傷つきやすい人々に売るために用いられた1970年におけるプロパガンダは話全体を告げなかった計算された半分の真理のキャンペーンであった。手っ取り早い例はモンシニョール・チャンプリン(Champlin)の書いたものの中に見出されるであろう。彼の書き物は:

  • 読者に、実際にはそれがどの公会議文書にも暗示されていないときに、第二ヴァチカン公会議が乱用のための権限を与えたという誤った印象を与えている。

  • 読者に、その実践が確立された典礼法規の無視において聖職者によって始められたということを告げずに、あたかもそれが平信徒からの要求であったかのように思わせている。

  • 読者に、世界の司教たちは、調査されたとき、圧倒的多数で手による聖体拝領に反対であったということをはっきりさせていない。

  • その許可が1969年までにそれがすでに確立されたところでその乱用の黙許でしかなかったということに言及していない。それは合衆国のような、他の国々へと拡げるための青信号ではなかった。

聖職者にとって「選択的」ではない!

ところでわれわれは、手による聖体拝領が御聖体を受けるより優れた仕方と見なされ、そしてわれわれの小さな子どもたちが手による初聖体を受けるように誤って教えられている地点に来ている。信徒たちはそれは選択的な実践であって、もし彼らがそれを好まないならば、舌で受けることができると告げられている。

そのすべてのことの中で悲劇は、たとえそれが平信徒にとって選択可能であるとしても、実践においてそれは聖職者にとって選択可能ではないということである。

司祭たちは、彼らが好むと好むまいと、彼らが、それを要求する誰かのために手による聖体拝領を執行しなければならないと誤って教えられている。そのことによって多くの善良な司祭たちを苦悶を与える良心の危機へと投げ込んでいる。

第二ヴァチカン公会議の後、一人の非常に賢明な大司教は抜け目なく、サタンの見事な腕前が従順を通じてカトリックの伝統に不従順を蒔くことになったと述べた。

いかなる司祭も手による聖体拝領を執行するように法の上で強制されることができないことは明らかである。そしてわれわれはもっと多くの司祭がこの秘蹟に相応しい尊敬を守る勇気を持ち、御聖体におけるキリストの地位の低下に協力することを彼に引き起こす偽りの従順の罠におちいることがないように祈らなければならない。彼らは、教皇パウロ6世でさえ、彼の弱さにもかかわらず、手による聖体拝領が御聖体の不敬と神聖冒涜、そして正しい教義の徐々の浸食へと導くであろうと正当にも予言したということを思い起こすことによってこの新奇な実践に反対する勇気を見出さなければならない。--そしてわれわれはこの預言が実現するのを見たのである。そしてもしその司祭の手による聖体拝領への反対が激しくて堅固であるべきだとすれば、「臨時奉仕者」に対する彼の反対はもっと断固としたものであるべきである。

「臨時奉仕者」

ジェームズ・W.デマーズ(James W. Demers)はそのベストセラーの書物「最後のローマカトリック教徒?」の中でこう言った。「教会における美の欠如に対して責任を負っている者の中で今日の平信徒の奉仕者たちよりももっと咎められるべき人は誰もいない。この表面的に訓練された平信徒の心ない行動は聖所に見るに困惑させまた悲しませるものである尊大さを持ち込んでいる。」

ミサの間に御聖体を配布する平信徒はわずか35年前には、そしてそれに先行する何世紀もの間冒涜と不敬の考えられない行為と正当に考えられていた。しかし今は祝せられた秘蹟を執行する平信徒は平均的なNovus Ordo教会において普通に見られる光景である。そしてたいていのカトリック教徒はそのことについて何も考えていない--人々は神聖を汚すことに無感覚になり得るということを証明している。

彼らはどこからも来なかったように見える。突然、彼らはそこにいたのだ!そして彼らがいたところにはどこにも、彼らは永久にいたのだ!しかしもしあなたがそのことについて考えるならば、あなたは信者席に座り、御聖体の品位を下げ、聖なる秩序にある人々の義務を奪い、司祭職を掘り崩し、そして神の祭壇からその聖なる諸権利を奪うように司牧者たちによって委任された、聖別されていない両手のこの疫病のための基礎を置いたそれが発展するのを見るというある必要な段階があったのだ。

シーン(Sheen)司教はかつて、男も女も両方共ファッションの奴隷である、しかし次の違いがある、と書いた...彼はもし女が衣服のファッションの奴隷であるとすれば、男は思想のファッションの奴隷である、と言った。そして教会をより「適切な」ものにするという名の下に、多くの第二ヴァチカン公会議後の教会人たちの誇りと喜びであった一時的熱狂とファッションは典礼への平信徒の関わりというアイデアであった。

平信徒は書簡を、そして新しい答唱詩編を読み始めた。彼らは長たらしい「主に祈りましょう--主よ、私たちの祈りを聴いてください」、「信徒の祈り」を導き、そしてミサの前に--われわれに「お早うございます」と挨拶し、どの讃美を歌うか、今日はどの聖体の祈りを御父は喜ばれるかをわれわれに告げさえした。

聖所は一つのステージとなった。そして毎週のワンマン独語はもはや役に立たないであろう。配役は大きければ大きいほどそれだけよい。そしてミサの注意を惹くドラマはアマチュアの見せ物となった。神によって召命を受けた人間、そして研究と聖なる秘蹟の配分において特別に訓練された者である司祭は、喜んでか、あるいはいやいやか、聖所と祭壇の神の聖なる領域に不法侵入し、神聖を汚すことを資格のない、場違いの、パートタイムの物好きたちに許すために脇へ寄らなければならなかった。

しかし新しいミサ内部での平信徒の読誦者は唯一の必要な段階ではなかった。祝せられた秘蹟の平信徒奉仕者はそれに先行する典礼法規の革命なしには不可能であったであろう。すなわち、彼らの掌に御聖体を受ける平信徒の実践と広汎な受容である。聖体奉仕者の職務はそれゆえに、現代教会において一緒に生きている新典礼の「平信徒の関わり」と手による聖体拝領との結合から生まれた非嫡出児である。それは1960年代革命の私生児である。

誰もが一口乗る

あなたは、御聖体を配るこの「平信徒エリート」の一部に喜んでなる多くのカトリック教徒がいたと確信することができる。しかし、その人のよきカトリック感覚が最初のうちはこの実践に反対していたが、しかし説得的な聖職者によってついにはそれをさせらるようになったカトリック教徒もまたいた。現代の聖職者によって用いられる最大の策略はおだてに頼ること...次のように言いながら、よきカトリック教徒の男女に近づくことであった。「あなたはよき小教区民、模範的なキリスト者、よき父親あるいは母親です。それゆえ、われわれはあなたに聖体奉仕者であることの『栄誉』を授けたいと思っています。」

それで、彼らは何をしたのか?彼らはキリストの御体の配布を行った。それは司祭のみに属するほどに聖なるあるものであった。そしてそれをよき行動に対する一つの子どもじみた報酬へと変えたのだ。1マイルを泳いだ、あるいは北米インディアン小屋を建てたことに対してボーイスカウト少年隊員に与えられるであろう功労賞のようなもの、あるいは"Czechoslovakia"を正確なスペルで書くことができたクラスでただ一人の女の子であったゆえに3年級のその女の子の額のうえに置かれるであろう星のようなものである。

もし天使たちが跪きながら我らの主に敬虔に近づくなら、まして我々は一層そうすべきである。(護教の盾による訳)

それは小教区における善人で謙虚な人がいやいや受ける、そして次にそれに慣れる一つの報酬として偽装されてきた。あるいはそれは小教区における高慢で尊大な人が渇望し、そのことによって偽りの取るに足りない威信を彼ら自身認めることができないことを示すのである。

「臨時奉仕者」か、それとも「聖体奉仕者」か?

「平信徒奉仕者」(lay mkinister)と「聖体奉仕者」(Eucharistic minister)という用語はここまでのところやや厳密でない仕方で用いられてきた。なぜならこれは小教区ブレティンにおいてしばしば見出される用語だからである。実際には「聖体奉仕者」のような用語は存在しない。本来の言葉は「臨時奉仕者」(Extraordinary minister)である。

それが秘蹟に関わる場合には、「臨時奉仕者」は古典的な用語である。例えば、ローマ典礼における堅振の「通常の主宰者」は司教であり、「臨時奉仕者」は司祭である。彼は通常でない状況において司教によって特別に代理として指名されるのである。それゆえ、もしその言葉が、マイケル・デイヴィーズ(Michael Davies)が指摘したように、何かあることを意味するとすれば、臨時的奉仕者は並はずれた視力[の持ち主](an extraordinary sight)であるべきである。われわれは単にそういう人をめったに見るべきでないばかりでなく、臨時奉仕者を一度も見ることなしに彼らの全生涯を過ごす多くのカトリック教徒が存在するべきである。しかし、今日臨時奉仕者について臨時であるものは何一つないのである。彼らは小型ミサ典書や献金箱と同様に現代教会に通常のものであり、その重要部分である。これは明らかに、教会史あるいはカトリックの実践においていかなる基礎も持たない新しいミサの中へ一つの新奇さを導入するために用いられた、古典的カトリック用語の計算された乱用である。

1973年1月29日に、Immensae Caritatisと呼ばれる教書が、聖体の臨時奉仕者の導入を正式に認めた礼拝聖省によって発せられた。この文書は平信徒が御聖体に奉仕することを、どのすべての小教区のためにも許す何か革命的な特別許可[indult]を与えてはいない。それは臨時奉仕者の使用を「真の必要の場合」には認可しているのである。その場合が以下に列挙されるものである:

  • 司祭、助祭あるいは侍祭がいないとき。

  • これらの者が、他の司牧的奉仕のため、あるいは病気あるいは老齢のため御聖体の奉仕ができないとき。

  • 御聖体を拝領する信徒数がミサの挙行あるいはミサ以外での御聖体の配布をはなはだしく長引かせるほどに大勢であるとき。

教書は次にように明記している:「これらの特権はただ信徒の霊的な善のため、また真の必要の事例のためにのみ与えられているのであるから、司祭たちは、彼らがそれによって、御聖体を正当に要求している信徒に御聖体を配布する仕事、そして特に病人のところへ持って行き、配る仕事を免除されないということを忘れないようにしなければならない。」

まず第一に、文書の智恵を最初に、特にこの許可が数世紀にわたって存在してきたすべての第二ヴァチカン公会議以前の典礼法規--尊敬の理由のために存在した典礼法規--に反対する一つの革命であるとき、問うこと、神聖冒涜に対して護ることは不忠あるいは不従順の行為ではない。そしてそれはカトリックの常識の問題であった。しかし、この文書を額面通りに受け取ってさえ、宣教地の外で臨時奉仕者を用いることを正当化するような状況を想像することは困難である。今日の「聖体奉仕者たち」は存在しているヴァチカンの規範を無視して実際に働いているのである。

曖昧の時代

「額面通りに受け取って」という言葉を用いた。なぜなら、何人かの機敏な読者はすでに気づいておられたであろうように、さっき引用した文書は言葉遣いが厳密ではなかったからである。その文書は第二ヴァチカン公会議の文書そして第二ヴァチカン公会議以後の文書の多くを特徴づけたあの曖昧さ、不正確さそして融通性を持っていた。

Immensae Caritatisの厳密でない言葉遣いが故意になされたといういかなる堅固な証拠も存在しないけれども、第二ヴァチカン公会議の諸文書における曖昧さが意図的であったという多くの証拠がある。第二ヴァチカン公会議における影響力を持ったリベラル神学者、エドワード・シレベークス(Edward Schillebeeckx)神父は、公会議文書の中に意図的な曖昧さを置くことは進歩派の一つの重要な戦略であったと認めた。彼はこう言った。「われわれは公会議の間曖昧な文言を用いた。そしてわれわれ(リベラル神学者たち)はそれらを後でどのように解釈するかを知っているのだ。」

おそらく臨時奉仕者の今日の急増を引き起こした主要な曖昧さは、もしミサが「はなはだしく長引かせられる」(と呼ばれた)ならば、という彼らの用い方の正当化であった。ところで、この「はなはだしく長引かせられる」のは5分間を意味するのか、それとも45分間を意味するのか?それはそれを解釈する者に依存する。そしてこの種の教示においては、正確さの欠如は広い解釈を引き起こす。そして広い解釈は教会の諸規制への忠実の外観の下に乱用の確立を引き起こす。そしてひとたび「臨時的奉仕者たち」というような一時的流行が広汎なものとなるや、そして誰もがそれをやっているから単純に誰もがそれをするや、そのとき誰がとにかく存在しているガイドラインに注意を払うことさえするであろうか?それはわれわれが現代の教会において繰り返し繰り返し見ているパターンである。すなわち、「法に違反しよう、そうすれば最後にはわれわれはその違反を確立された地方の慣習として持つであろう」というわけである。

成功しなかった教皇の介入

この不法な乱用は地方の慣習としてそのようにうまく確立されているので、その乱用を抑制するために少なくとも文書による試みをされた教皇ヨハネ・パウロ二世でさえ完全に不成功であった。1980年2月24日の書簡Dominicae Cenaeにおいて教皇は「御聖体に触れること、そして自分自身の手でそれらを配ることは叙階された者の特権である」という教会の教えを再度述べられた。しかし、どんな理由のためか、この1980年の文書は教皇の懇願を無視するどの平信徒、司祭あるいは司教に対するいかなる罰則も含まれていなかった。罰則のない法は法ではない。それは一つの提案である。そして教皇ヨハネ・パウロ二世のこの23歳になる書簡は西欧諸国の位階と聖職階級によって歓迎されないそして守られない一つの提案として受け取られてきたのである。

1987年9月21日の、臨時奉仕者たちの問題に関する1通の書簡が秘蹟聖省枢機卿長官から適切な伝達経路を通じて、アメリカの司教団を含む多くの司教会議に送られた。要約すれば、その書簡(マイケル・デイヴィーズのPrivilege of the Ordainedの中に見つけることができる)は、ローマが臨時奉仕者たちに関する乱用について多くの不満を受け取ったと述べた。その結果、教皇立委員会は公式に、「通常の主宰者(司教や司祭たち)が、祭儀を行っていようとそうでなかろうと、御聖体のところにいる場合は、そして人数が十分であり、他の奉仕によってそうすることを妨げられていない場合は、聖体の臨時奉仕者たちは自分たち自身に、あるいは信徒たちに、御聖体を配ることは許されていない」と裁決した。

この裁決もまた、この乱用のための譲歩がその書物のどこかにあるならば、すべての裁決がそうであるのと同じように完全に無視された。われわれはただ、われわれの教会指導者たちが、それが祝せられた秘蹟[御聖体の秘蹟]に関する限りは、乱用を改善するのではなくて、絶滅させるのだという理解に最後には至られることを祈ることができるだけである。そして近代主義という新しい異教主義の操作の利益になるように常に事を運ばないために、そして次に手による聖体拝領と臨時奉仕者たちの完全な、公式の、曖昧でない非難がわれわれの指導者たちの唯一の真のカトリック的な選択であるように祈るだけである。

聖なるものについての感覚

秘蹟は教会が所有する最も貴重な宝石である。そして御聖体はすべての秘蹟のうちでも最も偉大な秘蹟である。なぜなら、他のすべての秘蹟においてわれわれは秘蹟的な恩寵を受けるのであるが、しかし御聖体において、われわれはキリスト御自身を受けるからである。それゆえ、祝せられた秘蹟が教会が所有する最も偉大な宝物であるからして、御聖体はそれに相応しいあらゆる尊敬と栄誉をもって扱われなければならないのである。そして神聖冒涜を妨げた第二ヴァチカン公会議前のすべての障壁は教会の生命と信徒の聖性に不可欠なのである。

われわれの教会指導者たちでさえ、「われわれは聖なるものについての感覚を失った」と嘆くのをわれわれはどれほどしばしば聞いたことか。これは、あたかもそれがある種の不可解な事であるかのように--教会人が発し得る最も驚くべき陳述の一つである。なぜなら、聖なるものについての感覚は失われたのではなく、われわれはそれがどこにあるのかを正確に知っており、そしてそれは明日にでも地球上のどのそれぞれの小教区においても回復され得るであろうからである。「聖なるものについての感覚」は祝せられた秘蹟に対する尊敬を守ることが最も重要なものとして実践に移されるところではどこでも見出されるのである。しかし「聖なるものについての感覚」は失われたのではない。それは、御聖体の品位を落とし、伝統に対し、われわれの父祖がわれわれに教えたことに対する軽蔑を示し、前例のない大きさの信仰の世界的な危機へと導いた新奇な実践を教会の中に導入したカトリック改革者たちに扮した近代主義という新しい異教主義の傲慢な手先たちによって、熟考した上で投げ捨てられ、レールで町の外へ投げ出されたのである。

しかしわれわれにとって、神の恩寵を通じて、それは何ら難問ではない。われわれは正確に、どこに「聖なるものについての感覚」が見出されるかを知っている。そしてわれわれは熱心な粘り強さをもってそれにすがりつく。それは、そこで祝せられた秘蹟が典礼のあらゆる瞬間の中へと深く染み込ませられている、そしてそこで手による聖体拝領と「聖体奉仕者たち」が今なおカトリック的な目で恐怖のうちに眺められ、そいてそれらが場違いの、神聖冒涜的な非カトリック的な実践としてはっきりと認められる古いラテン語のトリエント・ミサの挙行のうちに見出される。

2004/04/09 三上 茂 試訳

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