アイルランドの聖なる労働者マット・タルボトの生涯

アイルランドの聖なる労働者
マット・タルボトの生涯

光明社 述
ドン・ボスコ社発行

昭和十一年
(1936年)

 

目 次

一、

まえがき

二、

その前半生

三、

結婚問題

四、

彼の性情

五、

彼の日常生活

六、

タルボトの信心

七、

読書と苦業

八、

彼の隣人愛

九、

疾病と急死

十、

むすび

Matt Talbot (1856-1925)

Wikipedia-en

(一)まえがき

 1925年、即ち今から十年前の6月7日の日曜日、アイルランドの都ダブリン市にある「救世主の聖堂」の前庭で、年齢七十歳ばかりの労働者風の男が、突然倒れて死にました。
 然るにこの名もない死者の上衣の下から、苦業の繩などが見出されたので、人々は深く驚きと尊敬に打たれざるはありませんでした。
 彼と同じ工場に働らいてゐた一人の同僚は言った。
 『この人は我等の組合のうちでも一番忠実な、そして至って無口な会員で、気立のやさしい深切な方でした。』
 彼を知る雇主は言った。
 『彼は非常に良心的な労働者でした。どんな辛い仕事でも非難の打ちどころがない程よく勤めてくれたものです。』
 彼と同じ聖堂に出入する人は異口同音に語り合った。
 『この方は日曜は無論のこと、毎朝のミサでもきっと跪き通しで拝聴してゐました。信者の会合には欠かさず顔を出し、フランシスコの第三会員の定例集会にも欠かしたことはありませんが、それでゐて誰からも別に注意されないほど謙遜でした。』
 以上の様な評言から考えてみても、この無名の痛悔者がどんな信仰の所有者であるか、又どんな生活をしてゐたかゞ分りますが、実にこの一労働者こそ今既に伝記まで書かれ、本国アイルランドは勿論のこと、ひろく欧米のカトリック界に紹介され、現代の聖なる労働者として讃嘆と敬意とを受けてゐるマット・タルボト其人であります。
 彼は、静かな森や、浮世離れた修院に於てゞはなく、埃[ちり]と煤煙と喧噪の巷に貧しく、虔[つゝま]しく、勤勉に、聖者の様な一生を終った一労働者でありました。

(二)その前半生

 マット・タルボトは1857年、アイルランドのダブリン市の貧しい一労働者の家で呱々の声を揚げました。
 彼は長じて北リッチモンド街にあるクリスチャン・ブラザーの小学校に通ひましたが、家事の都合で、早くも賃仕事ちんしごとに雇はれる身となりました。少年時代のタルボトは同じ年輩の少年たちと変ったところはなく、可なり悪戯児[いたづらっこ]でした。
 或日のごとき、他の兄弟たちと一緒に謀[たくら]んで、家の豚を親に内密で売り飛ばし、其金を好きなことに費[つか]ってしまひました。後でその事がばれて、他の兄弟たちはひどくお小言や罰までも頂戴したのに、タルボトばかりは其を巧みに逃れてゐました。それだけ頭が他の兄弟より敏活に働いてゐたのです。悪戯[いたづら]で頭がすばらしく利くタルボトが、次第に世間に慣れだすやうになった矢先、一つの悲しむべき悪癖がつきました。それは当時彼が雇はれてゐた店で、自然におぼえた飲酒の癖でした。時には自分の靴を売り飛ばして酒代にし、靴下だけで家に帰ったことも稀ではなかったとは、母親が後日自分の息子を追懐して言ってゐる位ですから、若[も]し彼にして其後この悪習を脱するため、断乎たる禁酒に出[いで]なかったならば、恐らく今日の如き名を残さなかったでせう。
 後日彼の成人期と晩年を際立てゝ特徴づけた「聖徳」も、素より見出されよう筈はなかったのです。而かも斯うしただらしない生活が、彼の廿五歳頃まで続いたのでした。ところが、或日のこと彼は何を考えたか、突然母親に向ひ、以後断然禁酒すべき旨を告げました。けれども母親は余りに突然な事で我子の志を危んでか、それを俄に感心する様子もなく、単に彼の決心が崩れないやうに天主のお恵を願ってやるばかりでした。けれどもタルボトの決心は動きませんでした。彼は当時禁酒運動を鼓吹してゐたキーン師を訪れて、向ふ三ヶ月間の禁酒誓約を立てましたが、其期限を過ぎて更に一ヶ年に延長し、更に延長して全生涯の誓約を新[あらた]にしようとしました。タルボトの意志の堅固なるを認めたキーン師は、十一年後に、彼の決心を祝して其望み通りの誓約を許しました。タルボトは此時喜んで其由を親に告げ、心から母に喜んで貰ひました。

(三)結婚問題

 仕事の関係で彼はペンバートン[Pemberton]といふ町に暫く働いてゐましたが、三十七歳の時、ノース・ワール[North Wall]のマーチンといふ会社に雇はれ、其処で健康を害して、やめるやうになった1923年まで、勤勉に働きました。
 その時分のタルボトは母親と一緒に居たので、町家ちょうかの一間を借り一週二シルリング三ペンスの間代を払い乍ら、質素に、けれども幸福な生活を続けてゐました。
 タルボトは遂に独身で一生を終りました。
 彼がペンバートンにゐた時分、プロテスタンの一牧師の家に下僕のやうにして使はれてゐたことがありましたが、この牧師の家にはもう一人カトリックの女中が雇はれてゐました。彼女は大変信心で善良な娘でしたが、タルボトの感心な行状を毎日注意して観察してゐました。またタルボト自身も、彼女の信仰の深いのにいたく興味をもってゐました。
 遂に娘の方からタルボトに結婚の申込を持ち出して、自分には一家を支えるだけの経済的な準備があるが、この結婚を承認してはくれまいかと誠心[まごゝろ]を打開けて来ました。タルボトも嬉しく思ひましたが、結婚の重大なことを思ってゐた彼は、先づ結婚が自分に対する神の聖旨[みむね]であるか否かを知らなければならぬから、九日間の祈りの後に事を決しようと答へました。そして彼は直ちに熱心に九日間の祈りと黙想にかゝりました。其間に独身たることが主の聖旨であることが明[あきら]かになったので其旨を娘に告げ、自分との結婚を断念するやうに諭しました。彼は其後もこの決心を些[いさゝか]も動揺させませんでした。

(四)彼の性情

 タルボトの生活の態度は彼が全生涯の禁酒誓約をした時から最早懺悔痛悔の苦業で染められてゐました。そして其は、日と共に月と共に益々厳しさを加へ、四十歳以上に及んでもいよいよ精進の熱度を高めて行きました。
 二十五年以上もタルボトを親しく知ってゐた一紳士は、彼の容貌や態度に就いて次の様なことを記してゐます。
 『彼は一見他と異[ちが]った印象を与へなかった。先づ極く平凡な型で身装[みなり]は貧しいが何でも清潔にしてゐた。身丈[みたけ]は中背以下で痩形だけれども可なり屈強な体格の持主だった。歩く時は敏速に、大股に、身を緩く泳がせながら足をはこぶ。態度は全く素朴で自然で些もわざとらしさがない。眼眸[めつき]は物に触れるといふよりは内観内省の閃[ひらめき]を示し、広く俯目勝に開くのがいかにも真面目な考え深い表情を額全体にあたへてゐた。
 話題に興味が乗ると、生々として強い感激の情を見せ、時には燃える様な興奮を示すことさへあるが、普通には思慮分別のある実際的な、いかにも敏捷な判りのいゝ常識のある人物であることを思はせる。之を全体として云へば朴訥な飾りのない人間で、しかも非常に興味を惹く人柄であった』と。
 尚ほタルボトの姉妹の言[ことば]には、彼はいつも、同じ快活な気分で、沈鬱でなく、時には無邪気な諧謔さへ弄することもあって、粗暴な言葉を発することなどなく、部屋にゐる時は好んで讃美歌などを口吟[くちづさ]んでゐたといふことです。

(五)彼の日常生活

 労働者の家に生れ、幼くして日雇の生活に入り、七十歳の一生を貧しい一労働者で送ったタルボトの日常生活ぶりは、彼が真面目な禁酒会員となって、忠実に働くやうになった後でも、別に之といって取り立てゝ記すべきものを持たず、外面的には平凡な、だが極めて篤信、敬虔で、平和で世話好きで、勤勉、親孝行で、兄弟思ひの深い、一個の感心なカトリック労働者としての日常に過ぎなかったが、其の生涯の数年間は実に緊張した信仰の生活でした。
 彼は毎朝二時といふに起きた。その床[とこ]といふのも板張りのもので、それを一枚の敷布で蔽[おほ]ひ、寝る時は厳しい寒さの日以外は半分の毛布をかけるだけでした。たゞ深切な兄弟の注意にまかせて、僅かの布物[ぬのもの]を加へたが、温[あたゝか]い寝具は用ひませんでした。
 二時に目を醒[さま]した彼は、先づ両手をひろげて四時迄お祈りをする。四時が打つと衣服を着けて、五時のミサに行く準備の信心をつゞける。それからガーヂナル街にある聖堂のミサに出かける。五時のミサが五時半に変更になった後[のち]でもやはり、其時刻に家を出て、三十分は聖堂の前に跪いて扉の開[あ]くのを待ってゐる。そして外套で膝の見えない様にしてゐるので、余程注意をする人でないと彼が跪いてゐるのが分らなかったといふ。時間になって聖堂の扉が開くと、彼は閾[しきい]のところで跪きの礼をし、石床[いしどこ]に接吻して中央の祭壇の前に進む。
 後にミサが六時十五分に始まる様になった時、ミサの前に十字架の道行をし、ミサの間に聖体を拝領した時は、ミサが終ってからも長く感謝して聖堂を出た。
 聖堂から帰る時もあちこちに気を配らず真直に家に帰った。朝食には、前晩[ぜんばん]に彼の妹が仕度して置いた茶とパンとを摂るだけで、勤め先の会社へ出勤した。この出勤時間は曾つて遅れたことがなかったと、別々な時に監督に立ってゐた、そして三十年もタルボトを知ってゐた二人の紳士が言ってゐます。
 一日の仕事中でも、下らぬ饒舌[おしゃべり]や、猥[みだら]な冗談ごとには耳を貸したことなく、仕事の都合で暇が出ると蔭へ行って独り跪いて、仲間の罪のために償ひの祈をすると言った風でした。若し誰かゞ他人のことを悪口[わるくち]したり、嘲ったりでもするのを聴くと、帰る時などに待合せて其人に忠告したり、時に信仰や修養上の本などを貸したりして、欠点や過ちを矯正するやうに深切に仕向けました。
 最初は仲間もタルボトの振舞を嗤[わら]ってゐたが、後には彼の性格の剛[つよ]いのや、陰陽[かげひなた]のない誠実なのに誰も敬服してゐました。
 昼の食事の如きも至極簡単なもので、他人が努めて慈味[おいしいもの]を摂ろうとする時でも、彼はいつも粗末なもので満足しました。そして余った昼休みの時間にはよく祈りをしてゐましたが、さういふこともなるべく他人から知れないやうにしました。又、中休[なかやすみ]の時間などには、よく同僚と聖人のことや信仰の談[はなし]をしたが、聞く者も興味をもって聴いてゐたといふことです。
 或日、仕事のことで監督の者に強い言葉を云ったことがあったが、二、三日後にタルボトは自分から言葉の不敬に流れた点を詫び、そして彼は「信仰が自分に赦しを求めることを奨[すゝ]めた」といひました。
 タルボトは仲間の不幸や気の毒なことがあると、それを黙って見てゐられなかった。給料や時間などについても仲間のために大[おほい]に弁じたり、権利の擁護をしてやったが、自分のことに関しては全く無欲でした。
 一日の仕事が終って家に帰ると仕事着を脱いで跪いて十字架に接吻をし、それから其儘で妹の用意してくれる食事をする。妹が部屋を片付けてしまうと、独り部屋に残って其晩の信心の業を始める。それが十時まで続く。それから寝[しん]に就くといふ風でありました。

(六)タルボトの信心

 タルボトの信心がどんな風であったかは前に述べた彼の敬虔な日常生活から大部分は判断がつきますが、その内的な深さやまた人知れぬ信心の業などを全体に合[あわ]せてみることは必ずしも容易な業ではありません。しかし此処[こゝ]に彼の信心の一般を紹介して、この一労働者の霊魂の尊さを知るよすがと致しませう。
 タルボトが日常生活にも、朝は二時から五時近くまで、それから夕方は六時三十分から十時半、時には十一時迄も祈り、ミサ拝聴、聖体拝領、黙想、感謝などの時間に充[あ]てゝゐたことは前に述べた通りであります。つまり一日一日はタルボトにとって文字通り「祈祷[いのり]と労働」であったのです。それで平常[ふだん]でも斯[こ]うであったならば、日曜日はどうであったろうといふに、それは実に充実しきった信心の一日であると云へませうか。
 タルボトは毎日曜日、病気になる以前はいつも子供が父の家を訪れでもする様な心で、朝の五時半といふに自分の住居[すまゐ]を出て、聖堂に行き、それから大抵午後の一時半に終る最終のミサに伴う降福祭までは、聖堂で過ごしました。彼はこの間の祈[いのり]に祈祷書を用ひたことがなく、心で或は口祷で祈りを繰返してゐました。
 日曜日に彼が家へ帰るのは大方は午後の二時頃でしたが、それから軽い食事をして、また夕方にはガーヂナー街にある色々の会に出席するのでした。
 タルボトは或る信心会の会員になってゐましたが、その外[ほか]にも殊に聖母に対する信心深く、毎日ロザリオを唱えることを欠きませんでした。また其他の信心業では、聖霊に対する祈、聖ミカエルに対する祈、煉獄の霊魂の救いを求めるコンタツ等で、彼は之等を一日も怠らなかったといひます。
 それからタルボトは聖フランシスコの第三会員でしたので、この会に定[さだ]められた祈りも几帳面にし、第三会の定例の集合にもよく出席しました。会員中の死者のために共同でコンタツ三環を唱えるといふことになってゐましたが、タルボトは其を欠かしませんでした。そして斯様[かよう]な特別な祈りは、毎日彼が定めてゐた祈祷[いのり]の以外[ほか]に加へてなしてゐました。
 タルボトはまた、いろいろの信心の本から抜いて編まれた連祷を毎晩自分の祈[いのり]の間に唱えてゐました。
 聖会暦のいろいろの祝日には、タルボトは、その祝日のため特に九日間の祈をしましたが、時には其が前後相続いて重なることもあったといひます。
 毎月の初金曜日の前晩[ぜんばん]、タルボトは所謂聖時間即ち木曜日の晩十一時から十二時まで、ゲッセマネの御心痛を尊ぶ時間を守りました。
 以上の実例でも分るように、タルボトの信心は決して一時的な気安めな、思いつきの様な感情的なものではなく、彼の深い霊的生活から自然にもとめられて行[い]った類のものであります。そして真[まこと]の信心の人は真の祈りの人であることもタルボトに於て見られるところであります。
 「祈りの人」であったタルボトは屡々他人から祈りを願はれることがありました。彼の記録に残ってゐる所を見れば、そうした祈の数や、彼の祈りによって受けた恵[めぐみ]に対する感謝などが如何に多かったかゞ知れます。彼の祈りによって改心した例とか、物質的な不幸や他人との争ひから救はれた例などゝいふ様に、いろいろな方面にタルボトの祈りの結果が現れてゐました。斯ういふことがありました。或る三十年近くも秘跡を怠ってゐた者が、或る日、タルボトと禁酒の問題に就いて議論を交へる機会がありましたが、其際タルボトは本人の霊魂のことについて悟り、本人が三十年間も告解も秘跡も受けないでゐるといふことを告白したので、その霊的危険にあることを忠告し、次の朝告解をなすやうに奨[すゝ]めました。それから少し経って、本人はタルボトの深切な忠告によって霊的平和を恢復[かいふく]した由を感謝しましたが、其後[そのご]幾許[いくばく]もなく、其当人は仕事の事故で不幸にも生命を落して了[しま]ひました。若しタルボトの忠告と祈りがなかったら、この人の永遠の運命は平和でなかったでありませう。

(七)読書と苦業

 やっと小学校を出たばかりで一生を労働ですごしたタルボトの如き人と読書とは大した関係がないかに思はれやうけれども、決して左様ではありません。尤[もっと]もここで読書といふのは専ら彼の信心から要求された霊的読書にかぎるのですが、其範囲に至っては彼の素養と境遇から見て実に驚く程であります。由来[=元来]霊的読書なしに真[しん]の信心を解し、高い霊的生活に進む者は先づ極めて稀であるといはれてゐます。
 今彼の親しんだ書を見ますと、大きな聖人物語全集をはじめ、聖母に対する信心書類[るゐ]、主に対する信心書類、中にも御苦難に関するもの、「聖心の模範」、「基督の学校」、「人間中の基督」、アグレダのマリアの手になった「神の神秘的都[みやこ]」、フェバーの名著類、サレジオの聖フランシスコの「信心生活の入門」、グルーの名著類等いづれも心霊生活上の名著が大部分を占めてゐます。そして是等[これら]が買い求められた月日[つきひ]を順序を追ってみますと、タルボトの信心の進歩、心霊生活上の知識の深まっていった次第が能[よ]く跡づけられるのであります。
 タルボトにとって斯様[かよう]な霊的読書は一つの聖[とうと]い日課で、彼は毎朝、何かの霊的読書を祈りと同様ひざまづいてしたのでした。そして彼はいつも読書の前にはきっと、聖霊の照[てら]しを祈ったといふことですが、学歴とて碌[ろく]にない彼が、これ程の霊的知識の宝庫をひらいて、そこに秘められた聖い心霊生活の糧を味はい、其の滋味[じみ]で己が霊魂を養い得たといふことは、確[たしか]に聖霊の賜[たまもの]である叡智、明達の能力によったものと見るべきでせう。その故にか、タルボトが聖霊に対する信心はまた格別で、その信心書の如きは表紙も大分[だいぶん]に傷み、手垢がつき、一見して如何に愛用されてゐたかゞ知れたといふことです。
 伝えるところに由ると、タルボトは記憶力が非常によく、読んだ書中の事柄や、聖人の生死年月や、列聖の年月日までもちゃんと覚えてゐて、工場などで休み時間には、よく同僚に聖人のことや、自分が読んだ敬虔書の内容のことを話したりしたといふことです。
 実にタルボトの読書は聖者の読書であったといはれませう。
 次に彼の苦業のことですが、タルボトの節食と苦業は、さながら中世アイルランドの古聖者を偲ばせるものがありました。日曜日や聖会暦にある祝祭日や其季節の外[ほか]はほとんど毎日、大小斎に近い節食を実行して、余程健康が要求しない限り決して余分な滋養物など摂りませんでした。然しタルボトは他人から馳走を勧められた時などには、それを断る様なことをしませんでした。で、之を知った或友人はタルボトの健康を心配して、時にはわざわざ自分の家に招いて食事を共にしたといふことです。食事でさへ右の次第ですから、凡[すべ]ての嗜好品などを遠ざけてゐたことは勿論のことで、飲酒は既に絶対禁酒を守り、其他青年労働者に共通な、そして自分も一時好きであった喫煙の如きも全く抛棄[ほうき]してゐました。
 其他タルボトの苦業について著しいことは、或信心の念から常に鎖と繩とを肌身につけてゐて之を寝る時も働く時も放[はな]さなかったことです。そして謙遜な彼は之を他人に知られることを好まず、妹にも秘してゐる位でしたが、徳はいつか現れるもので、彼の急死に依って果然[はたせるかな]この苦業の秘密が世に公に知られることになり、世人の感嘆の的となったのです。尚ほ細かに記録すれば以上の外にもまだまだありますが、読者は之だけでも苦業者としてのタルボトの俤[おもかげ]が充分に偲ばれませう。
 無論、斯様な苦業は萬人が萬人、之を無分別に倣[まね]るべきものではありません。外部の苦業よりも内的の信心が大切であること、タルボトの聖いところも寧ろこの内的の心霊生活の深さにあったのです。ですから信心生活を養うための手段として自分の健康や職業にさまたげとならない程度に、そして大抵は司祭の意見を聞いて行ふ苦業ならばいいのですが、無思慮なことは却って信心の害となることを忘れてはなりません。

(八)彼の隣人愛

 これまで述べたタルボトの生涯のことは主[おも]に彼の信仰生活の外部的方面でしたが、然しよく其等を熟読玩味すれば、彼の霊魂の内部に湛へられてゐた神への深い愛をうかゞうことが出来ませう。そしてまた、この愛がタルボトを枯木冷灰[こぼくれいかい]の人としないで、温[あたゝか]くひろい隣人愛の情味[じょうみ]ある人としてゐたことも推量することができませう。
 タルボトは自分が青年時代の危機から転じ得たことを、天主の大きなお恵として度々妹に物語りましたが、その度にいつも口癖の様にかう云ひました。
 『みんな天主様がなすったことです。自分のはたらきなどは些かもありはしない』と。
 謙遜な彼は妹に聖い事を話すときにも、自分のいふことがもしや大言壮語になりはしないかと常にきづかってゐたといふことです。
 タルボトがどれ程神愛[しんあい]に満たされてゐたかは、次の様な事実からも知れます。
 彼は天主に対する愛の心の動きをしばしばぢっと抑えてゐることが出来ないで、談話にもそれを公然と挿[さしはさ]んだりしたので、友人はタルボトが霊的な慢心に陥りはしないかと心配したことが幾回かあった位であるといひます。
 或時の如き、その友人の一人が深切にもタルボトに注意して高い祈祷[いのり]の精神にめぐまれた者が陥りやすい自己満足の危険のあることを語ったほどでした。然しタルボトはそれを別に不快には聴かず、たゞ自分は大聖人などゝ考えてもいなければ、またそんな誇[ほこり]も持ってゐない旨を素朴に答へました。それから後といふものタルボトは友人と会話する時にこの事を忘れてゐないことをよく物語ってゐたといひます。
 或日一人の友人が、その事を或司祭に話しますと、其司祭は聖書にある聖母の立派な讃美歌の例を引いて、これは婦人の中の最も謙遜な聖母の作であること、天主が一つの霊魂にはたらきかけ給う所の聖業[みわざ]を公に語るといふことは真に謙遜に徹してゐるものにして、初めてなし能ふものであることを語られました。実にタルボトが自分に与へられた天主のお恵を他人に公然と物語ることを些も恥じ怖れていなかったのは、真に謙遜であった彼の性格の強さに由ってゐたのであります。
 斯様な点を考えると、タルボトが自分の霊魂に満ちてゐた神の愛を、その周囲にどれ程拡めてゐたかゞ伺はれますが、今其実際の例を少し述べてみませう。
 彼の隣人愛は実に模範的でありました。彼がまだ母親と一緒に生活してゐた時でも、自分の用度ようどを出来るだけ節して母親を慰め、其上乏しい給料を割いて貧しい人々に施してゐました。其後母親は世を逝[さ]りましたが、大戦の影響を受けて彼の収入は一層乏しくなりましたが、それでも節約して得たお金は悉く施与[ほどこし]として提供してゐました。
 それ程ですから、彼が殆ど全ての特別慈善団体の募集に応じてゐたことは驚くにあたりませんが、時にはそれが巨額にのぼることも稀ではありませんでした。然し謙遜な彼はその名前さへ逸[いっ]しられてゐました。ことに彼は東洋伝道のための寄付には強く心を惹かれて常にそれに奮発してゐました。その金額だけでも一ヶ年三十ポンド(三百円)にのぼってゐました。
 或日タルボトは妹にかう云ったことがありました。
 『これで三人の司祭様の分は済んだから、今度は四人目の司祭様のためだよ』
 この意味は支那司祭養成のために既に三百円づゝ三年つゞけて贈ったこと、そして今は第四回目の司祭のためであるというのでありました。1923年に彼が病床に就いたとき、恰[あたか]もこの第四回目の寄付が果[はた]されたのでした。
 一労働者の身でそれ程の大額を節約し出すといふのは、決して並大抵の辛苦ではなかったに相違ありません。タルボトが温い隣人愛の人であったこと、隠れた慈善家であったことは以上述べた事実だけでも明[あきら]かでありませう。

(九)疾病と急死

 タルボトが初めて病人として医薬を用ひる様になったのは、1923年の5月からで、その時彼は六十七歳でありました。
 深切な友人の一人は、タルボトの病気のことを聞くと直ぐ、町の聖母愛憐会で経営してゐる病院で治療を受けるやうに紹介までしてくれました。そして診断の結果は入院しなければならないといふのでした。タルボトは入院する前に平常[へいぜい]肌身にしてゐた苦業の鎖と繩をはづしてゐましたが、入院中でも治療の時は、それを誰にも知られない様に、身につけていなかったといふことです。これは他人に見られることを怖れたのではなく、全く彼の謙遜によったものでした。
 タルボトの病院生活はまた感嘆すべきものでありました。忍耐、沈黙、信心、祈祷の人としての印象は、その時分彼に接した者の誰もの記憶に残ってゐました。
 彼の入院は、翌年八月から約一ヶ月の中休をのぞいて、1923年の5月から翌々年の4月中旬まで約三ヶ年も続きました。この間はタルボトが会員であった或労働組合から一週十五シリングの補助を受けることになりました。タルボトは病床にありながらも、他人に施すことは決して忘れませんでした。
 彼が入院した年のクリスマスのことです。或匿名の寄付金がダブリン市にある聖パウロ会の中央事務所に貧しい人々のためといって二十ポンド(二百円)の金を置いて行った者がありました。この金の出人[だして]こそ実にタルボト其人であったことが、彼の死後に確かな証人の口から物語られました。無論この金額も彼が自分の用を節して貯えてゐたものに相違ありません。
 其内に殆ど足かけ三年の長い病院生活の月日も過ぎて、1925年の春4月になると、タルボトの健康はまだ全快とはゆきませんでしたが、大分気力が出て来てゐました。
 勤勉な彼は、既に病院で七十歳を迎えてゐたのですが、もう安閑として病床に伏してゐられなくなり、友人がまだ早いからと注意してくれるにもかゝはらず彼は『いやもう大丈夫です、私は怠けては居[を]られません』と云って或木工場に働きはじめました。そして実にこの晩年最終の労働生活は彼が1925年の6月7日、聖三位の日曜日の朝、聖堂の前で急死する前日まで続いてゐたのでした。
 この朝にはタルボトは病床以来、余儀なく健康の当時続けて居た信心の時間割を変更してゐた関係から、五時半に普通の通りミサにあづかって、朝食のため八時半に一旦自宅に帰り──以前はそのまゝ午後二時まで教会にゐた──それから再び出掛けて丁度ドミニック街の「聖救主の聖堂[St. Saviour's Church]」の前まで来て、将[まさ]に中へ入らうとした時、忽然として其の霊魂を天主のにお返ししたのでありました。

(十)むすび

 以上述べたタルボトの聖い生涯の事柄は確[たしか]な記録によるもので些[いさゝか]の誇張もありませんが、貧しい家に生れ、七十歳もの長年月の中[うち]、四十三年も一介の貧しい独身労働者として世を送った、タルボトの感ずべき生涯其ものは、直ちに立派な生きた教訓であり、刺戟[しげき]であることは誰しも認めることでありませう。
 アイルランドでも近頃では労働争議や其他時代の悪い風潮が見えて敬虔な古老を悲しませてゐるといふことでありますが、今日尚ほタルボトの如き世に隠れた聖い痛悔者、苦業者のあることを思えば、中世紀アイルランドの古聖の霊が亡びてゐないこと、そしてタルボトの如き生きた模範が世に一層その精神を強く覚醒[めざめ]させてどれ程世を益するに至るべきかを想はされるのであります。そしてまた、この聖い生命こそ古来からカトリックの中に、どんなに時代が変っても亡びないで常に新しく生々として流れてゐるものであります。カトリックが時代の悪風潮を改めるは単にその真理からばかりではありません。実にタルボトの如き神に於て基督と共に生きる活信仰[かつしんこう]の模範があるからであります。斯様な聖い生活こそ世の混濁を清める真の力でありませう。
 聞く所によりますれば、彼の聖徳を欣慕[きんぼ]する者、年と共に其の数を加へるの有様で、既にダブリン大司教はタルボトの列福調査を進めてゐるといふことであります。我等は、彼の聖徳が弘く萬人に知られて、善き模範となるであろうことを待ち望んでゐる。

(おわり)

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